カテゴリー「原発」の記事

2013年3月11日 (月)

震災から2年

まだ2年なのかということにむしろ茫然としている。

この2年でこの国は「救国内閣」に政権交代し、ものすごい勢いで右傾化している。その「救国内閣」の幹事長は、昨日こんなお粗末なことを言い出している。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130310/k10013095331000.html

「国民の生命・財産が危機にさらされた時や国家が存亡の危機にさらされたときに、国民の生命・財産を守り、平穏に回復させるため、国民の権利を一時的に制限するのは、どの国でも当たり前のことだ」

この男は、権利の意味をまったく理解していないのだ。災害時、戦時に権利・財産を守るための義務が課されるというのならまだ分かる。賛成はしないまでも。どこの国に権利を制限する憲法があるのか示してもらいたいものだ。仮にあったとしても、だからどうだというのだ。我が国の憲法が邪魔で、国が好き勝手にできないから憲法に盛り込んでおきたい。国民が国に協力するのはあたりまえだといいたいだけじゃないか。自民党の最悪な憲法草案やそれを擁護する馬鹿な発言を繰り返していた片山さつきなどの議員連中と本質的には同じ穴のむじななのだ。

この2年のうちに、状況はここまで悪化してきている。右傾化がすべて悪とはいわない。左翼がいいとも限らない。だれであれ、イデオロギーやマニフェストだけでゆるされる政治なんてものはないからだ。だから、国民の判断が都度微妙にゆれながら進む事もいたしかたないことだ。しかし、この発言が公然となされていることに腹が立たなかったとしたら、むしろ保守政治家たちは失格なのではないか?しかも、これは大震災の場合の話しとして述べられているのだ。自民党がこの議員を放置するなら、そこまでだと思う(放置するだろうけど)。これが国家主義の内閣でなくて何なのだ。自由とも民主とも何も関係がない政党であることを、元々明らかだったけど、改めて自ら公言しているのと同じだからだ。原発廃止もTPP不参加も選挙用の宣伝文句として許容され、選挙後にあっさり否定され、それを掲げて当選した議員からも文句が出ているのはこの政党の現在の状態をよく表している。

一方、被災地はどうなのだろう。この二年で風景がどのように変化したか、いくつか写真をみた。被災地への支援も人・物・金のいずれも弱くなりつつある報道も目にする。関心もまた。

自分はといえば、出かけて行く事が不可能な中で何をしたらいいかを考えて個人的にやれることをやってきた。それはものすごくささやかな貢献しかしていないのだが、それでもだんだん熱心さが薄れてきていると感じている。それには、いくつか理由があると思う。

ひとつは、もはや緊急対処の時期を過ぎて、日常として事故を捉える必要が出てきていること。つまり、緊急に対処できるところは、妥当なものもそうでないものもあるにせよ、対処してきていると考えられること。意見はいろいろあるにせよ、それなりにそんなにひどくない水準で対応がとられている分野もすくなくないという印象はもっている。今残された問題は、もともと時間がかかる問題か、より根本にある問題の解決が必要な問題のどちらかだと思う。

ふたつめは、国のやり口がほぼ見えてきていて、個々の調整事項に類することはともかくとして、より深い問題の根については、当面解決の見込みも兆しも無く長期に追求するほかないことがはっきりしていること。いつものことだが、主要な争点については、国の立場で国の論理で概ね押し切られているのだ。この種の問題については、水俣病のように国家の隠蔽が関与しているものがある。緊急対処でそれなりにうまく行っているのと比べて、国の立場を打ち出して押さえ込みにかかっている問題ほどろくでもない結果になっている。

みっつめは、自分の仕事や生活の拠点である東京は大きな問題がないことから(東京の放射能汚染の問題は時々言われるほど深刻とは僕は思ってない[局所的には無論問題な箇所もあると思うが])、すでに人々の傷が癒え始めていることだ。オリンピックの招致活動を熱心に進めているのはその現れで、むしろお祭り騒ぎで沈鬱さや停滞感を吹き払いたいくらいな気分が生じ始めている。忘れようとしているわけではないにせよ、今、その話題を出すのか?というムードが蔓延するようになった。このムードと戦うためには、ふたつめで述べた長期の見通しが不可欠だ。個別の課題を消化しながら個別の課題を通して、根本から状況を変える努力を続ける以外に僕にはうまい方法がみつからない。

つまり、切実な問題としてとらえるには問題が拡散しすぎ、残された問題は国ごと変える覚悟で望まなきゃならない厚みで横たわっているということだ。僕は、名もなき一技術者でしかないし、それでたくさんだと思っているけれど、この問題と対処する実際の現場が、自分の職業の現場、自分のWebやSNSの現場であるのを割と真剣に信じている。要するに、自分が他者とかかわり、社会と関わるすべての場面が自分にとっての現場であって、そこでの貢献以外に自分に何かができるとはあまり思っていない。

そのようなわけで、ここからはフェーズ2だ。

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2012年11月 1日 (木)

『城南信用金庫の「脱原発」宣言』 城南信用金庫理事長 吉原 毅

岩波書店から出ているブックレットのシリーズと似た分量、形態の小冊子である。城南信用金庫の活動は、原発の問題をおいかけてきた人間にはよく知られていると思う。吉原さんは、理事長としてその信用金庫のメッセージをリードしてきた方である。本書を読むと、その考え方がわかりやすく簡潔に整理されている。信用金庫の理念、位置づけ、社会貢献のあり方などから導いた行動指針であって、もちろん理事長の独断で世の中に反旗を翻しているわけではない。信用金庫が地域の人々に貢献すべきこと、道徳的に、社会に対して害悪となる行動をとっている企業とは取引をしない原則などから、東電から電気を買うのをやめてしまう。それは企業理念として当然のことだというのだ。また、徹底した節電をおこない前年とくらべて23%の節約を実現し、25%を支える原子力発電は、その気になれば止められるのだと実感から述べている。世間受けするメッセージをただ述べているのではなく、その行動は確固とした理念に基づいている。賛否はいろいろあるだろうけど、見事というほかないと感じた。

薄い本だし、500円と安価なのであまり詳細は書かないようにしたいのだが、一点、特にとりあげたいのは、吉原さんの貨幣哲学である。吉原さんは、お金はあぶないものだといって、次のように述べる。

p60 わたしの考え方はエンデとは違って、そもそもお金そのものが幻想であり、麻薬であり、危険なものだと思っています。お金は信用によって成り立っているものであり、そのことからしても、お金は幻想なのです。利息がつこうがつくまいが、お金は危険なものです

別の箇所では、

p53 貨幣というのは、人間の頭のなかで肥大化された自意識そのものです。個人主義、合理主義といったものが投影された、ひとつの幻想なのです。そのお金という幻想を、わたしたちは、あたかも絶対的なものであるかのように考えてしまう・・・・・。

p54 これはもう「拝金教」という宗教のひとつだと思います。宗教というと敬遠されるかもしれませんが、じつは「現代人は、お金という宗教にとらわれている」ということに気づくべきです

p60 つまり、人類の歴史は、お金との戦いの歴史なのです

p61 そもそもお金の本質とはそういた危険なもので、その危険性を押さえるためには健全なコミュニティ、道徳や良識が必要だと思います。つまり、お金の形態をいくら工夫しても、それ自体が危険なものだから、その弊害は是正できないと思います。

貨幣が幻想であること、幻想が主体となって自己運動しているのが現代の経済中心の社会であること、それに対する強い信頼は、もはや宗教であること。これが、金融機関のトップから出る言葉なんだと、ぞくぞくする。多くの人が、本書を読むように願ってやまない。

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2012年8月17日 (金)

反原発について(2)

何度か書いているが、原発はただの技術だ。そのよしあしは、科学的に判断ができるしされるべきだ。しかし、現実には、よくない技術でも様々な理由で直ちに消え去ることはない。もちろん、その逆もある。良い技術だからといって普及するとも限らない。VHSとベータの競争を思い出そう。そもそも、何がよい技術なのかを決めるのは簡単ではない。たとえば、自動車のエンジンは、環境に与える負荷の点からガソリンやディーゼルよりも電気の方がクリーンなように思われているが、その電気を起こすのに原発が必要だとしたらどうだろう。どちらが良い技術なのだろうか。強い規制がかけられることがあるディーゼル・エンジンも技術の進展でガソリン・エンジンよりも排ガスがきれいなケースもある。産業革命の推進力になった技術は、一方で公害問題も起こした。しかし、その問題の多くは次第に克服されてきている。何よりも、人間を貧困から救い出し多くの人々の生活水準をおしあげたのは確かだ。産業革命がなければ、インターネットだってなかったわけだ。技術は、時間とともに改良され進化していく。科学技術の非常に大きな特徴は、今あるものを基礎に時間とともに必ず進化する方向でしか進展しないことが予め運命づけられていることだ。つまり、よくない技術という表現が本来はおかしいので、その技術のよくない点は、乗り越えられなければいけないものとして存在しているといったほうがいいかもしれない。だから、よくない技術は直ちに消えない。技術というものは、乗り越えられるべきものとしていつも存在している。乗り越えられることで、古い技術は静かに退場するだけだ。相対的に優れていないものとして過去のものとなるだけのことなのだ。

技術は、多くの人の生活に関係する。それらは、自然を変え、新しい価値を生み出し、既存の自然を破壊する。プラスもあれば、マイナスもある。人々は、その技術を利用する過程で学習し結果を共有し、選択をする。自動車のエンジンの例で言えば、それらの技術のどれが優れているかを決めるのは技術者ではない。たとえば、市場がそれを選択する。しかし、それが全てではない。政府が規制をかける場合もある。市場性は少ないが重要な技術というものもある。いずれにせよ、それらは社会的に選び取られるのだ。自分たちを滅ぼしてしまうようなだめな技術を人間は好き好んで選択はしない。微細な時間スケールで見れば、誤りもあれば正解もあるが、あたかもランダムウォークのようにして技術は洗練され正しく選び取られていく傾向がある。核の問題は倫理の問題のようにして提出されるので紛らわしいのだが、本当は、技術の良し悪しは、たとえそれが独断専横的な軍事技術開発であっても、社会のふるいにかけられねばならないということだ。このことは、人間のつくる社会が技術を利用するのであってその逆でないことからくる必然だと僕は考える。ロボット三原則は、科学技術は人間の主人になれないことを原則としてうたったものだ。しかし、それは、原則の問題ではなく、原理の問題である。原理的に人の恣意でそれは変えることができないものだということだ。

原発も、そのような運命をもって生まれた科学技術のひとつに過ぎない。それは、どんなに国家が保護しても社会的に選び取られるべき候補のひとつ以上の存在ではない。そして、それは、乗り越えられなければならないよくない点をたくさん内包している技術である。これはもう十分にあきらにかになっている。だから、そのまま放置すれば、この技術はよくない点を改良して生まれ変わるか、社会的に選択されずに廃れるかするはずなのだ。つまり、もし、通常の技術と同じように市場にさらされているなら技術的に問題点を乗り越えるか市場競争に敗れて衰退するかしか選択の余地はなく、それ自体に反対する行動にはまったく意味がない。それは反対するべき対象ではなく、乗り越えられ淘汰されるべき対象である。

だから、問題は、そのような自然にまかせておけばよいものを国家の手で保護し、推進力を与え続ける体制を作り上げてしまったこと、そしてその体制の崩壊を必至で食い止めようとしている人々が社会的な選択を妨害して社会の科学技術に対する選択権を独占しているところに求められなければならない。

ところで、技術が、人間の自然史的な時間の流れ方と無関係に極端に短い独自の時間発展をするところが近代以降の非常に大きな特徴で、この時間発展の急激さは、企業家にとっては飯の種になる。資本主義は、時間・空間の進み方のずれから価値を生み出し利益を得るのが本質である。たとえば、バブル経済は、多かれ少なかれ、本当には存在しない(つまり、現実の人間が生み出す具体的な価値とは無関係なところで仮構された)価値を作り上げることで、価値が下落する回路、つまり、新たな価値で乗り越えられることのない価値を生み出してしまうことが原因で起こる。増えすぎた価値を、現実の価値が支えきれなくなって破綻するからだ。日本の土地バブルの場合は、無限に価格が高騰する土地というありえない幻想に人々がハマった結果であり、これによって未来の価値との差額を利益として商品化した結果として、あてにされた当の未来である現在の経済はバブル経済に依然として蝕まれ続けるという構図になっている。これは、時間の差異、時間の先取りによる幻想だったわけだ。

原子力は、実は、この時間の差異が生み出す価値としてみれば、極めて奇妙な技術である。それは相当に困難な安全上の課題をかかえたまま、1960年代には商用稼働していた。そのころの原発は、軍事技術のはしくれで、運用に携わる人々の安全は二の次にして目的の元にともかく形をつくられたといった体のものであり、ほんとうに商用利用を目指すなら、もっと基礎的な研究が必要だったはずのものだ。未来の先取りにしては乱暴すぎるのだ。つまり、たとえばそれは、アメリカの広大な土地があって初めて成立する安全な立地条件の確保を前提とした技術だった。このような金も手間もかかる不安定なものは、普通は利益をうまない。資本主義からみれば、こんな筋の悪い商品はないはずなのだ。しかし、どういうわけか第二次対戦の主要な戦勝国の多くはそれを推進した。僕は、これは核兵器で使用する核燃料を高品質に安定的に供給するための核燃料工場を採算ベースにのせて核戦略上の優位性を保つための方便だったと考えている。原発に熱心だった国は例外なく核兵器を開発している。つまり、原子力発電がもたらす価値は、核兵器戦略上の優位性にほかならない。

日本への原発導入にあたっても、米国の核燃料工場の下支えという意味がなかったとは僕には考えられない。だからこそ、危険に満ちた初期の原発を立地条件に関する米国の厳しい規定を大幅に緩和してまで、戦後の日本は原発を導入せざるをえなかったのだ。沖縄基地と同じことだ。本当は不安定かもしれないことなど政治家は百も承知で、そうした現実に目をつぶり、事故が発生したときの最大の防御壁である立地の問題については初めから諦めた上で、むしろ国家による保証の体制の方を議論するように誘導したはずなのだ。こうしたことをスムーズに進めるには、基準の恣意的な変更や正しく問題点を指摘する学者を検討体制に入れないようにする閉鎖的な環境の整備などが必要であり、黒を白といいくるめなければならない必然もあった。原子力ムラは、つまるところ、頭から尻尾まで完全に官製であると考えることができる。この運命共同体は、原子力発電事業を成立させるためには不可欠の条件だったとも言えるのだ。

最初の原発だが、研究炉を除けば、1970年頃に、敦賀、美浜、福島第一があいついで一号機を稼働させている。つまり、万博の年だ。細かな技術改良はあっただろうが、その時から今に至るまで、これらの原発はそのまま何も変わっていないということにもっと注目する必要がある。それらは、太陽の塔や、あの万博の開幕の主役だった巨大ロボットと同じ技術水準にいるのだ。現在でも。もちろん、あたらしい技術水準への追従は要素技術レベルでは都度行なわれてきただろうが、基本的にアーキテクチャが変わっているわけではない。それは、アーキテクチャが許容する範囲で行われた改良に過ぎないはずだ。また、原発の老朽化は、ただ建設した物理的な構造物が古くなったということだけを意味しない。巨大システムは、それを成り立たせる考え方やインフラまで含めてひとつのものと考必要がある。それは、建設企業、運用企業、官僚、学者、地域、利用者、下請け運用者、保守業者、等々の多くの人々と無関係に存在しているわけでもない。それはひとつのプラットフォームであり、利益共同体が運命をひとつにして乗り込む乗り物でもある。先ごろスペース・シャトルが運用を終えたが、これにともなって何千人もの技術者が失職することになった。長期に渡って維持される巨大技術とはそのようなものだ。スペース・シャトルが、70年代のアメリカン・ドリームをどことなく感じさせる乗り物だとするなら、初期の原発は高度成長期の日本の雰囲気をどこかに残している乗り物だと言えなくもない。導入の経緯はともあれ、この未来の技術を自らのものとし、日本の有望なエネルギー源のひとつとして自らの人生を託してきた多くの人々が実際にいるのだ。システムは、技術が陳腐化して更新が必要になることもあれば、保守部品の調達が難しくなったり、物理的に古くなって修理費がかかりすぎることから作り替えたほうがよいと判断されることもあるが、支える人がいなくなってすてざるをえないこともある。シミュレーション技術はおそらく比較にならない。机上で検証できる範囲が当時と今では雲泥の差のはずだ。当時はわからなかった危険性が今なら分かるということだってある。そうした状況の変化に追随し切るのはどんなシステムにとっても困難だ。昨今のように海外へのインフラ輸出が戦略になってきたようなご時世ならともかく、そのようにして、さしたる競争もなく隠蔽体質の業界で新しい血もいれずに反対意見を排除してよく知った間柄で仕事を続けていれば、馴れも生じるし腐敗もする。原発は、そのようにして官の仕組みや携わる人々も含めてプラットフォーム全体が老朽化し、新しい要求に答えられなくなっているというのが僕の考えだ。特に問題なのが、人間系のプラットフォームである。このような状況をまとめてみれば、要するに、1970年の技術が護送船団的に関係者をまとめながらなんとか2011年まで流れ着いたが力尽きて破綻した、というのが今の福島第一原発の姿だといえる。スペース・シャトル同様、退役の時期にさしかかって大事故をおこしてしまったプラットフォームと全く同じ構造がここには存在する。

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2012年8月13日 (月)

パブコメの効能について:雑談

というわけで、一応パブコメを出したわけだが、どれくらいその効果を信じているかというと、実際のところほとんど信じていない。最終的には、5万のコメントが集まったという話しが本当だとすると、こんな想定がなりた。

記入欄は一件あたり2500文字以内なので、半分書いても、1250文字。これは、原稿用紙約三枚分。5万人が平均3枚分書いたとすれば、15万枚。長編小説で、1000枚なんてのを宣伝文句に書いているのがあるけど、小説にたとえれば、150冊の長編小説を読むようなもの。にたりよったりの。一人で読むわけはない。当然、パプコメ出すには事務局という人達がいて、彼らは官僚なわけですが、日本の官僚は諸外国と比較してもそれほど多い方ではないので、事務量が多い仕事になると外注にたよざるを得ません。今回のにかぎらず、パプコメがひっそりと短期間で回収されるのは単純に事務量がおっつかないという事情もあるんじゃないかと推察します。ともかく、今回は普通のパブコメの比ではない大量の意見が集まったわけなので集計作業をどう進めるのかは(もしこれだけの数を予期していなければ)、たとえばこんな感じ。

あ)元々、三案について意見を求めているわけだから、その線でコメントを選別・集計する。

  バイトの学生を大量にやとって、コメントを次の5つに仕分けします。

   1)ゼロ%
   2)15%
   3)20-25% でしたっけ?
   4)それ意外の意見
   5)意味のない回答、白紙とか意味の取れない言葉が入力されているものとか。

  で、それぞれの得票数を出して、学生さんに意見の要約も作ってもらってピックアップさせといたのを官僚の人たちが適当に分類して、こんな意見がありましたと発表する。それい外の意見も読ませていただいて参考にしますと一応言っておく。

い)テキスト分析のシステムを使って、コメントを機械的に分類する。結果を機械的に発表する。いずれにしても興味あるのは、どの選択肢が一番多いか。

う)全部の意見を熟読した官僚が喧々諤々の議論をしていくつかの意見グループに集約していく。というのは、時間的にも体力的にも不可能でしょう。手分けするんでしょうね。ひとり5000は読むとか。

ま、どれをとってもイバラの道です。そんな状況でひとつひとつの貴重なご意見をいったい誰が丁寧に読むのか?要点をいくつかの類型に分類してカウントする方向でやらなかったら何も結論なんか出ないのでは。

従来から、パブコメなんて通過儀礼のようなもので、やることに意義があって、それによって予想を超える意見が出てきたので議論をいちからやり直したなんて聞いたことがない。アメリカの年次要望書にパプコメの実施が書かれているってツイートも読んだが、これをアメリカ人の仕込みのように考えるのは考えすぎ。何十年も前からアメリカは日本の閉鎖的な市場を開放するように求めて、様々な施策を微に入り細に入り提示してくれていて、実は一方的にアメリカの利益に貢献するように求められているような内容であるという見方も広まっているが、よく読むと、日本にとってよい政策提言がなされていたりするのであなどれない。アメリカのいい点のひとつは、公正さ(フェアネス)に対する社会的なコンセンサスが厳として存在していて、アメリカといえどもだめな部分はだめなわけだが、公平さを欠く行為に対しては、抗議の声があがり社会的制裁が実際に加えられることにあまり躊躇ないところだったりする。いろいろとダークな面があるのは何処の国も同じだが、年次要望書のような文書ではアメリカの利益に関する揺るぎのない優先順位はあるものの、後進的な政策について変えさせようとする宣教師的な正しきことへの道筋を勧めるおせっかいさも兼ね備えているのがアメリカだ。ある程度は、言われるとおりにしとけば日本は大丈夫なんだという小泉純一郎の発想もあながち嘘ではない。大体、アメリカ人も暇じゃないから、パブコメが活用されるようになったのをよしよしと眺めることはあっても、箸の上げ下ろしのレベルまでいちいち細かな指示を日本に出すわけじゃない。逆から見れば、日本人も受け入れるふりをすることぐらいはお茶の子さいさいのしたたかな国民だ。ネットで意見募集するくらいいいじゃん、自分達がそれで政策変えるわけじゃあるまいし、くらいのことは考えるわけで。

つまり、効力の有無という点からは、パブコメに意見を出すのは心もとない行為である。これは間違いない。しかし、重要なのは意見を表明することだ。沈黙ってのは、地獄への道だ。

いずれにしても、このパブコメの結果を政府がどのように整理して発表するのかを注目して待とう。本当に政府が国民の声を聞く政府なら、パブコメの意見を読んで自ら倒れるはずだから。

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2012年8月12日 (日)

『エネルギー・環境に関する選択肢』に関するパブコメを提出

「パブ」コメですので、内容を公表します。
以下、送信したままです。

**************
記述スペースの制約から、以下、簡潔に骨子を述べます。

このパプコメ資料では、原発のパーセンテージが選択肢になっているが、非専門家である国民には0%以外の案の妥当性について判断のしようがない。これらの原発事業の継続案がなぜ必要なのかについては論理的な説明がなされていない。また、原発の継続が真にどうしても避けられないならパプコメの必要もないはずである。首相がかつて脱原発依存を約束したにも関わらず、選択肢として原発比率が提示されていること自体に困惑を覚える。できるだけ早期に原発に依存しなくて済む状態に移行するために、どのような工程が必要で、とりえる選択肢として何があるのか、代替エネルギーとして何を開発していくのかについて選択肢が提示されているのならまだ理解できる。つまり、これは、検討の順序が逆である。政府は、まず原発の廃止がどこまでにどの程度可能かを先に検討するべきである。その上で、当面どうしても残らざるを得ない原発があるなら、その規模と個所と期間について明確にし、それらをいつまでに廃止できるかを提示し、それにともなって生ずる課題や選択肢を提示すべきである。

そもそも、2030年の目標を検討するという検討のあり方に問題がある。エネルギー政策には、長期的な視点が不可欠であることは理解できる。しかし、電力需要の予測は今後の技術開発やエネルギー消費動向の分析、予測により常に見直されるものであり、政策も戦略的に決定されるべきものと考える。これは、既存の枠組みや手段をどのように活用していくかを検討するより現実的な課題である。しかし、現下に問題となっているのは、2030年にどのようなっているべきかを語ることではない。いつまでに原発依存からの脱出を行うかの目標設定である。そのための制約や限界点について明確にした上で、実現可能な目標設定を行うことである。一方で原発即時全廃という議論も現に存在し、このパブコメ資料自体2030年でゼロという選択肢を提示している中、この選択肢案はその実現時期を明確にすることを避けて、2030年というどうでもいい中間点の状況について根拠のない選択肢を提示して原発廃止の議論から目をそらすものと言われても仕方ないのではないか。実際に、2030年でゼロということはそれまでは一定比率で原発が稼働を続けることを含意しているが、それをいったい誰が了承したのか?その議論が先にあるべきではないのか。そうした本質的な議論を避けて、この時点で2030年の目標を設定することにどういう意味があるのか、私には全く理解できない。しかも、ここで提示されている0%以外の案は、自然な廃炉を迎える現行機の廃止以外については何ら約束しない案であり、むしろ老朽化した原子炉に対して、新設の原子炉建設を認めるために設定された選択肢と思える。あるいは、国民の理解が得られない現在停止中の原発の再稼働に道を開くものでもある。これは中庸を好む大衆の心理を逆手にとった巧妙な選択肢の設定という指摘も見かけるが、少なくとも、原発廃止を実現するための工程に関する議論をすることもなく、目標設定を避けて意味のない中間地点の曖昧な議論に国民を誘導していると批判されても仕方ないのではないか。

また、環境問題については、CO2削減を世界に対して約束してきていることから議論に組み込まざるをえないのは理解できるが、原発がCO2を出さないという説には多くの疑問が提出されているだけではなく、それより悪質な放射性物質がすでに大量に排出された事実を考えた場合、温室効果ガスを出さない主要技術として原発を取り扱う発想は捨てる必要がある。三案の比較を読むと、原発の比率が高いほど温室効果ガス排出削減の点で有利であり、自然エネルギーシフトを進める原発ゼロの案は、この点では同等だが、化石燃料をより多く消費する上に、省エネ対策などの投資がさらに必要でエネルギー・コストはもっとも高いことが示されているが、これが20年近く後の事であるのを考えると到底公平な比較とは思えない。むしろ、自然エネルギーシフトが高くつくことを印象づけようとしているようにさえ見える。原発のコストについては、福島第一の事故の後始末に係るコストを参考に、安全対策を立地から見直すコストを計上するべきであり、また事故が再度起こった場合の対策費をどのように考えるのかについても原発に係る国の制度を根本から見なおした上で国民に示すべきである。社会が負担するコストとしては、原発が一番高価であるという研究も存在し、実際、原発が建設される自治体への多額の交付金などが原発のコストに計上されていないことは既に明らかにされている。この比較では、そうしたコストがどのように組み入れられているのか明確ではない。概要だけではなく、コストを算出した明細を開示し、専門家による検証が可能なように配慮するべきである。国民のだれもが非専門家ばかりではない。これらの前提が整理されないまま提示されている原発継続案は、候補とするには検討が不足していると言わざるをえず、このパブコメ資料では、国民的議論を行うための前提が整理されているとは考えることができない。

以上から、意見をまとめると次の通り。

(1)この選択肢には全く意味がない。政府は、原発を全廃すると仮定した場合の工程を作成し、これを実現するために課題となるのが何かを明確に国民に示すべきである。
(2)その課題解決のために必要不可欠であるとするなら、原発の一定数の存続について必要な施設、箇所、期間について工程全体の実現性の観点からありえるシナリオを提示するべきである。
(3)コスト試算と環境対策については、詳細な検討仮定を全て開示し、専門家の議論を広く行えるようにした上で、こんな短期間ではなく、少なくとも半年程度の議論期間を設定し、より現実的かつ国民のコンセンサスが得られるものとすべきである。


(8/12 施設料 -> 施設 に修正。パプコメでも誤字っちゃった。)

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2012年7月 8日 (日)

反原発について(1)

ここのところ官邸前のデモが盛り上がっていて、大メディアの報道にも取り上げられるようになってきた。これについては、僕は完全な傍観者だ。一度ツイッターで、官邸前に集う人々にと、Patti Smithの “People have a power” のリンクをつけて、その思いが通じることを祈ると書いた。とりあえず、デモの主催者が誰であっても構わない。ともかく黙っていられないという思いで集まってくる人々の背後に、様々な考えや事情から参加こそしないものの同じ思いの多くの人々の姿が浮かぶ。その人々に向けてのものだ。デモの意味や意図について様々な批判や議論があるようだが、それにはあまり興味がない。大衆の意思表示のひとつのあり方として、これは「あり」だと思うだけだ。大衆の思いは、いずれ主催者の思惑をこえていくに違いない。だから、ツイッターでの呼びかけ人が誰で、何を発言していようが、そんなことはあまり気にする必要はない。そんなことが大事な地点はとっくに過ぎていると僕には思える。それだけに、20時でデモを解散させるために警察の拡声器を借りて人々に帰るよう促すアナウンスをする「主催者」には違和感を感じる。人々が自主的に集まったのだといいながら、デモの時間を管理し、警察と衝突を避けるようコントロールする。別に警察と衝突するのがいいこととは思わない。革命と呼ぶ人もいるけれど、これは静かな異議申立て以上のものではない。時間まで叫び、電車があるうちに帰る。警察もデモ参加者も翌日の仕事に差し支えないように抑制をきかせている。それ自体は結構なことだ。しかし、20時解散のお願いは、呼びかけ人が呼びかけ人の特権を手放すまいと叫んでいるようにしか僕には、映らなかった。土下座して彼らは、自分たちの企画に水をささないように頼んでいるだけじゃないのか?人々の思いに水をさし、とおせんぼして帰宅を促していることに結果としてなっているのではないだろうか。警察のスパイなんじゃないかという推測だって意地悪に言えばなりたつくらい気持ち悪い光景だったとは言っておきたい。あの、20時で帰ってくれというアナウンスのシーンは(現在はどうか分からないがYoutubeで視聴した)。もちろん、これは、それ以降に抗議行動が伸びた時の混乱や事故の危険性などにどう対処するのかという観点とは別の問題である。デモを主催しないが先導するといった立場の取り方の微妙さに疑問を述べているだけだ。「主催者」達のデモへの思いとも関係ない。

ところで、以前、原発再稼働に関する都民投票への署名運動に疑問を述べた。こんな具合に。

このような行動は、つまり、多くの人ひどが敬愛する谷川さんのような方まで引っ張り出して、あなたは原発推進ですか反対ですかと問うかのような行為は、本当は複雑な問題の断面だけを見せて住民の同意を引き出す極めてアンフェアな方法だと僕は考える。ドタバタの中で、原発の「反対派」が、大衆の大多数が抱く原発はもうこりごりという感情を束ねて政治的な圧力に変換しようという動きであるのは確かで、たとえ当事者達が自分の信念に何の疑いももっていなかったとしても、具体性のない提案への賛同集めは、かつて何度も見た光景なのだ。多くの人は、多分この動きに賛同するだろう。それは仕方のない事だ。こんなに多くの人に迷惑をかけるものを日本の大衆は決して許さないだろう。それはそれで結構なことだと思う。その人たちの判断には僕は喜んで縛られようと思う。しかし、その判断をもらう前に、識者達はもっとやることがあるのではないか。

このデモを呼びかけている人々の中には、この都民投票を呼びかけていた人たちも含まれていると思う。僕の立ちたい場所は、彼らのいるところではない。だけど、彼らの呼びかけに呼応して集まった多くの人々とともにいたいとは思う(許容されないかもしれないけど)。もし、そこに、この都民投票の呼びかけ人もいるなら、それはもうしょうがない。いっしょにやりゃあいいじゃないのと思うだけだ。元々、それほど目的とするところが違うわけでもあるまいしと。しかし、まだそこに自分がいなければならないとは考えていないのだ。いや、むしろなぜ今なのかということだってある。いまだじくじく考えて傍観者に徹している理由は実際のところ自分でもよく整理できていないのだが、そういうことなんじゃないかと推測している。そこに立つ前に、自分にはもっとやることがある。

そこで、これまでこのブログの中で書いてきていることなので通して読んでもらえれば、僕の反原発に関する考え方は分かるはずなのだが、改めてまとめてみたい。その上で、自分は今後何をすべきかについて考える。そう、まだ自分でもよく分からないのだ。どうしたらいいのか。

最初に確認したいのは、反原発という言葉自体には意味が無いということだ。原子力発電は、ただの技術であり、やめたければやめればいいし、もっといいやり方があるならのりかえればいいというだけのものだ。そこに過剰な意味付けをしても始まらない。だから、反原発か原発推進かときかれても僕には答えようがない。そんなもの、どっちも怠惰な考え方だとしか僕には思えない。技術としての妥当性については、純技術的に判断ができる。社会的立場や政治的な立場もいれずにだ。その努力を怠るものに反原発も原発推進も旗振る資格は無いと考える。もちろん、旗降っている人が勉強していないと言っているわけではありません。みんな、この一年である意味こんなことでもなければ調べもしなかったことを調べ勉強してきてここに至っているはずなのだ。僕も、この一年余の間ににわか勉強しただけだが、それでも社会人になって四半世紀の技術者としての経験に照らして原子力発電の技術については自分なりの判断を下してきた(その具体的な内容は後でまとめる)。技術者でなくとも、入手できる情報から妥当性の判断くらいはできると僕は思うし、その手助けをする責任は科学技術者を名乗る人には少なからずあると考えている。

問題は、しかし技術的な妥当性がどうのというところにあるのではない。むしろ技術的な正しさが無視されて、議論がわれのわからない方向に誘導されてしまうことが常に問題なのだ。過去、原子力技術は、米国の原子力の開放政策と核燃料市場の支配、それを通じての核戦略上の優位性の確保に関係し、日本もその戦略とビジネスの枠組みにのっとって推進されてきた。乱暴に言ってしまえば、こんなものは、米国協力政策の一貫に過ぎず、米軍基地への思いやり予算と同じような動機がまず存在して科学技術者に押し付けられてきたものに過ぎない。その裏に、原子力技術を国家の持ち物として維持することの意義を政治家が認めていたとしてもである。断言してもよいが、外圧がなければ、多分、原発の導入など何十年も遅れただろう。もちろん、最初の動機がどうであれ、実際に未来の技術だと信じ、石油資源の枯渇に従って重要性の増す技術として本気で取り組んできた人々も沢山いる。技術の良し悪しを、その動機から判断すると判断を誤るのは確かだ。しかし、原発で必要となる核燃料は核兵器を所有する国々の管理下にあり、そのおこぼれをもらわなければ産業自体が成立しなかったことは明白な事実なのだ。現在でも、濃縮核燃料はほぼ輸入に頼って消費しているのが現状であり、また、その核燃料の工場はかつて米国の独占状況にあり、日本で原発が急激に増加したここ二十年から三十年くらいの歴史がソ連邦の崩壊に伴い冷戦が終わり核兵器の縮減に向かう歴史と並行していることは決して偶然ではないと僕は考えている。核兵器も長年放置すれば老朽化する。核兵器にも保守が必要なはずだ。しかし、そもそもそれは無限に必要なわけではない。しかも、全体としては削減される方向性にある。数年前だったか、米国の核兵器の維持状況が報道されて驚いたことがある。それは、米国の所有する全ての核兵器がすぐにでも使用できるような状態に維持されているとは限らないことを示すものだったのだ。つまり、冷戦終了後切実な意義を失った核兵器はかさむ維持費と目的の喪失によってお荷物になりかけているようなのだ。オバマの核兵器削減に関する宣言の背景には、その問題がある。平和も何も関係ない。米国政府の無駄削減の一貫でしかないのだ。だが、一度作ってしまった核燃料工場とその従業員の雇用は守らねばならない。オバマが原発再開に舵を切ったことと、日本の原発事故に最大限の援助を行なってきているのは、そうした背景から必然であると考えることができる。彼らは、何も日本のためにがんばっているのではない。長年国を支えてきた原子力産業のために頑張る他ないのである。それは、原子力発電技術を世界に広めて核燃料を売りさばかないと核兵器の維持のためのインフラが立ち行かない現実に直面した50年代の状況と本質的に変わらないと僕は考えている。

スリーマイル以降のアメリカは原発の開発を停止してきた。米国での需要が頭打ちとなった核燃料事業にとって、日本が受け皿になったと考えるのは決して不自然ではないと思う。また、原発開発を再開しようとするオバマ大統領にとって、日本の事故がどれだけ迷惑だったかは、自明だと思う。これは情況証拠からの推測にすぎないが、北朝鮮の核開発にまつわる最近の状況をみれば、米国と関係の深い国における原発開発が米国の許可と管理の元に行なわれてきているとみることが不自然とはとても思えない。顔色くらいはうかがっていたはずだと考えるのに都合の悪い材料はほとんどない。

一方、日本は、中東の石油資源に依存してきた。石油ショック以降、対米関係はともかく、国内でも次世代エネルギーが問題になった時期があったのは確かである。安定的なエネルギー供給は、第二次産業主体に成長してきていた日本の経済にとって重要な問題だったのは考えるまでもない。結局のところ、日米の産業界の利害が一致したところで少々のリスクには目をつぶって投資が拡大されてきたのがわが国の原子力産業であると考えておけば、だいたいあっているはずだ。現在、原発の再稼働を歓迎している経団連会長の談話を見るまでもなく、反原発とは、反「日米の産業界」と極めて近い意味をもつ言葉なのである。

ここで、都民投票のビラを思い起こしてみよう。賛同している有名人のリストから肩書きだけを抜き出してみる。

コラムニスト、詩人、漫画家、詩人・小説家、作家、音楽評論家、俳優、経済評論家、カタログハウス相談役、元国立市市長、生活クラブ盛況理事長、会社経営・ヨーガ講師、俳優、環境エネルギー政策研究所所長、社会学者・首都大学東京教授、桜美林大学教授・ジャーナリスト、政治学者・大学教授、「サステナ」代表、ジャーナリスト

何も変えずにそのまま抜いたので、誰のことかすぐ分かる肩書きもあるのだが、おわかりだろうか。工場だの施設や大規模な設備を必要とする企業やらを経営している人は一人もいない。何もなくとも、自分だけいれば職業として成り立つ人たちだけが、この都民投票に賛同する著名人として名前を連ねているのだ。これらの人々に近い、あるいは、その中に含まれる人が件のデモの中心にいると考えると、これは第二次産業対第三次ないし第四次産業ないしそれ以外という図式になってしまっているのだ。図らずも。もちろん、原発に関して政府が向いているのは第二次産業の方である。しかし少し古い統計だが、2007年でも、第二次産業の従事者は30%未満、第三次産業の従事者は70%近い状態である。ここに日本の不幸が集約して現れているような気がする。ここには、農村部に有利な一票の格差と同じ問題が横たわる。つまり、既得権と不平等、保守と改革、地方と都市、旧世代と新世代、といった分かりやすい対立の図式の中に生活や命の保証や安全の課題が置き換えられて非本質的な対立を生む構図である。本当は、誰にとっても共通の課題でなければならないはずなのにである。

電気を誰が使っているかを考える時、このことは顕著になる。電力需要の区分は大きく電灯需要と電力需要とに分けられているが、家庭用の電気は前者に含まれていて、後者は業務用である。街灯用の電力なども電灯側に入るようなので正確ではないが、業務用が7割以上、家庭用が3割以下とみることができる。商店などの電気は場合により電灯だったり電力だったりするのだろうが、設備の必要ない職業人が使うのは電灯が多いと仮定すれば、全体の3割にあたる電力のユーザーが原発に反対していると見ることもできる。もちろん、デモに参加しているのは企業に勤める人々も工場で働く人もいるだろうけど、電力供給に切実な危機感を抱く経営者が闇雲に原発反対を唱えるのを控えたって不思議でもなんでもない。簡単に図式化して考えると、国民の7割の人々が電気を大量に使う産業とは無縁な商売をしていて、電気全体の3割しか消費していないのに対して、国民の3割の人々が電気を大量に使う産業に属していて全体の7割の電気を消費しているというのが現実であって、しかし、その国民の7割だってのこり3割の人々の製造する製品やサービスの恩恵にあずかっているはずだということだってあるわけだ。

世界の工場が中国を筆頭とするアジア地域に集中するようになり日本の製造業も国内の生産拠点が全てであった時代はとっくに終わっているが、それでも7割の電気を必要としている。日本の国内の産業動向を考える時、これは今後その産業構造がどうなっていくのか、どうしていくべきなのかを考えずに軽々に結論ずけられる話しでもない。つまり、立場が変われば、真実が変わりうる問題だということだと考えることだってできる。この図式、かつて見たでしょ?第一次産業と第二次産業の従事者数が逆転して、日本が高度成長時代を迎えた時に、政治は、少数派になってしまった農村部の票に依存して成り立っていた。今は、どうなんだ、ということ。連合は、増税も原発も容認と僕には見えている。それがそのまま民主党の立場だという風にとらえてかまわないと僕は思う。おもいっきり乱暴に言いますよ。農村部の衰退と交代で成長した産業は農村部に原発の犠牲を強いた。今、衰退しつつある産業が原発を維持しようとがんばっているのを、今度は、新しい産業に属する人々が許さないと叫んでいる。それで産業がダメージを受けるかもしれないし、自分たちも産業の恩恵にあずかっているにもかかわらず。もちろんこうした言い方が正しいと思っているのではない。だけども、大局的に見たら、結局のところこれは日本が新しい産業構造に移行しているのにそれを感知して新しい制度に移行できていない政府の怠慢に対するプロテストと見えなくもないのだ。少なくとも僕自身は、これが自然な経済の発展過程として不可避な現象なのか、何らかのメリット、デメリットの評価の上から判断を下すべき社会の一課題にすぎないのか、それとも現代人の倫理に深く刺さった問題なのか、あるいはそれらの混交物なのか、といったことについて何も考えずにデモの先頭に立つ気にはなれない。本当に誤解してほしくないのだが、デモの先頭に立つ人を批判しているのでも揶揄しているのでもない。僕は、自分にはあの実行力はないし、真似もできないと素朴に考えている。少しは尊敬もしている。しかし、やり方の是非や効果の有無、運動の正しさについてはいまだ理解できていないし、判断もできていない。これは、半分くらいは自分がのろまなせいだが、残り半分はどうしても直感的に素直に参加しようと思えない何かが残っているせいだ。それをきちんと自分なりに分析して、その上でものを考えたいと思っているだけだ。ごちゃごちゃ考えずに、参加すればいいんだという人もきっといるには違いないし、デモに参加するのもしないのもどちらも好きにすればいいし、思想的な正しさなんてこのさいどうでもいいんだという考え方も自分にはないわけではない。しかし、それとこれとは別問題である。原子力問題については、それくらい自分は借りがあると思っている。簡単に再稼働反対だけで済ます気は毛頭ない。

ともかく、デモの現場に立てる人々が限られた人たちであることはよく考えておかねばならない。自分の所属企業や団体の性質を考えると反対ばかりも言ってられないという人々は、今は、ただ黙っているはずだ。鹿児島の市長選挙で原発廃止論の候補が敗れたというニュースがあったが、多くの人々は、それほど原発の心配ばかりしているわけではないということだ。これは、別に日本の大衆が頭が悪いせいでも、自分の既得権にしがみついてるせいでもない。単に、原発の稼働が問題の全てではないというだけのことだ。

(2012/7/14修正:「核燃料の劣化」という誤記を「核兵器の」に修正すると同時に、分り易く「老朽化」と表現を改めた。その他、文章表現上の修正。最後のところ大幅加筆。 )

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2012年4月15日 (日)

『原子力をめぐる科学者の社会的責任』 坂田昌一 樫本喜一・編

坂田さんの『坂田昌一 コペンハーゲン日記』を紹介した時に、原子力問題に関しては、本書が出ていることを書いておいた。『日記』と比べると、異なる場所で同じような内容をくり返し説かれているのが集められているので、通して読むと少し退屈かもしれない。文章のおかれる「場所」柄か、人柄故か物言いも上品で、武谷三男さんのような歯に衣着せぬといった所も少ない。しかし、それだからこそ、坂田さんが言いたかったことはもの凄く明瞭に伝わってくる。中ソへのシンパシー、社会主義への傾倒などは、今、坂田さんの著書を読むものを逡巡させるかもしれないが、これは思潮というもので、こだわる点ではないと思う。最後におかれた講演で、自然の階層構造と唯物弁証法の話題をちょっと述べられている所は個人的には少し感心をひかれるが、総じて主張されているところは、次の何点かに集約されるのではないだろうか。

  1. 原子炉の技術は、まだ確立していない。なぜ、自主的な開発を時間をかけて行うことをせずに、中途半端な技術を海外(この時期に対象となっているのは、英米)から買い入れるか。

  2. 英米は、結局の所、核エネルギーの世界市場での覇権をとることと、それにともなって軍事面の統御をきかせることを狙いとしていることは見え透いている。なぜ、そのような大国の見え透いた戦略に易々と乗らねばならないのか。つまるところ、それで一儲けしたい外国との関係の深い企業の利益以外に国益は何もないのではないか。

  3. 原子力の安全審査は、原子力の推進母体の下部組織などでやるのではなく、独立組織とし、学術会議からの推薦人を入れるなど、公開の原則を徹底し、民主的な決定を行うべきなのに、政府の政策は秘密主義に傾いている。

  4. 国家がそのような動きに走り戦争の危機を再び招かないように、世界の科学者は連帯して各国の政府から自立し、独立に提言をしていくべきだ。

特に学問の自由と政治からの独立性の重要さについては、くり返し述べられている。たとえば、つぎのようなエピソードがある。

 一昨年日本学術会議の学問・思想の自由保障委員会が全国の科学者にアンケートを出し、過去十数年間において学問の自由がもっとも実現されていたのはどの時期であったろうかと質問したのに対し、太平洋戦争中であったという回答をよこした人が非常に多かった。これはもちろん研究費が潤沢であったという意味の答だと思うが、日本の科学者の学問の自由という問題に対する意識がいかに低いかを示したものといえよう。過去において日本の科学者は学問の魂である自由の代償として研究費をかせいでいたが、戦後日本学術会議の発足にあたってはそのような卑屈な態度を強く反省したのであった。しかるに今また原子力研究の問題と関連して巨額の研究費を獲得するため過去と同じ過ちをくりかえすことがあるならば、日本の学問は再び科学者の良き意志に反し、悪しき目的に奉仕する結果となるであろう。これが原子力研究の形について慎重な検討を必要とする理由である。(本書 24ページ)

今の日本学術会議がどうなっているのか、目立った報道もなされていないので、Webサイトを見てみると、福島第一の事故後の動きとしては、次のようになっている。分科会ができたのは昨年末になってからだが、それまでは、震災関係は全部「東日本大震災対策委員会」で取扱って、7度の提言を行っているとのこと。実は、僕はこれは知らなかった。

放射能対策分科会

  • 第一回(平成23年12月8日)

  • 第二回(平成23年12月28日)

  • 第三回(平成24年1月16日)

放射能対策分科会からの提言(平成24年4月9日)

ここしばらく多忙にかまけて新聞もろくに読んでいなかったので、他に震災関連での提言が出されていたのも知らなかった。ニュースには、なっていたようだ

いずれにせよ、坂田さんは、学問が政府の侍女となるのではなく、政治からの自由を維持することの重要性を再三説いている。本書でカバーされている’60年前後ですら、それはすでに脅かされ始めているという懸念を著者は述べる。その後の学術会議について坂田さんがどのように見られていたのかは分らないが、戦中の御用学者への回帰の危険性を説かれているのを読んでいると、少なくとも原子力研究の世界では、坂田さんの懸念はある程度的中したのかと多くの人は思うだろう。

原子力三原則については、自ら主導してまとめられたからか、次のように強い主張が出てくる。

ことに原子力研究の場合においては、三原則の役割は他の学問と比較にならないほど重要である。三原則を無視してもよいなどというのは原子力の本質についてまったく無知な人間か、さもなければ原子力を看板に一もうけしようとする利権屋だけである。原子力が何たるかを本当に理解している人間は、三原則を基盤としないかぎり原子力研究はけっして人間に幸福をもたらしえないものであることを熟知している。もとより米英ソのごとき、いわゆる先進国においては原子力研究が三原則と矛盾した形で行われている。しかし、原子力の発展によってもたらされた現代の人類の危機は正にこれらの国々の研究が三原則を無視して行われていることの結果であり、このような状態がなお続くなら石炭や石油が枯渇するよりも遥か以前に全人類が破滅の深淵におちこんでしまうであろうことに思いを致すべきである。

もちろん、当時は核兵器の脅威が今以上に深刻であったことが背景にはある。しかし、原子力発電といえども、核兵器開発の副産物として軍事戦略と深く結びついたものであることが当時は今以上に強く認識され、核燃料の米英からの供給なども自由を奪う物として真剣に反論をくりひろげているのである。1950年代半ばにそれまでの秘密主義をゆるめ、アイゼンハワーが原子力の平和利用を急に唱え始めて日本などの後進国に濃縮ウランの供与を提案してきたのは、ソ連が水爆開発でリードし、原発の操業を世界に先駆けて開始したことがきっかけとなって、起こってきたきわめて打算的な計画であると言い切っている。

最近発表されたアメリカ原子力諮問委員会の報告が「原子力発電が国内で採算がとれるようになるためには、三〇〇億ドルにのぼる海外の潜在需要がかけ橋となるだろう」と述べていることからでもわかるように、僅かな原子燃料を貸し付けることにより、相手国の中のウラニウム資源を確保し、将来における原子力発電の輸出市場を予約しようというのがその主な狙いであった。それ故にこそ、未決定の要素の多い原子力発電に対しあたかもすでに確立された技術であるかの如き幻想を抱かせ、原子力に対し人類に幸福と反映をもたらす魔術であるかの如き錯覚をもたせるような大宣伝が行われているのである。最近日本を風靡している原子力ブームは全くこのような宣伝によりつくりだされたのであり、その意味で極めて危険なものと言わねばならない。(72ページ)

二、三年前から原子力の平和利用ということが世界的に騒がれており、日本でも米国から濃縮ウラニウムを借り受けるための双務協定が結ばれたり原子力委員会が誕生したりしたので、国民の中には今にも原子力からやすい電気が豊富につくり出されるような幻想を抱いている人があるかも知れぬ。三年前からソ連で五〇〇〇キロワットの原子力発電所が完成したことも事実である。しかし、原子力発電が本格的なものとなるのはずっと先のことであって確かな見通しはどこの国にもないと言ったほうがよいのである。今日米国や英国は日本に動力炉を売りつけようとやっ気になって宣伝を行なっており、日本の政界や財界の一部にもこれらの国と早急に動力協定を締結しようとする動きがある。国民はこのような動きの背後に何がかくされているかを鋭く見抜き、十分な警戒を怠ってはならない。純粋に学問的な立場から見ると湯川先生の書かれた文句のように、原子力開発は「ゆっくりいそげ」ばよいのである。(116ページ)

水素の原子力は一つの例であるがともかくパウエル博士の警句が示唆しているように、自然は無限の宝庫であり、今後の科学的研究の進展により、何時どんな新しい力が発見されないとも限らないのである。したがって、来るべき原子力時代に対処するには長期的観点に立ち、基礎的な科学の育成に努めることに重点をおくべきであり、他国から完成した技術を輸入するというような安易な他力本願的態度は一ときも早く捨てねばならない。外国ではすでに実用の段階にあり、輸入さえすれば、すぐ役に立つ技術だというのであれば、まだ話はわかるのだが、原子力発電の場合には日本国民に一片の福祉ももたらさないのである。(117ページ)

原子力開発をするなというのではない。しかし、なぜ早急に未熟な技術を輸入してまでそれを実現する必要があるのか。そんなものは、時勢に敏感な利権屋の食い物にされるだからやめておけ、と、いうようなことを丁寧に書かれている。別の箇所では、よくいわれるエネルギー不足について、次のように書く。

まず第一にあげられることは、原子力発電をいそぐ根拠となっているエネルギー問題がはたして至上命令なのであろうかという点である。今後一〇年あるいは二〇年後におけるエネルギー需給の見通しは確かに相当窮屈ではあるが、推定の基礎にかなり不確定な要素をもっているから、推定の方法によってはそれほどでもないという結論も出てくることを知らねばならない。またたとえエネルギー問題が至上命令であった場合でも、その解決をただちに原子力発電にもとめるという態度は、原子力に対する神秘的な信仰にもとづく非科学的なものであって、現実を知らない過大な期待というほかない。(119ページ)

結局のところ、需要と供給のいたちごっこは永遠のテーマだ。需要は伸びると供給側は言う。需要はそれに応じて伸びることもあれば、それほどは伸びないこともある。それは、元々、伸びるという前提の元での試算に過ぎないのだ。

しかし、原子炉が未知の要素を多く含み、法則性の的確にとらえられていない装置であり、放射能障害が通常の毒物による障害とは質的にまったく異なった性格のものであることを正しく認識するならば、原子炉の安全性ととりくむためには、まず基本的観点を明確にすることから始めねばならぬことが理解できるだろう。何を測っているかわからぬような物指をつくり、それで測って安全だといって見たところで、それこそ観念論であり、国民をごまかすおまじないにぬぎない。基本的な観点に立ち個々の問題ととりくんでこそ、はじめてどうすれば災害を防ぎうるかという実際に役立つ科学的な対策が生みだされるであろう。日本の学者には断片的な知識や末梢的なテクニックスだけを学問と思いこみ、そのよって立つ基盤を明確にする基本的な物の考え方が学問を学問たらしめる上に一番大切であることを忘れている人が多い。これはわが国の科学の植民地性の現われであり、外国でてぎあがった技術を輸入することに追われ、自分で創造した経験をもたぬことの結果だといえる。日本の科学技術の無思想性は学問の幇間性とも密接な関係がある。何故ならば学問を政治の従順な侍女としておくためには学問が思想をもつことは危険であったからである。(129ページ)

米英両国との動力協定が日程に上ってきたのは、我国に原子力の潜在市場をもとめようとする米英両国の強いよびかけと、これに呼応して巨利をむさぼろうとする産業界からの執拗なはたらきかけによるのであって、決して国民の幸福を目標として立案された原子力開発計画にもとづいているのではない。(138ページ)

結局のところ、ここで言われているところに原子力発電の問題はつきるのではないか。巨利はいささか大げさでも、自衛隊と同様、外圧とそれに呼応する内部対応者によっておぜんだてされたのが原子力発電に関する国の方針であり、国民の中からできあがっていった計画ではまったくない。それが、研究を必要とする技術であったとしても、実用に向けた取り組みが、1960年頃の日本に急務であったとは、今から見てもとても信じられないのだ。坂田さんは、『原子力委員会原子炉安全審査部会専門部会への意見書』で、次の三か条を求める。

  1. 日本原子力発電株式会社原子炉設置許可申請書ならびに第七小委員会審査報告書を公表すること。
  2. 原子炉の安全生評価についての基本態度、とくに事故時における一般人に対する緊急許容線量の限界について、原子力委員会としての見解を確立し、これを公表すること。
  3. ひろく学界の意見をきくため本部会と日本学術会議原子力関係委員会との懇談会を開催すること。

これらに加え、設置許可が行なわれたあとで信頼性を確認しなければならない点があまりに多いことなどの懸念点を述べ、これらの意見が認められなければ責任のとりようがないとして、半ば渋々引き受けていた安全審査委員を辞任するのである。国の安全審査の仕組みに対して、坂田さんは、次のような指摘を残している。

原子炉の安全審査機構の問題点

  1. 審査機構が原子力委員会の下部組織であるのは不適切。

  2. 必要な調査費もない。

  3. 任命制の委員では、民衆の安全はまもれない。一般的に言って任命制の委員には民衆に対する責任感がうすく、ひろく学界の意見を聞こうなどとは思わない。自分達は、政府から折り紙をつけられた権威者であると考え、いい気持ちになっていても、実際上の権力は官僚に握られ、彼らのつくった作文を形式的に裏付けるロボットと化している場合が多い。

科学者はただ科学していればいいというものではなくなった、と坂田さんは言った。日本への原爆投下は、遅れて参戦し日本の分割を狙うソ連に対する強烈なデモンストレーションであり、日本の敗戦はアメリカにとっても規定事項で戦争を終わらせるために原爆を投下したというのは言い訳に過ぎないことを坂田さんは言い切っている。日本の科学者は、この坂田昌一という優れた科学者の残した考えからどれだけ進歩したのだろうか。政府の役人と戦っても、国民のためになすべきことをする政府委員ははたしてどれだけいたのか?

 

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2012年3月25日 (日)

宮台真司の吉本隆明解説

http://www.youtube.com/watch?v=2ateTa6WAAE

ラジオの録音を偶然聞いたのだが、フーコーとの対談あたり以降に、日本の「思想界」界隈の人々が吉本さんをどう見ていたかを代表する割合に率直な意見だと思う。吉本さんの生前はこういうことをわざわざ言う人もなく、そっと無視をしている感じだったのではないかと思うが、これからこの種の感想は少しは聞けるようになるんだろう。しかし、宮台さんの説明する「大衆の原像」も「自立」も「資本主義肯定」も、教科書には(もし書かれるとすればだが)そんな風に書かれるのだろうなという意味でとくに間違っているわけでもないというだけで、やはり遠巻きに見ていた人の理解を出るものではないと思う。本人が生きていたらおっかなびっくりしか言えないようなことをやっと安心して一般向けに言えるようになったという安堵感がかすかにほの見えていて、親しみや敬意みたいなものと同時に少しの照れも感じるのだが、宮台さんって案外いい人なんだなと思ってしまった。

70年代以降の思想の死みたいな流れを理解しない吉本さんの説明をしているあたりは、ものにならないことが明らかな統一場理論に打ち込んでいた晩年のアインシュタインに対して、彼を尊敬する物理学者が感じていた複雑な気持ちに重なる物があるように思う。量子論が発明されて世の中変わっているのに、量子論に先鞭をつけ相対論をひとりで完成しているにも関わらず、それがもたらした成果を信用しないで見通しのない世界へ舞い戻る天才物理学者を遠巻きにしている若い物理学者達。

僕自身はというと、ヘーゲルに戻っていって体系云々言い始めたそのフーコーとの対談あたり以降の吉本さんがだんだんずれていっているというのにはあまり反論はない。フーコーも「ヘーゲル?」って感じだったのではないか。しかし、原発に対する吉本さんの見解がこの「ずれ」の典型というような解説を聞くと、それこそ吉本理解しそこないの典型だと感じてしまうのも否定できない。原発の問題は、別の記事で書いてきているのでそちらを読んでもらえばいいけど、吉本さんの言っている「技術」は、我々が困らされている現実の技術と概念のレベルが違う。吉本さん自身も、そこらへんは存外無頓着で、技術原理主義のようになっているところがあって、その意味では結果としては昨今の原発の議論とは論点が確かにずれているには違いないのだが、この吉本さんの技術原理主義は、技術の不可逆性を自然の発展過程の一部とみなす理解の仕方に由来していて、実はそこにこそ吉本さん理解の鍵があるのだが、このことの深刻さはまだ人文科学系の学者には十分に理解されておらず、宮台さんような解説が許されてしまう原因となってしまっている。
この理解されなさっぷりは、80年代以降の吉本さんの理解されなさっぷりとほとんど重なる。結局の所、これは、表現に関する理論的な展開を自然理解の仕方と関連させてその仕事をながめられるかどうかにかかっているのだ。吉本さんのこのへんの仕事の原点は、『言語にとって美とは何か』の「表現転移論」にある。この成功体験が、その後の吉本さんをずっと支え続けていたことは間違いない。個別の仕事を断片的に見ていると、その時々の関心の対象をそのまま取り入れて料理するというかなり行き当たりばったりな試行錯誤を続けているように見えるところもあるし、西欧思想の流行に妙に敏感に反応する割に主流となっている理解からは遠い勘違いっぷりに終始しているようにも見えるし、勝手な材料を勝手に独断的に料理していて、はなから議論が交わらない面もあるし、というわけで、プロの学者や研究者がつきあいきれないと判断して敬して遠ざけるかむしろ端的に無視してきたのはよく分るのだ。しかし、そのことによって、吉本さんの幹となる表現の理論に関する展開の道筋を見失っているのは非常に残念である。これを、自然の弁証法や弁証法的唯物論の系統の思考の残渣とみなして忘れてしまうのは簡単だが、そんなに簡単な問題ではないというのが僕の意見だ。アフリカ的とかアジア的のような怪しげな概念を振り回す吉本さんをあまり無視しないほうがいいと僕はずっと考えてきた。その背景にある考え方は、現在でもまだ死んでいないかもしれないからだ。

結局のところ、グリーンアクティブのような動きがいくらかは期待感を漂わせながら少し残念な感じがするのと、この種の残念感は底ではつながっているのではないだろうか。短い時間の中だし、一般向けの概説なのだから、あえて単純化して簡単なことしか説明されなかったのだとは思うのだが、聞いていて党派性の問題も自立の問題も本当に考えたことあるのだろうか?と感じてしまったのも事実なのだ。
たとえば、宮台さんは、「自立」を党派性の対立概念であるかのように説明していたが、それは「自立」概念の一面でしかない。自立概念には、借り物でない自分の思想(鶴見さん流に言えば、自分の固有の偏見)を軸として歴史的な現実に対峙する姿勢が含意されていて、自分の立っている場所は自分自身でつくるという基本的な発想がある(それゆえに『言語にとって美とは何か』の最終章は、「立場」であったのだ)。というよりも、それより他に思想の語られる場所はないというのが、「自立」の出発点であったといった方がいいのかもしれない。その思想なるものが正しかろうと、そうでなかろうと、その立っている場は平等に批判に曝されねばならないし、その結果として乗り越えられるようなものなら乗り越えられればよく、決して自分の政治的な立場を守る防護服のように強い思想を学びその言葉をしゃべるようになることが思想を語ることではない。ロシア・マルクス主義は、思想を宗教に転換してしまい、マルクスやレーニンを教義にしてしまった。西欧のマルクス主義の強い影響下にあった日本の左翼知識人は、それ以下で、ほとんどは結局自分の言葉でしゃべれてやしないではないか、というようなのが自立思想に顕著な考え方だったと思う。党派性に対する否定ももちろんだが、それは、借り物の知識を自分のもののようにして話す日本の知識人に対する否定でもあって、この批判はそのまま現在でも有効だという点が実は大事なのだ。マルクス主義が西欧社会で退潮して構造主義になれば、構造主義にながれ、構造主義ってなんだとやっているうちにポスト構造主義だとなれば、今度はそっちだとながれていく。西欧の書店に並ぶ書物をながめていれば、数年後の日本の思潮はほぼ予測できるはずだ。何も、ビジネスだとか情報科学のような分野ばかりではない。その都度、何が新しい考え方なのかを解説する人が現れ、多くの人は原典を読まずにそういう文献でいっぱしの口をきくようになっているだけなのだ。『構造と力』がなぜベストセラーになったのかを考えてみるとよいと思う。結局のところ、それは、ドラッカーなどと特に異なる読まれ方がされていたわけではないのだ。

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2012年2月13日 (月)

「原発」都民投票 のこと

 

先日、「原発」都民投票なるものへの署名を駅で求められた。街頭署名はしないことにしているので、宣伝のビラだけもらって帰った。東京管内の原発稼働の是非についてのものだという。

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中を見ると、天野祐吉さんから始まって、谷川俊太郎さん、ちばてつやさん、辻井喬さんみたいな名前があって心が動くのだが、結局署名しなかった。ブログで原発の問題を扱いだしてから何度か書いてきたことなのだが、これは、こっちがだめならこっちというほど簡単な問題ではないと考えているからだ。

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ただ、誤解しないでほしいのだが、僕は、原発の停止や廃止にも、国民投票にも特に反対しているわけではない。大局的に見れば、理論的にも技術的にも大規模の原発の国内における維持は危険性が高いし、短期的にみても現在停止中の原発の再稼働を拙速に行うべきではないしその必要性も少ないと考えている。だから、当面どうするかについて具体的な意見を表明せよというのなら、福島第一の事故をよく分析して(これは、まだまだだというのが現在の認識)他のプラントについても同様の問題がないかを十分に、第三者の監理の元に明らかにした上で、住民にはかるべしとは思う。その意味では、再稼働反対だと言ってもいいのだが、そのような具体的な説明がここには何もないのだ。ともかく、原発を止めたいという思いしか伝わらない。しかし、軍事と同じで、これはそんなに簡単な問題ではない。投票をして、たとえ98%の人が反対しても政府が再稼働に舵をきるということはありうる。

原発がなくてもやっていけるという検討結果は、立命館大の大島さんが本に書かれており、昨今の電力事情を見てもそれほど間違いではないと思っている。電力に限らず、社会インフラとして安定したサービスを提供する施設は、今時点ではなく数年先の需要に基づいて計画されているはずだし、現時点で余力がない状況では自然災害にも突然の石油供給の途絶にも対応できないことは明らかだ。今は、多くの人々が原発事故の怖さにばかり目がいきオイルショック以来叫ばれてきた石油資源の枯渇の問題にも、石油を中東始め海外に依存せざるをえないわが国のエネルギー事情も忘れかけているように見える。石油資源の枯渇についていは、実は石油資源の探査が進むほど埋蔵資源量は年々増えていくわけで、よく言われるあと何年分というのが、現在見つかっている資源の範囲での話しであることはもうよく知られていると思う。しかし、少なくとも新たな石油資源確保が次第に困難になっていくことは明らかで、海底油田の事故に見られるように、自然汚染のリスクはそこにもないわけではないのだ。原発の否定のために、石油火力を是とせざるをえないとすれば、そこにはトレード・オフの余地が残されていると考えなければならない。石炭だって同じ事だ。

自然エネルギーはどうだろうか。風力発電は、一見クリーンに見えるが、人の立ち入れない住めない広大な領域、しかも一年を通じて投資に見合う発電効果の得られる強風の吹くエリアが必要だ。つまり、どこでもできるというものではない。小型の風力発電も不可能ではないにしても、使いたい時に電気を使うという供給目的には必ずしも向かない。地熱発電も恐らく全国的な電力のニーズを満たせるほど発電に適した土地があるわけではないだろう。太陽光発電は、家庭用や一般のオフィス用としては有望だが、産業用の電力全てまで賄うのはどうか。もちろん、ガスやゴミの活用、バイオ・エネルギーや位置エネルギーの利用、いずれも小型の設備で身の回りの電力供給を満たす分野はどんどん推進すればいいと思う。大規模化への挑戦も必要だ。そのこと自体は何も間違いではないし、両手をあげて賛成する。集中大規模発電に対して、分散発電が今後の流れであることは明白だと思う。また、潮汐発電などは、環境破壊の問題はつきまとうが、海国日本にとっては有望な気もする。それらの研究や推進に反対する人は今はあまりいないだろう。かつては、電力会社が反対勢力の代表格だったと思うが、これからはそうも言ってられないだろうし。

しかし、原発の廃止や停止を即座に国民(都民)投票で今決めようという発想にはすぐには同意しかねる。僕は、「原発の是非」についてはこれまで一貫して態度を保留してきている。それが将来の展望のない技術になりかけていることについては、異論はない。人も集められず、批判も多く、政治的な流れとしては廃止の方向でものを考えざるを得なくなるだろう。また、理論的な根拠としても、僕は武谷三男さんが主張されていたように、住民の安全を確実に保証する観点からみれば、国内で巨大な原発設備を維持するのは不可能だし、現在の立地を見れば明らかなように地方の貧しい地域の犠牲の上に成り立っているものであることは明らかだ。このことにまつわるほとんどの説明は、論理的に破綻していると考えている。だから、大局的に大規模な原発が廃止の方向に向かうことは好ましいことだと考えてきた。そうした方向性についての投票であるなら、僕は迷わずに廃止に一票を投ずるだろう。だが、問題になっているのは、当面の東京都の電力事情についての政治的な判断なのだ。これは、倫理でも思想でも信条でもない原発アレルギーでもない、当面どうするかという論理的な判断を要する投票でなければいけないのではないか?もしそうなら、十分に妥当な検討がなされた結果として、これから向こう何年かの電力供給についての選択肢は提供されているだろうか。この宣伝ビラを見てもそんなことはどこにも書いていない。A案、B案、C案くらいは、僕が考えたってつくることができる。なぜこの投票の推進者たちはそこに力を注がないのだろう。あり得るプランを出してもらわなければ、判断のしようもないではないか。

このような行動は、つまり、多くの人ひどが敬愛する谷川さんのような方まで引っ張り出して、あなたは原発推進ですか反対ですかと問うかのような行為は、本当は複雑な問題の断面だけを見せて住民の同意を引き出す極めてアンフェアな方法だと僕は考える。ドタバタの中で、原発の「反対派」が、大衆の大多数が抱く原発はもうこりごりという感情を束ねて政治的な圧力に変換しようという動きであるのは確かで、たとえ当事者達が自分の信念に何の疑いももっていなかったとしても、具体性のない提案への賛同集めは、かつて何度も見た光景なのだ。多くの人は、多分この動きに賛同するだろう。それは仕方のない事だ。こんなに多くの人に迷惑をかけるものを日本の大衆は決して許さないだろう。それはそれで結構なことだと思う。その人たちの判断には僕は喜んで縛られようと思う。しかし、その判断をもらう前に、識者達はもっとやることがあるのではないか。

僕が、ここ数カ月の間、巨大技術の実行可能性やら、古い反原発の市民運動まで遡ってこの問題を考えてきたのは、原発に反対するためではない。理論的に、だめなものを葬り去り、真に重要で可能なものを見いだすためだ。原発賛成・反対の二元論には初めから興味はない。原発などただの技術であり、やめたければやめればいいだけだ。反対するのは、そこではない。その技術をこの日本の状況においた時に生じる様々な政治的な状況に対して、ノーと言わなければならないので、原発が危険だから反対だという意見に多くの人の賛同を集めても本当は大した意味を持たないのだ。その投票で、原発を推進してきた過去を否定することはできても、未来への指針を導くことはできない。既に述べたように、日本国内では、大局的には、大規模の原発は廃止せざるをえないのは明白なのだ。意思表示をするのは結構だが、自明な結論を再確認する以上の意味があるのだろうか?政治的な失策を棚にあげて技術を攻めるというのは、政治的な誘導だとまずは思うべきだ。また、現時点では石油でも原子力でもない代替手段は僕には見いだせていない。いわゆる自然エネルギーとして取り上げられているものは「感じが良い」ので自分をクリーンなイメージで包みたい人々が群がるのは分かる(と嫌われそうなことを言ってみるのだが)が、それが解ではない可能性は決して低くない。つまり、大きなエネルギーを取り出すことを考えると、程度の差はあれ、どんな発電方式を採用しようが必ず自然破壊や地方の犠牲を伴うと考えたほうがいいということだ。もっと単刀直入に言えば、もしかするとこのような形での運動は、問題を東北の沿岸からたとえば千葉県の沿岸に移すだけのことかもしれないのである。そうではないと、僕はまだ自信をもって言えない。つまり、その程度の代替案しかない状況で、既に稼働環境ができあがってしまっていて地元の人々をよくも悪くも巻き込んで、地域の生存のベースとしてくいこんでしまっている原発をすぐにやめるという判断が、詳しい説明もされずに、なぜ事情に疎い都民にできるのか。これは、地方差別に鈍感だったと非難されるこれまでの都民の無関心を気持ちよく肯定する運動なんじゃないか。

僕の疑問を整理すると以上である。そうではないという反論もいろいろあると思う。反駁は歓迎するし、気持よく説得されることも幾分かは期待している。しかし、スローガンが正しければ運動が肯定されるなどということはもう終わりにしなければならない。それは、極めて旧左翼的であり、これまで国のよくない政策に対抗しきれなかった勢力の典型的な末路を象徴している。残るのは、スローガンだけなのだ。それが初めから現れているパンフレットに、僕はどうしても疑問を感じざるを得ない。国民投票は結構なことだと思う。だが、その前に自分達の膿を出しきるための身を切り血を流す思考がどうしてもなければならない。「この前にまず考えよ」、僕の直感が囁くのは、結局そういうことなんだろうと思うのだ。自分が傷を負うことのない場所というのが目の前に現れたら、まず警戒せよ、といつも思っていることだが、今回まさにそれなんじゃないか。とも、一応言っておきたい。

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2012年2月11日 (土)

『放射線生物学』 日本放射線技術学会・監修 江島洋介、木村 博・共編 前澤博、村上優子、小幡康範

放射線技術学シリーズという放射線技師を目指す人向けの教科書シリーズの一冊である。他にも、放射線物理や放射科学など様々な教科書があるので、関心のある方はこちらを見られるといいと思う。内容は、大学レベルなのだろうけど、高校の物理・生物・化学を学んでいれば読むのに特別不自由はないと思う。ゴフマンの本もそうだったが、専門書にしてはとても分りやすく書かれている。放射線防護については、最後の章があてられているが、ICRPの1990年の勧告までの説明である。その後の動きも含めて改訂された第2版が昨年11月に発行されているようだが、そちらは未見である。教科書なので、内容についての論評はしないが、個人的には今まで手にしたこの分野の書籍の中では一番分り易く、基礎的な事項が網羅されているように感じた。主な目次は、次の通りである。

第1章 放射線生物学の基礎 江島
第2章 放射線生物作用の初期過程 木村
第3章 放射線生物学で用いる単位と用語 木村
第4章 放射線による細胞死と生存曲線 前澤
第5章 突然変異と染色体異常 江島
第6章 組織レベルでの放射線影響 村上
第7章 個体レベルでの放射線影響 村上
第8章 放射線による発がんと遺伝的影響 江島
第9章 腫瘍の放射線生物学 小幡
第10章 放射線障害の防護 前澤

一読して、これまで断片的に見聞きして、おぼろげな理解しかしていなかったことが、体系立てて随分整理された気がする。少しもやもやが晴れた感じだ。専門的な書籍は他にもあるが、本書は、全体で200ページ程度の本で絞った記述内容であり、難易度は高くない。決して多くはないが、参考になるWebサイトや参照資料があげられているのも知らない者にとっては役に立つかもしれない。しかし、少し調べれば行き当たるものが多く、いかに狭い業界なのかが分る気も同時にする。放射能の人体への影響について理論的な説明を求めている方にはお勧めする。ただ、市場が小さいわが国の専門書の常としてページ数の割に値段はちょっと高い。

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