カテゴリー「映画」の記事

2014年2月 8日 (土)

『永遠の0』 映画の方

お正月休みに、実は映画も見た。

不覚にも涙ぐんでしまうシーンもあったのだが、泣くのはこちら側の理由で感情を重ねて見てしまうところがどうしてもあるからで、だからといってこの作品をほめたいわけでもない。泣かせる技に長けてる分だけ始末が悪いということもあったりする。

シナリオは、日本の戦争映画の定石、「戦争犠牲者の内面の悲劇を描く」をやっている。何がだめなのかといえば、そこが徹底的にだめだ。周囲と軋轢を起こしても愛するもののために死なないように戦うという設定は原作と同様だが、主人公はどうしようもない流れにおしつぶされていく名もなき人々の代表例のように描かれてしまっている。あるいは、当時の軍部の愚かさを否定的に描きながらも、結果として特攻で死んでいった登場人物たちの死が無駄死にではなかったという方向に絶えず物語が傾いていく。おそらくは、それらの死が本当は戦闘においては全くの無駄死にであったからこそ、むしろ個々の兵士の内面の価値を強化することで戦いそのものの意義を支えざるをえないのだ。兵士個人の視線から出ずにその死の尊さを讃え、兵士の内的動機の側から戦う理由を支えることで、結果としてその人々が守ろうとした国家、特攻という愚行を生んだ国家の犯罪から目をそらし続けるようにして物語は進む。あの戦争のだめだったところを一面でとらえながら、結局のところ、映画は現代日本の映像に戻り、この豊かな発展した国家を守る意味を訴えるという構図に陥って、防衛省協賛映画になって終わる。終盤で、現代の町並みにいる宮部の孫の上を特攻機にのった宮部が通り過ぎるシーンはまるで自衛隊の宣伝ビデオで、そのやり口のおぞましさに気分が悪くなる。

小説で特攻隊の生き残りのビジネスマンと新聞記者が言い合うシーンは、宮部の孫の青年が友人たちと特攻について異なる意見を吐いて奇異な目でみられ合コン中のレストランを立ち去るというシナリオに置き換えられている。原作にあった無理矢理な感じは解消されて、自然な形で映像化されていると思うが、特攻はテロであるという考えは軽薄な青年たちの言動とともに徹底して否定にされる。この時代に、特攻が国家による個人に対するテロだと考えるならともかく、この国家意識はいったいなんなのだと感じざるを得ないのだ。

VFXを駆使した空中戦は、ほめていいのかけなしていいのか僕はわからない。監督は、実写版の『宇宙戦艦ヤマト』を作った人で、あの作品は、VFXを作った残りでセットを作って演出をしているようなひどい映画だったけど、この映画はそんなことはなかった。セットも道具類も丹念に作り込まれていて、それなりのリアリティを保っている。零戦も空母のデッキもよくできていたと思う。空中戦も迫力がある。ストーリーはともかく、監督がやりたかったのはそっちの方なのではないか。VFXで太平洋戦争を描きたい監督の希望と、国を守る軍人の魂の潔さみたいなものを描きたい制作側の意図が合致して何とも気持ち悪い融合をもたらしたのではと邪推したくなるほど、VFXには力が入っている。この共犯関係は今の日本を象徴していると思うのだが、それについてはいずれまた。

ここには、たとえば海行かばを大声で歌って軍国主義を賛美する右翼の宣伝カーのようなあからさまな描写があるわけではない。役者の演技も丁寧に撮られていて、ドラマもある。国民的な支持を得るという目標ははじめから設定されていたと思う。いろんな企業が共同で作っているから、失敗できないというところもあっただろうし、防衛省だの内閣府だのが手伝って、文科省もおしたりしているので、過激な主張はあまりなくて、しみじみと戦争はよくないものだという感想とそれでもその時がきたら人は(まじめに生きているほど)精一杯戦わざるを得なくなるのだという事実に気づかされるように仕立てられている。この安全そうな見せかけは現代の穏やかな右傾化と本当によく整合する。

戦争について言うならば、問題はむしろその手前にある。あるいは、そこから向こうにある。なぜ、人々がやむを得ず戦いに赴くのか。なぜ、まじめな人々が愚行を繰り広げることがあるのか。そもそも、戦争を指揮していた連中は何をしたことになるのか。その大事な点になると、宮部が個人的な葛藤に苦悩しながら人々の注目をそらし、大事な論点をずらして人々の目を外に向けさせるのを拒むのだ。これは、結局のところ、注意深く作られた零戦礼賛と軍人礼賛映画じゃないかと言ったら怒られちゃうのだろうか。軍人だって人の子だし、戦争といったって、それはいろいろ戦争があるわけだけど、特攻隊員の生を肯定することで、間接的に特攻を擁護して、戦争のマイナス面を覆い隠すような作用をもった単純な映画であることは隠しようも無いと僕は思う。原作はまだ日本軍に対して厳しい表現がなされているけど、映画はそうでもない。上官の愚は表現されても、ひとりひとりの隊員はせいいっぱい生きたというところに結局行き着いてしまう。涙ぐんどいて言えた義理ではないけど、今こういう形で本作を映画化するのはかなりあざとい。

先日、首相の靖国参拝に関連して、靖国神社の遊就館がとてつもない歴史修正主義のたまものの展示であふれているといった指摘がアメリカで出たという記事が出ていたけど、ぼくはその新しくなった遊就館にもそれほどひどい印象は抱かなかった。軍国主義グッズの集大成みたいなお土産コーナーは別として、馬鹿爆弾「桜花」が展示されてたり、兵器の一部が展示されていたり、軍人の書だの軍服だのが展示されているところは、世界中どこの戦争記念館でも同じだろう。むしろそれらを見終えて感じたのは、戦争から受けた被害、犠牲、徒労といったことに対するどうしようもない悔恨である。もし、遊就館が修正主義だというなら、それはその悔恨が家なる悔恨であって、どのような意味でも侵略についての記録ではない点にあるんだろう。それは必ずしも戦争否定ですらないのだから。そうした側面は『永遠の0』にも明確にあって、僕があざというというのは、日本が敗戦国として被った精神的なダメージからの回復を心の底で願い、独立国として普通の姿を取り戻したいという静かな自意識の芽生えのようなものが充満しているこの時代に死なないための戦争像を提示するしたたかさなのだ。おそらくは現代的な真の軍人像として描かれている死なずに妻のもとに帰りたい戦争犠牲者宮部が決意して改めて特攻に向かい誰よりも敵艦に肉薄し敵を震え上がらせて自爆するシーンをクライマックスで描くこの最期のシーン、まなじり決して米国の空母に突入していく宮部機にはある種胸のすくような疾走感が漂う。それは、大リーグとの親善試合で1点に押さえた沢村栄治に抱くような思いに近い。僕のような徹底的に国家が嫌いな人間ですら、日本人がこのように米国人が驚くような反撃をする姿に心動かされないでもないのだから。また、そうした自分の心の動きを怪しみ嫌悪しながらも、それを否定したら自分の立っている場所は本当は危うくなるのではないかという微かな疑問を感じたりもするのだ。かつて江藤淳さんが、ナショナリティを喪失した日本人が国際社会で身の置き所が無い思いをすることを述べて、国家の自立の重要性を説いていたのを思い出す。このなんともいえない帰属意識は根が深くそうそう簡単に断ち切れるものではないのだ。

主役の岡田准一さんもかっこいいし、演技に文句もないのだけど、役者としての頭のよさからか、原作が求める本質よりは映画が観客に見せたがっている演技をしてしまっている。役者に罪はなくとも、本作の与える印象の肯定感は主役の岡田さんからも強烈にもたらされていることは間違いない。妻役の井上真央さんの演技は知らぬ間に立派な女優さんになったのだなと思うくらいよかったのだけど、宮部が自分の分身として教え子の兵士を生き残らせ、妻のもとに向かわせ、どんなことがあっても、たとえ死んでも戻ってくると誓った宮部がそのようにして帰ってきたのだと気づき感動するところは、多くの人は違和感を持つのではないかと思う。原作者の思いは僕には分からないけど、そこに泣かなければ、この映画に感動するところのほとんどはは戦場にいくかもしれない男たちのためのものだと思う。つまり、古くからの男女の役割分担に対する肯定を通じて、この映画はもうひとつのあざとい刷り込み、男は外で戦い、女は家を守る、をやりとげる。戦争中の話だからという言い訳はあるだろうけど、端的に言えば、男は命じられたら四の五の言わずに戦地に赴き大事な家族を守るために戦え。女は家にのこって、主人の留守を守れ。と、身もふたもないメッセージが根底にあるのは疑いようもない。多分そうではないというんだろうが、その無意識が国を滅ぼす。重要なのは国家ではない。それを悟らなければ、国家は延命できない時代はもう始まっている。

太平洋戦争中の風景の再現、戦闘機や空母の再現、戦闘シーン、井上真央さんの演技など見るべきものもある。しかし、全体としてどうかと言われれば、これを評価するために今まで生きてきた訳ではないわいと言うほかない。井筒監督が、見た記憶を無くしたいとこの映画をこきおろしていたが、そこまでは言わない。だが、ひとまず、これは労作であるとしても、僕とはどちらにしても関係のない人々の作り上げた労作だというくらいは言っておきたい。残念ながら自分の記憶には長いこと残る作品になってしまった。それだけあれこれ考えさせられたからだけども。単に。サザンオールスターズにもがっかりしたよ。正直ね。 (2014年2月3日、8日 加筆)

| | トラックバック (0)

2013年3月14日 (木)

『ハックフィンの大冒険』 スティーヴン・ソマーズ

最近、映画についててきとーなことを書いているのは、主にHuluで視聴したものなのだが、これもそう。『ハックルベリーフィンの冒険』は、世界文学史上にそびえたつ高峰、ドストエフスキーやトルストイにもならぶ作品と個人的には考えているし、このようなディズニー映画に仕立てられる事がいいことなのかどうかはよく分からないのだが、これもひとつの側面であるし、実際、トム・ソーヤーにしてもハック・フィンにしてもよくできた少年少女向けの文学であるのは間違いない。Wikipediaによれば、マサチューセッツ州コンコード図書館で、発行直後に禁書処分になり、ブルックリン公共図書館などで、少年向けのジャンルから取り除かれ、人種差別を理由に、各地の学校の推薦書籍のリストから取り除かれたりしているので、実はそう思わない人も多いことがわかる。しかし、少年少女向けの文学など糞食らえである。どうぞ、禁止したけりゃすればいい。そういう本こそ、文学として上等だったりするのは歴史が証明しているのだ。

この映画は、ディズニーである以上、自然と主張が穏やかにもなるし、描写もきれいに美しく予定調和的に描かれる。だいたい主人公のハックフィンは、『指輪』のイライジャ・ウッドなのだが、そのかわいらしく聡明なこと。これじゃトム・ソーヤーである。原作のハック・フィンは頭の回転は悪く、汚らしく、浮浪者然とした風貌で、どちらかといえば鼻つまみものである。そのような底辺を生きる子供が当時の大人のモラルであった奴隷制をひっくり返す冒険をするところがこの作品の肝なのだし、もっと言えば、道徳的な行いをすることが自分の友人であるジムを裏切ることであるのなら、自分は不道徳なことをして地獄に落ちようと考える所がこの作品の一番いいところなのだが、残念ながらそのいい場面の描写が心がこもっていない。ハックは、神よりも黒人奴隷ジムとの友情を選択するわけなのだが、その重さが全然描かれていないのだ。その手のことを指摘すれば山ほどある。ま、マーク・トウェインがこの映画をみたら、怒るんじゃないだろうか。

だから、申し訳ないが、ハック・フィンを知りたければ、原作を読め、これは全然ハック・フィンではないと言わざるを得ないと思う。

子供たちが夏休みに楽しむためのものという意義を別にすれば、この映画は、だから、少年時代のかわいらしいイライジャ・ウッドを楽しむ映画である。少なくとも、大人にとっては、そうした見方がメインになるのではないだろうか。原作を忘れれば楽しめない事はない。リアリティについてはうるさいことは言わない。ある程度の時代考証は、しっかりしていると思う。5点中3点くらい。

でも、未読の人は原作を読もう。繰り返すけれど、この作品は、ドストエフスキー、トルストイと並べても遜色のない数少ない古典のひとつなのだから。

| | トラックバック (0)

2012年11月10日 (土)

『ラーメン・ガール』ロバート・アラン・アッカーマン (監督)

西田敏行をはじめとして日本人の出演者の方が多く、セットも町並みも一応日本なので、日本の作品みたい。ただ、全体を通じてどことなくばらばらな印象が残る。主人公がラーメン作りに打ち込むようになる動機、師弟関係の発展、師匠にあたる西田敏行の気持ちの変化や息子との関係、ライバル店との確執、主人公の友人や家族との関係など中途半端な描写が多く、エピソードもとりちらかってておさまりが悪い。かんじんのラーメンに関する描写は執着不足で、師匠のすごさは何も伝わらない。たとえば、主人公がスープ作りで迷うと、師匠は自分の母親の元につれていてって教えをこうのだが、唐突感は否めないし、その結果で何がかわったのかもわかりにくい。主人公のとんちんかんながんばりや、師匠にすぐくってかかる性格もわざとらしさが目についてなんだかふにおちない。監督なのかスタッフなのかわからないが、ラーメン讃歌をつくりたい希望とアメリカの若い女性の日本での奮闘を描くというシナリオとをいいかげんに組み合わせていっぽんでっちあげたというような感じなのだが、いい加減ならいい加減にやるべきところに妙に力が入っていてラーメン食べにくる客とかのれんだとか結構いい雰囲気なんじゃないのかと思うし、西田敏行の頑固親父ぶりも普段の温厚さをかなぐりすててなかなか板についている。現地を知る日本のスタッフがかなりがんばったんだろう。がんばるといえば、主人公もはりきって熱演しているのだが、全体としてはからまわりしている印象が強く残る。山崎努が師匠の師匠役で出てくるし、端々から伊丹十三の『たんぽぽ』を意識しているんじゃないかと思う所もあって、ちくはぐさもそれほど嫌な感じにはならないのだが、やっぱり失敗作かなあ。シナリオの出来の悪さにせっかくのキャストや道具立てが生かされなかった感じがする。熱演している役者が少し気の毒ではある。 最後もあれえ、というような感じなのだが、がんばっている人が集まった結果なのか結構最後までみちゃぃました。映画って、いいもんですね。ラーメン好きのアメリカ人てのはどうやらいるようだぜってのが感じられてこれはこれでよかった。 あ、あとお客が常連で毎日きているような感じで描かれているのだが、それラーメン食べ過ぎだよ。せいぜい週一回か二回くらいにしとこうね。 (追記:IMDBを見ていたら、奇しくも今日は主演のBrittany Murphyの誕生日でした。2009年に若くしてなくなっているとのこと。)

| | トラックバック (0)

2012年11月 5日 (月)

『愛を読むひと』 監督:スティーヴン・ダルドリー

原作が評判になっていた時に読んだ作品が映画化されたとき、少し見てみようかという気にもなったのだが、西欧社会がナチの残党に対して戦後何十年もの間執拗に追いつめてきた歴史にはどこかしら嫌なものがあり、原作の『朗読者』が、まさにそのいやな部分に焦点を当てた作品だっただけに気乗りしなかったのも事実で、今回が初見となった。 そのいやな部分が何かなのだけど、それはアメリカのギャグマンガのつまらなさなんかとも似ていて、要するにどこかに圧倒的優位にたつものの解放する暴力のにおいのようなものだと言ったらいいだろうか。それが悪であれ正義であれ。ハリウッド製の戦争映画や犯罪映画の大半に顕著なのは、正義の暴力である。ダーティー・ハリーは言わずもがな。スターウォーズだってディズニー映画だって例外じゃない。しかも、それらは、それほど根拠のある正しさじゃない。というよりも、正義なんだからという理由で暴力が肯定されていることが問題であるということに一瞥すらされていないのがそうした作品なのだ。 原作の『朗読者』は、そうした暴力的な正義に対する告発というほどではないとしても、強い違和感を静かに主張した作品だったと思うのだが(しかも、そういう異議申し立ては巧妙に隠されてナチの犯罪が生んだ悲劇であるかのように偽装されている)、映画ではその偽装された悲劇の方に比重がおかれてしまっている。文盲であることによる悲劇がナチの犯罪と二重写しにされ、救いようのない主人公の人生を中心にドラマは進行する。見るものは、自然とケイト・ウィンスレットの悲劇にひきつけられるし、自然とそれがナチの生んだ悲劇の典型であるかのように思わされてしまう。 しかし、本当にそうなのだろうか。戦争犯罪の追求は結構だ。しかし、僕自身は、日本の戦犯が死によってその罪をつぐない多くの名もなき民衆と同じ戦争犠牲者の記念碑に名前を刻まれることをそれほど気にしない人間だ。死によって罪をつぐなったのだから、それ以降はただの名もなき人として戦犯といえども弔われてもよいのではないかいう気が強くするようなタイプの人間なのだ。本作に描かれているような事情なら、本当にこの元看守の女性は生涯の大半を刑務所で過ごさなければならなかったのだろうか?人は、生きていく上で好むと好まざるとに関わらず、ある立場に立たされることがある。立場は、選択の問題としてだけではなく、強制的にもふりかかってくる。だが、逃げようもないのだとしたら、それは犯罪なのか?原作から僕が読み取ったのは、そのことに関する静かな問題提起である。文字が読めない女性を通じて、著者は、事情もわからずに事態に加担したことの是非について問うていたのではなかったか。 時代に翻弄されてといえばまとまりはよいが、実際のところ戦争犯罪を個人に問うことの限界というものは自ずから存在するのだ。映画は、この点については少し曖昧にしているというのが僕の感想だ。この少しの違和感が本作を傑作と呼ぶのを躊躇させる。たいへん惜しいといわざるをえない。主演のケイト・ウィンスレットはその女性を好演していて(現に多くの賞をとっているようだ)、非常に印象に残る。その最後の決意のありようは、少しエレファント・マンの最後とも重なるところがある。いずれにせよ、それは西欧社会にとけ込むことの不可能性に対する諦めとそれを諦めたことからくる平静なのだ。 しかし、それよりも、女性の住む監房が、少しおしゃれなワンルーム・マンションのようなのには軽い衝撃がある。この暮らしなら、自分よりぜんぜんいいんじゃないかという人は相当いると思うぞ。今の日本には。 (11/6 少し追記)

| | トラックバック (0)

2012年7月12日 (木)

『BEL AMI』 と 『Being Flynn』

先日、海外にいく機会があり、帰りの飛行機で2本映画を見た。あの、小さなディスプレイでみただけで、しかも音を聞かずにながめてただけなので、簡単な感想だけ。

『BEL AMI』
多分、主役のロバート・パティンソンはハンサムだということなのだと思うが、役柄の解釈のせいか本人のキャラクターのせいか非常にダークな印象が先にたって悪印象がまさってしまった気がする。次々と女性を手玉に取っていく悪魔的なすれすれの魅力みたいなものはちょっと画面に漂っていない感じがある。ユマ・サーマンが金持ちのご婦人の格好で出てくるのだが、『キル・ビル』のあの精悍な雰囲気はまったくなく初めまったく気付かなかった。なかなか美人の人妻を好演していたと思う。この映画のユマ・サーマンは見る価値あると思う。

『Being Flynn』
アメリカの吉岡秀隆といった雰囲気の主人公ポール・ダノとロバート・デ・ニーロがともに自称作家の人生を歩んでいて、子供の時に自分を捨てた父に再会したらホームレスになっていて、というようなストーリーだ。最後は、作品がついにできあがるわけだが、それがどんな結末かはちょっとここでは。こ汚いじじい役のロバートに感心しつつも、演技上の彼の余裕がやや作品全体の重心をくずしているように感じた。どうしても、ロバート・デ・ニーロ中心に見てしまうのだが、本来は子供のポール・ダノがストーリーをリードすべきシナリオなんだよな。もうちょっと地味所をキャスティングした方がよかったんじゃないかなあ、という感じ。

どちらも日本で公開されるかは未定のようだが、どうだろう。微妙かなあ。imdbの評価はどちらも厳しいが、ひまつぶしには十分。むこうの失敗作はレベルが高い。

| | トラックバック (0)

2012年6月 5日 (火)

『True Crime』 Clint Eastwood

いつものようにケーブルテレビで。脚本が二流。テレビ・ドラマのようなチープさ。でも全部見てしまったよ。クリント・イーストウッドだし。ダーティ・ハリー以来、ずっとイーストウッド作品に外れなしと思っている。だが、彼以外にふたつ見所がある。ひとつは、新聞社の上司がどこかで見たことがあるとずっと思っていたら、テレビ・ドラマのSharkだったこと。もうひとつは、死刑囚がどこかで見たことがあるとずっと思っていたら、グレイズ・アナトミーの先生だったこと。やっぱ、テレビドラマのりなわけだ。あと、イーストウッドにベビー・カーからおっことされちゃう子役の子供もかわいい。で、実は、これが実のイーストウッドの子供なのだ。当時、5歳くらいですかね。かわいいよお。あ、これで、みっつだ。淀長さんじゃないけど、映画ってのは、なにかしらいいところが必ずあるもんです。

| | トラックバック (0)

2011年8月16日 (火)

『THE DESCENT:PART 2』

途中から見たが、なかなかのB級っぷりで意外に面白かった。ただ、ギャー、ウギャギャ、ゥワー、ドロドロ、だらーり、びちゃびちゃ、ぐちゃぐちゃ、ぽっとん(ここはなかなかユーモラスなシーン)、ギャー、どすっどすっ、ヒギャー、グワー、みたいな作品なので、お子様にはNG。普通に言えば、ひどいもんです。洞窟の中で、視力を持たない人間型の化物と戦うので、狭い所が苦手な人もだめですね。最後も救いがない。いいとこなしです。そういうのが気にならない人には自信を持ってすすられます。点つけたら『呪怨』くらい。そういうジャンルの物とおもって間違い無いです。ただ、ホラーというには怖さが少ない。それより、汚くて気持ち悪い系です。そんなにグロではないんだけど。
監督は、初監督で一作だけ。普段は、編集やっている方のようです。どうもシナリオも適当なので、あまり考えないで作ってるんではないでしょうか。

| | トラックバック (0)

2011年7月26日 (火)

『Executive Decision カート・ラッセル、スティーブン・セガール、ハル・ベリー』

これこれ。今、テレビで途中から見た。
スラップ・スティック一歩手前の適当な脚本が、できそこないのダイハードみたいでむしろ面白かった。
カート・ラッセルがドクターってのも似合わないし、何かというとちょっと待てって待たせるのがいらつく。そのくせ、最後は勝手な行動してるし。
いやー、映画ってほんといいもんですね。

敵のリーダーは、ポアロ役で有名なデヴィッド・スーシェで、これが結構似合ってる。

| | トラックバック (0)

2011年7月 3日 (日)

『Inception』 クリストファー・ノーラン監督

遅ればせながらDVDで見た。脚本が優れていると思う。クライマックスのワゴン車が水没すると同時に、多層階の夢の世界が崩されて現実に引き戻されるところは、なんでこうなるの感があり、このへんが何度か見ないとわからないと言われたところなのかとおもったりした以外は、とくに分りにくいところもなく楽しめた。

レオナルド・ディカプリオは主役をやっていてもひとりで場をかっさらっていくオーラとは無縁の人だと思うのだが、それがよく役にあっていたのではないかと思う。渡辺謙もなかなかよかったが、とくに光ってたのは夢の設計を頼まれるエレン・ペイジではないか。ディカプリオ以上に出演場面での吸引力があり、目が離せない。日本でいえば、桃井かおりと蒼井優をたして二で割ったような存在感。Wikipediaでひとりずつ役者さんを見ていったら、ロバートを誘惑しにちらっと出てくるグラマラスなブロンドの女性、タルラ・ライリーは、現在、CALTECで物理を専攻する学生とのこと。だんながSpaceX社のCEOで、PayPalの前身となる会社を起こした人だとか。ま、そんなことはどうでもいいか。

しかし、一番の見所は、ワゴン車の落下にともなってすべての階層の夢が終焉していくクライマックスだ。この超スローモーな落下シーンは必見だと思う。セットやCGも手抜きはなく、プロが自分のやるべきことをやって見事な夢の世界を作り上げていると思う。渡辺謙のふけメイクはちょっと気味が悪かったし、雪山のシーンは『ホワイトアウト』をどうしても連想してしまったけどね。今の日本では、逆立ちしてもできないタイプの映画なのは間違いない。

ラストでディカプリオを待っている幸福には、ちょっとほろりとさせられる。コマの回転がとまりそうにみえたときに映画は終わるが、この収束は象徴的だ。

さて、それにもかかわらず、なんだろう。映画を見終わったあとのカタルシスのなさ。多分、最初に仕事をもちかける渡辺謙の依頼内容、その動機についての描写不足ではないかと思う。全編を通じて、何のためにこんな苦労をしているのかが伝わりにくいのだ。結局、なんなの?と思った人も多いに違いない。アカデミー賞で、作品賞と脚本賞をとれなかったのはそのへんではないか。仕掛けに凝りすぎて、ドラマを忘れたというか。ディカプリオの家族の物語を中心につたえようとするのだが、それが他のメンバーの動機にかさなるところがよく分からないのだ。そういう映画ではないということなのかもしれないが、見終わってやや消化不良な感じが残るのも事実。

| | トラックバック (0)