カテゴリー「建設的意見」の記事

2013年9月 4日 (水)

物理学者の意見とは

当ブログへのアクセス記録を見ていて、ある匿名Blogサイトのリンクからいくつか飛んで来ているものがあるのを見つけた。そのサイトの方は、僕の原発関連の過去の記事にリンクをはって、よく整理されていると紹介してくれている。誰だか分からないが、いちおう感謝したい。Blog氏は、続けて、これらの物理学者の主張を読んでも新鮮味はないと言って、要するに彼らの主張は左翼がかっていたので浸透せず、多くは概ねたこつぼ研究者となり一部の例外だけが大学の隅っこで権力にたてついてきた、一部の文系左翼は社会に不満をもったまま現代の指導層に組み込まれて権力の手先となった、と震災後そうしたことが自分には明らかとなったが大多数の研究者にはそれがまだ見えていないと、まとめるとだいたいそのようなことを書かれている。

すべての研究者は、というほど今の大学の研究者の実態を知らないのだけど、東大の先生方を初めとする学者たちの一種の無抵抗主義と政府見解へのナイーブな関与の仕方を見ていて、この人たちほんとにだめだなと思った人は多いだろうと思う。とはいえ、僕自身できない大学生をやっていた頃から理系の学者さんのたこつぼ化は見りゃわかる状態だったから、この意見には少し驚いたりする。あれ、今気づいたの?というように。この点は、単によく分からない。大学行った人は、みんな大学でたこつぼ的な無関心の共同体を嫌悪するという通過儀礼を経て社会に出たりしているのではなかったんだろうか。

それはともかく、坂田さんや武谷さんのようなマルクス主義的な唯物論のながれにいた学者は別にしても、朝永さんなんかも含めて原発導入の頃に議論の中心にいた学者の意見は左翼がかっていたので浸透しなかったのではなくて、はなから政治家には馬鹿にされて国の行政の中ではほとんど顧みられなかっただけのことだと思う。意見を出す側はそれ以上どうしようもなかったろうし、学者のポジションを求める人間などは掃いてすてるほどいるわけだから、予算と地位が用意されていれば研究しようかという学者は必ず出てくる。もっといえば、国から予算とポシションをとってこない学者に人望が集まらずに少数化するのもさして不思議なことではない。学者、特に国公立の学者は結局のところ税金のおこぼれで食わせてもらっている存在に過ぎない面が我が国では少なからずあるからだ。直接的に利益をもたらさない純粋科学ならなおさらだ。一家の大黒柱がなぜ居候の意見など聞かねばならないか?

それ以前に、そもそも、これらの物理学者の意見はそれほど左翼的ではない。古色蒼然とした人道主義的ではある。というよりも、アメリカの核についての覇権主義を批判したら左翼だというのもどうなのか?その発想は御用学者と同じじゃないのか?という自問は必要だろうよとは思う。

僕が、これらの学者さんの当時の主張に注目してきたのはもちろん意図がある。多くの人がいっせいに原発について考え始めた状況で、あまり誰もやっていない出発点における議論を誰もが参照できるようにしておいたら意味があるだろうという考えも幾分かはあった。引用が少々過剰なのはそのためだ。実際、原発事故問題のなかで語られていた論点の多くは死の灰以降のあらゆる議論をなぞっている。おそらく丹念に整理すればネットに転がる原発言論の90%は既に一度は議論されているものではないかと思うくらいだった。意見の出方、議論の発散の仕方、みんないつか来た道に過ぎなかったりする。その終着点も。それらはどれだけ強い批判であったとしても行政実務の世界とは乖離している部分があって、奉られたとしても精神として根付くことがない。これは国の諮問や審議会のあり方と同型であって、学術会議も原子力委員会も例外ではなかったということだろう。学者がなんと言おうが、政治がやると言ったらやるのである。多くの学者がそうしたものに近づかず、一部の出たがりや過信型の自己主張が強いタイプが知らず御用学者として取り込まれて行く。

原子力導入期の議論を読みながら検討してきたのは、学者や有識者の総意などではなくて、一部の都合のよい意見の集約で国の方針が決まり、一度決まれば、多くは黙って決定事項に従うか背を向けるだけというようにして国家レベルのプログラムが開始され、異なる意見を言っていたほとんど全ての人々が沈黙を余儀なくされていく状況自体についてだ。それは、そうした官主導の大規模国家プジェクトの実行可能性こそが原発について問われなければならない本質だからである。原子力発電自体の危険性が技術的に乗り越えられるのかという課題もあるだろうけど、それがもつ技術的な制約は元々明白であって、それをきちんと把握しながらどのように国の実行プランを作ってきたのかが本当は問題なのだ。それがいい加減な政策的なバイアスで本質的な課題を先送りにしながらごまかしごまかし進められて来たものであることはほぼ明らかだ。現時点においてなお、政府や東電の発表はしばしば戦争中の大本営発表になぞらえられているけど、原発事故は、ほとんど太平洋戦争の敗戦と同じ課題を持っている。原発事故問題もまた第n番目の敗戦であって、他の身動きがとれなくなっている社会問題の数々と同じく一度走り出したら止まれない我が国の政策立案者とその同伴者の末路を典型的に示しているからだ。

残念ながら、この国は間違った選択をして、嬉々として地獄へ向けて走って行く人々をうまく止められないという致命的な弱点を抱えているようなのだ。いつか豊田さんの原発本を批判した時に書いたように、原発関連の部品を輸出するのならまだ分かるが、政府主導でやってきたプロジェクトごと輸出するのならやめた方がいい。それは一度無惨に破綻の姿を示したし、その後、その欠陥について何の検証も国としての総括も行えていない技術領域にあるからだ。一度走り出したプロジェクトは大規模であるほど止めにくい。これは洋の東西を問わない。人間の本質に根ざした部分があるからだと思う。しかし、西欧ではしかるべきときに失敗したプロジェクトという烙印を押す奴が必ず出て来る(それが直ちに良いことだとは言わないが)。我が国ではどうだろうか。言うまでもなく、福島事故の責任は問わずという国なのだ。責任は、天災におしつけて。あるいは、担当者におしつけて。また、あるいは、国民に押し付けて。

そのような国を許容しているのは国民である。押し付けられた責任にたいして怒る人は少数派で、再び、その原因を作った政党が支持される。そのような事態に対して、民度という訳のわからない言葉を使う人間をぼくは信じないが、たとえば、批判ひとつをとってもそうした訳の分からない言葉で済ましてしまうことを常習化して本質的な議論を避け続けた挙げ句の果てが福島だと思えばだいたい合っているのではないか?東大の先生方の活動は立派だと思う面ももちろんあるのだけど、本質から目をそらして沈黙していることにおいては全く同じだし、そのことで国を許容しているという意味では、自民党の復権を許した国民と同じ罪を背負っていると言わねばならないと思う。

で、もちろんこういう言葉は必ず自分に返ってくる。大きな声で批判を口にして自ら傷ついていないものを僕は信用しない。もう言いたいことを言っていれば済んだ時代は終わってしまった。「評論家」や「ジャーナリスト」の時代も終わった。何らかの形で当事者にならずに意見を言える時代はもう永久に去ってしまった。

| | トラックバック (0)

2012年8月17日 (金)

反原発について(2)

何度か書いているが、原発はただの技術だ。そのよしあしは、科学的に判断ができるしされるべきだ。しかし、現実には、よくない技術でも様々な理由で直ちに消え去ることはない。もちろん、その逆もある。良い技術だからといって普及するとも限らない。VHSとベータの競争を思い出そう。そもそも、何がよい技術なのかを決めるのは簡単ではない。たとえば、自動車のエンジンは、環境に与える負荷の点からガソリンやディーゼルよりも電気の方がクリーンなように思われているが、その電気を起こすのに原発が必要だとしたらどうだろう。どちらが良い技術なのだろうか。強い規制がかけられることがあるディーゼル・エンジンも技術の進展でガソリン・エンジンよりも排ガスがきれいなケースもある。産業革命の推進力になった技術は、一方で公害問題も起こした。しかし、その問題の多くは次第に克服されてきている。何よりも、人間を貧困から救い出し多くの人々の生活水準をおしあげたのは確かだ。産業革命がなければ、インターネットだってなかったわけだ。技術は、時間とともに改良され進化していく。科学技術の非常に大きな特徴は、今あるものを基礎に時間とともに必ず進化する方向でしか進展しないことが予め運命づけられていることだ。つまり、よくない技術という表現が本来はおかしいので、その技術のよくない点は、乗り越えられなければいけないものとして存在しているといったほうがいいかもしれない。だから、よくない技術は直ちに消えない。技術というものは、乗り越えられるべきものとしていつも存在している。乗り越えられることで、古い技術は静かに退場するだけだ。相対的に優れていないものとして過去のものとなるだけのことなのだ。

技術は、多くの人の生活に関係する。それらは、自然を変え、新しい価値を生み出し、既存の自然を破壊する。プラスもあれば、マイナスもある。人々は、その技術を利用する過程で学習し結果を共有し、選択をする。自動車のエンジンの例で言えば、それらの技術のどれが優れているかを決めるのは技術者ではない。たとえば、市場がそれを選択する。しかし、それが全てではない。政府が規制をかける場合もある。市場性は少ないが重要な技術というものもある。いずれにせよ、それらは社会的に選び取られるのだ。自分たちを滅ぼしてしまうようなだめな技術を人間は好き好んで選択はしない。微細な時間スケールで見れば、誤りもあれば正解もあるが、あたかもランダムウォークのようにして技術は洗練され正しく選び取られていく傾向がある。核の問題は倫理の問題のようにして提出されるので紛らわしいのだが、本当は、技術の良し悪しは、たとえそれが独断専横的な軍事技術開発であっても、社会のふるいにかけられねばならないということだ。このことは、人間のつくる社会が技術を利用するのであってその逆でないことからくる必然だと僕は考える。ロボット三原則は、科学技術は人間の主人になれないことを原則としてうたったものだ。しかし、それは、原則の問題ではなく、原理の問題である。原理的に人の恣意でそれは変えることができないものだということだ。

原発も、そのような運命をもって生まれた科学技術のひとつに過ぎない。それは、どんなに国家が保護しても社会的に選び取られるべき候補のひとつ以上の存在ではない。そして、それは、乗り越えられなければならないよくない点をたくさん内包している技術である。これはもう十分にあきらにかになっている。だから、そのまま放置すれば、この技術はよくない点を改良して生まれ変わるか、社会的に選択されずに廃れるかするはずなのだ。つまり、もし、通常の技術と同じように市場にさらされているなら技術的に問題点を乗り越えるか市場競争に敗れて衰退するかしか選択の余地はなく、それ自体に反対する行動にはまったく意味がない。それは反対するべき対象ではなく、乗り越えられ淘汰されるべき対象である。

だから、問題は、そのような自然にまかせておけばよいものを国家の手で保護し、推進力を与え続ける体制を作り上げてしまったこと、そしてその体制の崩壊を必至で食い止めようとしている人々が社会的な選択を妨害して社会の科学技術に対する選択権を独占しているところに求められなければならない。

ところで、技術が、人間の自然史的な時間の流れ方と無関係に極端に短い独自の時間発展をするところが近代以降の非常に大きな特徴で、この時間発展の急激さは、企業家にとっては飯の種になる。資本主義は、時間・空間の進み方のずれから価値を生み出し利益を得るのが本質である。たとえば、バブル経済は、多かれ少なかれ、本当には存在しない(つまり、現実の人間が生み出す具体的な価値とは無関係なところで仮構された)価値を作り上げることで、価値が下落する回路、つまり、新たな価値で乗り越えられることのない価値を生み出してしまうことが原因で起こる。増えすぎた価値を、現実の価値が支えきれなくなって破綻するからだ。日本の土地バブルの場合は、無限に価格が高騰する土地というありえない幻想に人々がハマった結果であり、これによって未来の価値との差額を利益として商品化した結果として、あてにされた当の未来である現在の経済はバブル経済に依然として蝕まれ続けるという構図になっている。これは、時間の差異、時間の先取りによる幻想だったわけだ。

原子力は、実は、この時間の差異が生み出す価値としてみれば、極めて奇妙な技術である。それは相当に困難な安全上の課題をかかえたまま、1960年代には商用稼働していた。そのころの原発は、軍事技術のはしくれで、運用に携わる人々の安全は二の次にして目的の元にともかく形をつくられたといった体のものであり、ほんとうに商用利用を目指すなら、もっと基礎的な研究が必要だったはずのものだ。未来の先取りにしては乱暴すぎるのだ。つまり、たとえばそれは、アメリカの広大な土地があって初めて成立する安全な立地条件の確保を前提とした技術だった。このような金も手間もかかる不安定なものは、普通は利益をうまない。資本主義からみれば、こんな筋の悪い商品はないはずなのだ。しかし、どういうわけか第二次対戦の主要な戦勝国の多くはそれを推進した。僕は、これは核兵器で使用する核燃料を高品質に安定的に供給するための核燃料工場を採算ベースにのせて核戦略上の優位性を保つための方便だったと考えている。原発に熱心だった国は例外なく核兵器を開発している。つまり、原子力発電がもたらす価値は、核兵器戦略上の優位性にほかならない。

日本への原発導入にあたっても、米国の核燃料工場の下支えという意味がなかったとは僕には考えられない。だからこそ、危険に満ちた初期の原発を立地条件に関する米国の厳しい規定を大幅に緩和してまで、戦後の日本は原発を導入せざるをえなかったのだ。沖縄基地と同じことだ。本当は不安定かもしれないことなど政治家は百も承知で、そうした現実に目をつぶり、事故が発生したときの最大の防御壁である立地の問題については初めから諦めた上で、むしろ国家による保証の体制の方を議論するように誘導したはずなのだ。こうしたことをスムーズに進めるには、基準の恣意的な変更や正しく問題点を指摘する学者を検討体制に入れないようにする閉鎖的な環境の整備などが必要であり、黒を白といいくるめなければならない必然もあった。原子力ムラは、つまるところ、頭から尻尾まで完全に官製であると考えることができる。この運命共同体は、原子力発電事業を成立させるためには不可欠の条件だったとも言えるのだ。

最初の原発だが、研究炉を除けば、1970年頃に、敦賀、美浜、福島第一があいついで一号機を稼働させている。つまり、万博の年だ。細かな技術改良はあっただろうが、その時から今に至るまで、これらの原発はそのまま何も変わっていないということにもっと注目する必要がある。それらは、太陽の塔や、あの万博の開幕の主役だった巨大ロボットと同じ技術水準にいるのだ。現在でも。もちろん、あたらしい技術水準への追従は要素技術レベルでは都度行なわれてきただろうが、基本的にアーキテクチャが変わっているわけではない。それは、アーキテクチャが許容する範囲で行われた改良に過ぎないはずだ。また、原発の老朽化は、ただ建設した物理的な構造物が古くなったということだけを意味しない。巨大システムは、それを成り立たせる考え方やインフラまで含めてひとつのものと考必要がある。それは、建設企業、運用企業、官僚、学者、地域、利用者、下請け運用者、保守業者、等々の多くの人々と無関係に存在しているわけでもない。それはひとつのプラットフォームであり、利益共同体が運命をひとつにして乗り込む乗り物でもある。先ごろスペース・シャトルが運用を終えたが、これにともなって何千人もの技術者が失職することになった。長期に渡って維持される巨大技術とはそのようなものだ。スペース・シャトルが、70年代のアメリカン・ドリームをどことなく感じさせる乗り物だとするなら、初期の原発は高度成長期の日本の雰囲気をどこかに残している乗り物だと言えなくもない。導入の経緯はともあれ、この未来の技術を自らのものとし、日本の有望なエネルギー源のひとつとして自らの人生を託してきた多くの人々が実際にいるのだ。システムは、技術が陳腐化して更新が必要になることもあれば、保守部品の調達が難しくなったり、物理的に古くなって修理費がかかりすぎることから作り替えたほうがよいと判断されることもあるが、支える人がいなくなってすてざるをえないこともある。シミュレーション技術はおそらく比較にならない。机上で検証できる範囲が当時と今では雲泥の差のはずだ。当時はわからなかった危険性が今なら分かるということだってある。そうした状況の変化に追随し切るのはどんなシステムにとっても困難だ。昨今のように海外へのインフラ輸出が戦略になってきたようなご時世ならともかく、そのようにして、さしたる競争もなく隠蔽体質の業界で新しい血もいれずに反対意見を排除してよく知った間柄で仕事を続けていれば、馴れも生じるし腐敗もする。原発は、そのようにして官の仕組みや携わる人々も含めてプラットフォーム全体が老朽化し、新しい要求に答えられなくなっているというのが僕の考えだ。特に問題なのが、人間系のプラットフォームである。このような状況をまとめてみれば、要するに、1970年の技術が護送船団的に関係者をまとめながらなんとか2011年まで流れ着いたが力尽きて破綻した、というのが今の福島第一原発の姿だといえる。スペース・シャトル同様、退役の時期にさしかかって大事故をおこしてしまったプラットフォームと全く同じ構造がここには存在する。

| | トラックバック (0)

2012年8月12日 (日)

『エネルギー・環境に関する選択肢』に関するパブコメを提出

「パブ」コメですので、内容を公表します。
以下、送信したままです。

**************
記述スペースの制約から、以下、簡潔に骨子を述べます。

このパプコメ資料では、原発のパーセンテージが選択肢になっているが、非専門家である国民には0%以外の案の妥当性について判断のしようがない。これらの原発事業の継続案がなぜ必要なのかについては論理的な説明がなされていない。また、原発の継続が真にどうしても避けられないならパプコメの必要もないはずである。首相がかつて脱原発依存を約束したにも関わらず、選択肢として原発比率が提示されていること自体に困惑を覚える。できるだけ早期に原発に依存しなくて済む状態に移行するために、どのような工程が必要で、とりえる選択肢として何があるのか、代替エネルギーとして何を開発していくのかについて選択肢が提示されているのならまだ理解できる。つまり、これは、検討の順序が逆である。政府は、まず原発の廃止がどこまでにどの程度可能かを先に検討するべきである。その上で、当面どうしても残らざるを得ない原発があるなら、その規模と個所と期間について明確にし、それらをいつまでに廃止できるかを提示し、それにともなって生ずる課題や選択肢を提示すべきである。

そもそも、2030年の目標を検討するという検討のあり方に問題がある。エネルギー政策には、長期的な視点が不可欠であることは理解できる。しかし、電力需要の予測は今後の技術開発やエネルギー消費動向の分析、予測により常に見直されるものであり、政策も戦略的に決定されるべきものと考える。これは、既存の枠組みや手段をどのように活用していくかを検討するより現実的な課題である。しかし、現下に問題となっているのは、2030年にどのようなっているべきかを語ることではない。いつまでに原発依存からの脱出を行うかの目標設定である。そのための制約や限界点について明確にした上で、実現可能な目標設定を行うことである。一方で原発即時全廃という議論も現に存在し、このパブコメ資料自体2030年でゼロという選択肢を提示している中、この選択肢案はその実現時期を明確にすることを避けて、2030年というどうでもいい中間点の状況について根拠のない選択肢を提示して原発廃止の議論から目をそらすものと言われても仕方ないのではないか。実際に、2030年でゼロということはそれまでは一定比率で原発が稼働を続けることを含意しているが、それをいったい誰が了承したのか?その議論が先にあるべきではないのか。そうした本質的な議論を避けて、この時点で2030年の目標を設定することにどういう意味があるのか、私には全く理解できない。しかも、ここで提示されている0%以外の案は、自然な廃炉を迎える現行機の廃止以外については何ら約束しない案であり、むしろ老朽化した原子炉に対して、新設の原子炉建設を認めるために設定された選択肢と思える。あるいは、国民の理解が得られない現在停止中の原発の再稼働に道を開くものでもある。これは中庸を好む大衆の心理を逆手にとった巧妙な選択肢の設定という指摘も見かけるが、少なくとも、原発廃止を実現するための工程に関する議論をすることもなく、目標設定を避けて意味のない中間地点の曖昧な議論に国民を誘導していると批判されても仕方ないのではないか。

また、環境問題については、CO2削減を世界に対して約束してきていることから議論に組み込まざるをえないのは理解できるが、原発がCO2を出さないという説には多くの疑問が提出されているだけではなく、それより悪質な放射性物質がすでに大量に排出された事実を考えた場合、温室効果ガスを出さない主要技術として原発を取り扱う発想は捨てる必要がある。三案の比較を読むと、原発の比率が高いほど温室効果ガス排出削減の点で有利であり、自然エネルギーシフトを進める原発ゼロの案は、この点では同等だが、化石燃料をより多く消費する上に、省エネ対策などの投資がさらに必要でエネルギー・コストはもっとも高いことが示されているが、これが20年近く後の事であるのを考えると到底公平な比較とは思えない。むしろ、自然エネルギーシフトが高くつくことを印象づけようとしているようにさえ見える。原発のコストについては、福島第一の事故の後始末に係るコストを参考に、安全対策を立地から見直すコストを計上するべきであり、また事故が再度起こった場合の対策費をどのように考えるのかについても原発に係る国の制度を根本から見なおした上で国民に示すべきである。社会が負担するコストとしては、原発が一番高価であるという研究も存在し、実際、原発が建設される自治体への多額の交付金などが原発のコストに計上されていないことは既に明らかにされている。この比較では、そうしたコストがどのように組み入れられているのか明確ではない。概要だけではなく、コストを算出した明細を開示し、専門家による検証が可能なように配慮するべきである。国民のだれもが非専門家ばかりではない。これらの前提が整理されないまま提示されている原発継続案は、候補とするには検討が不足していると言わざるをえず、このパブコメ資料では、国民的議論を行うための前提が整理されているとは考えることができない。

以上から、意見をまとめると次の通り。

(1)この選択肢には全く意味がない。政府は、原発を全廃すると仮定した場合の工程を作成し、これを実現するために課題となるのが何かを明確に国民に示すべきである。
(2)その課題解決のために必要不可欠であるとするなら、原発の一定数の存続について必要な施設、箇所、期間について工程全体の実現性の観点からありえるシナリオを提示するべきである。
(3)コスト試算と環境対策については、詳細な検討仮定を全て開示し、専門家の議論を広く行えるようにした上で、こんな短期間ではなく、少なくとも半年程度の議論期間を設定し、より現実的かつ国民のコンセンサスが得られるものとすべきである。


(8/12 施設料 -> 施設 に修正。パプコメでも誤字っちゃった。)

| | トラックバック (0)

2012年2月13日 (月)

「原発」都民投票 のこと

 

先日、「原発」都民投票なるものへの署名を駅で求められた。街頭署名はしないことにしているので、宣伝のビラだけもらって帰った。東京管内の原発稼働の是非についてのものだという。

wpid-e983bde6b091e68a95e7a5a83-2012-02-13-08-25-2012-02-13-08-25.jpg

中を見ると、天野祐吉さんから始まって、谷川俊太郎さん、ちばてつやさん、辻井喬さんみたいな名前があって心が動くのだが、結局署名しなかった。ブログで原発の問題を扱いだしてから何度か書いてきたことなのだが、これは、こっちがだめならこっちというほど簡単な問題ではないと考えているからだ。

wpid-e983bde6b091e68a95e7a5a82-2012-02-13-08-25-2012-02-13-08-25.jpg

ただ、誤解しないでほしいのだが、僕は、原発の停止や廃止にも、国民投票にも特に反対しているわけではない。大局的に見れば、理論的にも技術的にも大規模の原発の国内における維持は危険性が高いし、短期的にみても現在停止中の原発の再稼働を拙速に行うべきではないしその必要性も少ないと考えている。だから、当面どうするかについて具体的な意見を表明せよというのなら、福島第一の事故をよく分析して(これは、まだまだだというのが現在の認識)他のプラントについても同様の問題がないかを十分に、第三者の監理の元に明らかにした上で、住民にはかるべしとは思う。その意味では、再稼働反対だと言ってもいいのだが、そのような具体的な説明がここには何もないのだ。ともかく、原発を止めたいという思いしか伝わらない。しかし、軍事と同じで、これはそんなに簡単な問題ではない。投票をして、たとえ98%の人が反対しても政府が再稼働に舵をきるということはありうる。

原発がなくてもやっていけるという検討結果は、立命館大の大島さんが本に書かれており、昨今の電力事情を見てもそれほど間違いではないと思っている。電力に限らず、社会インフラとして安定したサービスを提供する施設は、今時点ではなく数年先の需要に基づいて計画されているはずだし、現時点で余力がない状況では自然災害にも突然の石油供給の途絶にも対応できないことは明らかだ。今は、多くの人々が原発事故の怖さにばかり目がいきオイルショック以来叫ばれてきた石油資源の枯渇の問題にも、石油を中東始め海外に依存せざるをえないわが国のエネルギー事情も忘れかけているように見える。石油資源の枯渇についていは、実は石油資源の探査が進むほど埋蔵資源量は年々増えていくわけで、よく言われるあと何年分というのが、現在見つかっている資源の範囲での話しであることはもうよく知られていると思う。しかし、少なくとも新たな石油資源確保が次第に困難になっていくことは明らかで、海底油田の事故に見られるように、自然汚染のリスクはそこにもないわけではないのだ。原発の否定のために、石油火力を是とせざるをえないとすれば、そこにはトレード・オフの余地が残されていると考えなければならない。石炭だって同じ事だ。

自然エネルギーはどうだろうか。風力発電は、一見クリーンに見えるが、人の立ち入れない住めない広大な領域、しかも一年を通じて投資に見合う発電効果の得られる強風の吹くエリアが必要だ。つまり、どこでもできるというものではない。小型の風力発電も不可能ではないにしても、使いたい時に電気を使うという供給目的には必ずしも向かない。地熱発電も恐らく全国的な電力のニーズを満たせるほど発電に適した土地があるわけではないだろう。太陽光発電は、家庭用や一般のオフィス用としては有望だが、産業用の電力全てまで賄うのはどうか。もちろん、ガスやゴミの活用、バイオ・エネルギーや位置エネルギーの利用、いずれも小型の設備で身の回りの電力供給を満たす分野はどんどん推進すればいいと思う。大規模化への挑戦も必要だ。そのこと自体は何も間違いではないし、両手をあげて賛成する。集中大規模発電に対して、分散発電が今後の流れであることは明白だと思う。また、潮汐発電などは、環境破壊の問題はつきまとうが、海国日本にとっては有望な気もする。それらの研究や推進に反対する人は今はあまりいないだろう。かつては、電力会社が反対勢力の代表格だったと思うが、これからはそうも言ってられないだろうし。

しかし、原発の廃止や停止を即座に国民(都民)投票で今決めようという発想にはすぐには同意しかねる。僕は、「原発の是非」についてはこれまで一貫して態度を保留してきている。それが将来の展望のない技術になりかけていることについては、異論はない。人も集められず、批判も多く、政治的な流れとしては廃止の方向でものを考えざるを得なくなるだろう。また、理論的な根拠としても、僕は武谷三男さんが主張されていたように、住民の安全を確実に保証する観点からみれば、国内で巨大な原発設備を維持するのは不可能だし、現在の立地を見れば明らかなように地方の貧しい地域の犠牲の上に成り立っているものであることは明らかだ。このことにまつわるほとんどの説明は、論理的に破綻していると考えている。だから、大局的に大規模な原発が廃止の方向に向かうことは好ましいことだと考えてきた。そうした方向性についての投票であるなら、僕は迷わずに廃止に一票を投ずるだろう。だが、問題になっているのは、当面の東京都の電力事情についての政治的な判断なのだ。これは、倫理でも思想でも信条でもない原発アレルギーでもない、当面どうするかという論理的な判断を要する投票でなければいけないのではないか?もしそうなら、十分に妥当な検討がなされた結果として、これから向こう何年かの電力供給についての選択肢は提供されているだろうか。この宣伝ビラを見てもそんなことはどこにも書いていない。A案、B案、C案くらいは、僕が考えたってつくることができる。なぜこの投票の推進者たちはそこに力を注がないのだろう。あり得るプランを出してもらわなければ、判断のしようもないではないか。

このような行動は、つまり、多くの人ひどが敬愛する谷川さんのような方まで引っ張り出して、あなたは原発推進ですか反対ですかと問うかのような行為は、本当は複雑な問題の断面だけを見せて住民の同意を引き出す極めてアンフェアな方法だと僕は考える。ドタバタの中で、原発の「反対派」が、大衆の大多数が抱く原発はもうこりごりという感情を束ねて政治的な圧力に変換しようという動きであるのは確かで、たとえ当事者達が自分の信念に何の疑いももっていなかったとしても、具体性のない提案への賛同集めは、かつて何度も見た光景なのだ。多くの人は、多分この動きに賛同するだろう。それは仕方のない事だ。こんなに多くの人に迷惑をかけるものを日本の大衆は決して許さないだろう。それはそれで結構なことだと思う。その人たちの判断には僕は喜んで縛られようと思う。しかし、その判断をもらう前に、識者達はもっとやることがあるのではないか。

僕が、ここ数カ月の間、巨大技術の実行可能性やら、古い反原発の市民運動まで遡ってこの問題を考えてきたのは、原発に反対するためではない。理論的に、だめなものを葬り去り、真に重要で可能なものを見いだすためだ。原発賛成・反対の二元論には初めから興味はない。原発などただの技術であり、やめたければやめればいいだけだ。反対するのは、そこではない。その技術をこの日本の状況においた時に生じる様々な政治的な状況に対して、ノーと言わなければならないので、原発が危険だから反対だという意見に多くの人の賛同を集めても本当は大した意味を持たないのだ。その投票で、原発を推進してきた過去を否定することはできても、未来への指針を導くことはできない。既に述べたように、日本国内では、大局的には、大規模の原発は廃止せざるをえないのは明白なのだ。意思表示をするのは結構だが、自明な結論を再確認する以上の意味があるのだろうか?政治的な失策を棚にあげて技術を攻めるというのは、政治的な誘導だとまずは思うべきだ。また、現時点では石油でも原子力でもない代替手段は僕には見いだせていない。いわゆる自然エネルギーとして取り上げられているものは「感じが良い」ので自分をクリーンなイメージで包みたい人々が群がるのは分かる(と嫌われそうなことを言ってみるのだが)が、それが解ではない可能性は決して低くない。つまり、大きなエネルギーを取り出すことを考えると、程度の差はあれ、どんな発電方式を採用しようが必ず自然破壊や地方の犠牲を伴うと考えたほうがいいということだ。もっと単刀直入に言えば、もしかするとこのような形での運動は、問題を東北の沿岸からたとえば千葉県の沿岸に移すだけのことかもしれないのである。そうではないと、僕はまだ自信をもって言えない。つまり、その程度の代替案しかない状況で、既に稼働環境ができあがってしまっていて地元の人々をよくも悪くも巻き込んで、地域の生存のベースとしてくいこんでしまっている原発をすぐにやめるという判断が、詳しい説明もされずに、なぜ事情に疎い都民にできるのか。これは、地方差別に鈍感だったと非難されるこれまでの都民の無関心を気持ちよく肯定する運動なんじゃないか。

僕の疑問を整理すると以上である。そうではないという反論もいろいろあると思う。反駁は歓迎するし、気持よく説得されることも幾分かは期待している。しかし、スローガンが正しければ運動が肯定されるなどということはもう終わりにしなければならない。それは、極めて旧左翼的であり、これまで国のよくない政策に対抗しきれなかった勢力の典型的な末路を象徴している。残るのは、スローガンだけなのだ。それが初めから現れているパンフレットに、僕はどうしても疑問を感じざるを得ない。国民投票は結構なことだと思う。だが、その前に自分達の膿を出しきるための身を切り血を流す思考がどうしてもなければならない。「この前にまず考えよ」、僕の直感が囁くのは、結局そういうことなんだろうと思うのだ。自分が傷を負うことのない場所というのが目の前に現れたら、まず警戒せよ、といつも思っていることだが、今回まさにそれなんじゃないか。とも、一応言っておきたい。

| | トラックバック (0)

2011年12月23日 (金)

「かけ算の順序」ないし「乗数と被乗数」の問題

この問題を知ったのはここ一二年のことなのだが、実はかなり古くからいろいろと議論のある問題で、自分の子供が遭遇して初めて知る人が多いせいか、ネットでもくり返し出てくる話題らしい。なので、検索すると識者の説明から現場教師の説明からいろいろと出てくる。今日とりあげるのは、最近、白川克さんがブログに書かれて話題になっていたものだ(「6×8は正解でも8×6はバッテン?あるいは算数のガラパゴス性」)。

問題提起の内容
白川さんの書かれている算数の問題とは、次のようなもの。

問い:8人にペンをあげます。1人に6本ずつあげるには、ぜんぶで何本いるでしょうか。

これに、白川さんの小学校二年のお子さんは、こう回答した。

答え:8 × 6 = 48  48本

これが式も答えも×だったというのだ。正解は、次の通り。

正しい答え:6 × 8 = 48  48本

初めてこの問題にでっくわした大人は、大抵そんな馬鹿なという反応をするだろうと思う。8人に6本ずつなら、8×6で全然間違ってないだろうよと。しかし、先生の言い分はこういうことらしい。


「ひとつぶんの数」 かける 「いくつ分」

とかけ算は考えるように教えているので、8 × 6 だと一つ分の数を誤ってとらえていることになる。だから間違いだというのだ。白川さんは、この教え方に対していくつか反論を書かれている。少し要約して紹介すると次のとおり。

反論1:交換法則が、式の順序を入れ替えてかまわないのを数学は認めている。従って、この教え方は間違っている。
本来は、これで十分のはずだが先生もそれを知った上で教えているのだからと、次の反論。
反論2:「かけられる数」と「かける数」を区別しているこの段階では「かけられる数」を先に書かないといけないとするこの教え方が正しいという意見については、教え方の便宜、技術の話であり結果的に誤ったことを教えるのは本末転倒。 反論3:「かけられる数」と「かける数」についての理解度を確認するという意味で×をつけているのなら、その結果子供の理解が進んでいるかというとそうではない。混乱させているだけである。 反論4:このこだわりは言語依存な話であり、数学的なものの考え方になじまないのではないか。とてもガラパゴス的な発想のような気がする。

筆者のニュアンスまでは伝えきれていないと思うので、詳しくはリンク先の元の文章をご覧下さい。

以前ツイッターでこの問題について見かけた時に、僕が書いたのは、反論1に近い。つまり、こういうことだ。8人に6本ずつペンをあげるのには二通りのやり方がある。

その1:8人に横にならんでもらい、一人に一本ずつ渡して行き、これを6回くりかえす。つまり、8本の束を6回分用意すればこの仕事はできる。

その2:8人にならんでもらい、一人に6本ずつ渡して行き、これを8回くりかえす。つまり、6本の束を8回用意すればこの仕事はできる。

前者は8×6、後者は6×8 なのは言うまでもない。つまり、このような「配る」考え方には二通りの考え方がある。現実の場面を少し考えてみよう。8人の人がいて、何本か鉛筆が手元にある。均等に分けたいけど、総数がすぐには分らないときは、トランプを配るように一本ずつ配るのが合理的である。しかし、一人当たり6本であることが分っていれば、6本ずつ数えて配るのが自然だ。このような場合、一人当たりに配られる数がどちらにしても6であるなら、配り方の違いに関わらず、もちろん総数は同じである。交換法則は、それを一般的な法則として認めているものだ。かけ算は複数回の足し算なわけだが、かけられる側(被乗数)がかける数だけ繰り返されると考えても、かける側(乗数)をかけられる数分くりかえすと考えても結果は変わらない。ちょっとしつこいが、下のような図で考えると分り易いと思う。

port-2011-12-23-19-55.jpg
               図1

land-2011-12-23-19-55.jpg
               図2

図1は6×8、図2は8×6だ。白川さんのブログを読むと、教科書では、単位となる数を文章題の中から「ずつ」という言葉に着目して選び、これを左に(被乗数)、それをいくつそろえるのかを右に(乗数)書くのが決まりとして教えているようなのだ。しかし、この問題文の場合、考え方次第で乗数と被乗数は入れ替えることができるのは上に説明した通りだ。もしも、乗数と被乗数の把握が主旨で、文章から読み取ることを期待するのなら、これは問題文が悪い。たとえば、このように書くべきである。

問題文の改善案:6本ずつ束にしたペンを8人の人にあげます。ぜんぶで何本いるでしょうか。(一人当たりに配る数)×(配る相手の数)の形に式を書き、答えを求めなさい。

これでは、一つ分の数を把握する練習にならないではないかと言われそうだが、子供の親も含めて多くの人が白川さんが示されているような問題文に戸惑っているのも事実なのだ。

このような曖昧な問題文には、小学生時代から随分悩まされた。二通りの解釈を許す場合、教師に確認すればいいのだが、引っ込み思案だった僕はいつも深読みしては間違えていた記憶がある。今だったら、問題文の不備を指摘して場合分けをしてそれぞれの答えを記述した上で、問題文の改善案を提案し、問題文の作成者には国語をやり直すよう反省を促すだろうが、そんな知恵が働く訳もなく。

白川さんのブログにはいろいろとコメントがついていて、その中に「[5×3] 「かけ算の順序」のダブスタ考」というブログの紹介があった。ブログ主は、村川猛彦さんという方で、学者さんらしい。いろいろと資料も読み込まれて時間をかけて検討されていて参考になる。その主張は、どうやら「乗数」と「被乗数」をきちんと教えないやり方は、初等教育ではその後の教育の展開の上ではあまり効果が期待できない、というあたりにありそうだ(これと対照的な意見は、黒木玄さんの「かけ算の式の順序にこだわってバツを付ける教え方は止めるべきである」などがネットではよく見かける代表例だろうか)。詳細な内容は、このブログのここらあたりからたどってみられるといいかと思う。教える側にとっては、それほど単純な話ではなさそうなのはすぐ了解できるかと思う。上で僕が述べていることなどは当然検討済みで(トランプ配りの例はもちろん、上とそっくりの図もある)、その上で乗数と被乗数を区別して扱うことが初等教育では必要であると説明されていると理解したのだが(ここからそう判断した)自信はない。次のような例が挙げられている。遠山啓さんの著作からの引用である。孫引きはご容赦。

ミカンを配るのに,トランプを配るときのやり方で配ると,1回分が6こ,これを4回くばるのだから,それを思い浮かべる子どもは,むしろ, 6×4=24 という方式をたてるほうが合理的だといえる. (遠山啓著作集数学教育論シリーズ〈5〉量とはなにか (1978年) p.116)

これが,もし,つぎのような問題だったら,どうだろう.「教室の机は1列に6つずつ4列ならんでいます.机はみんなでいくつありますか」という問題では,4×6でも,6×4でもいいとせざるをえないだろう.
(同)

これに対して、村川さんは、次のような意見を書かれている。

この問題に4×6と立式する人は,ずいぶんひねくれている上に,問題文から,何が「1つ分の大きさ」で,何が「いくつ分」になるかが読み取れなかったと判断せざるを得ません.

そもそもこの問題を,かけ算の文章題のひとつとして児童が解いたら,6×4が圧倒的になるのではないでしょうか.その中には,何が「1つ分の大きさ」で,何が「いくつ分」になるかをきちんとチェックした上で立式する子もいれば,かけ算で計算できる問題だと認識し,問題文に現れる数字のうち6と4を順に取り出して,6×4とする子もいます.

これを類題として示すのでは,何が課題(issue)になっているかが分かっていないのかと思わざるを得ません.元の問題は

「6人のこどもに,1人4こずつみかんをあたえたい.みかんはいくつあればよいでしょうか」
(p.114)

で,問題文から「1つ分の大きさ」と「いくつ分」を読み取り,それまで学んだ公式に当てはめるのと,問題文に現れる数字のうち6と4を順に取り出してかけ算にするのとでは,式が異なるので判別できるという例です.


僕には、遠山さんが出されている机の例は、この種の計算をする際に、一つ分という概念が介在しない理解を子供がしてしまう可能性を示唆していると思える。つまり、僕が上に書いたような図そのままの理解をする児童に、一つ分の数という考え方は押し付けられないと遠山さんは考えているのではないだろうか。この例に対する姿勢は、そのままこの問題についての考え方を分けるものだと僕は思う。村川さんは、問題の趣旨から考えると、そのような例を出すのは適切ではなく、ここで問題になっているのは問題文から一つ分に相当する数を抜き出して公式通りに式をつくることなのだと述べている。この理屈で、白川さんのお子さんは、「一つ分」という考え方を求められているのに、それに答えられなかったとして×をもらったわけだ。

しかし、この机の例は冒頭の問題(ここではみかん配りの問題になっているが)と本質的には同じだと思う。僕には黒木さんや村川さんのように学習指導要領などまでさかのぼって検証するつもりもないし、学問的な見地から意見を述べることもできないが、実際に日本の初等教育を受けた者として、村川さんの主張に違和感を感じる点があるということは言える。たとえば、児童だった僕は、8人の絵を書き、その前に6本のペンをならべて考えたと思う。その横に、8と6と書き記し、式を考える。8人の人が6本のペンをもっているから、8×6だ。と、僕は考えたかもしれないと思う。これは、本質的に机の数を数えるのと同じ計算なのではないかと思うのだ。交換法則は、それが数学的に同じであるということを認めているものだと思う。交換法則のような高度な概念は、少なくとも掛け算を学んだ後でなければ導入は難しいだろうし、この段階で順番を変えてかけてもいいということを説明するのがあまり適切ではないというのは、村川さんの説明から大体想像できる。しかし、ある意味では、「自然の摂理」として、子供が逆の把握の仕方をしてしまう可能性が排除できないというところがこの混乱の源泉である。

算数教育の現場で正しい式と答えに×をつけてしまうような倒錯が起こる原因は、結局のところこうした自然発生的に児童が行う数量把握と教師側の教育手順とをどのようにすりあわせて子供の発達を手助けするかということの困難さに行き着くのではないか。それは、ひいては教師に対する指導・訓練の不足や教師に教え方を教える側の問題であると考えていいのではないかと思う。解釈はわかれるのかもしれないが、人によっては異なる考え方をしかねない問題を出しておいて、とりえるもうひとつの解き方を採用したから×にするというのは、僕にはやはり理屈が通らないと思える。引用からしか判断できないのだが、遠山さんは、恐らくはそのような思考がありえることに注意を向けているだけのように思えるのだ。この数式の書き方は、現実の事物を扱う際には一般的な数式の書き方だろう。それが初等教育の入り口でまず導入されているのだ。そのような意味では、このような「一つ分」×「いくつ分」の教え方があること自体にはとくに抵抗感はないし、教育の過程の段階に応じてそこでだけ採用する理屈があったってもちろん構わない。いろいろな考え方があるが、初めはこういう考え方をしようという教え方があるのは当然だと思う。

そうした意味では、この採点にまつわる問題は、算数の問題ないし村川さんが説明されているような教育手順の問題というよりも、出題意図を教科書通りに理解して答えているかどうかを問う国語の問題になってしまっており、また、数の認識とその数式化にまつわる意識付けを児童の反応を無視して強引に進めようとするところに出てくる問題だと言える。

しかし、僕がこの教える側の理屈に納得はしても、この×をつけるという対応に反感を抱くのは、それが教える側の理屈に留まっていて、肝心の子供の数の認識の仕方やその発達の手助けをどのようにするかという点については手抜かりがあるように思えるからだ。ここには、むしろ人間の思考を限定し鋳型にはめる危険性と息苦しさを感じる。学問以前の段階では自由より鋳型にはめる繰り返しが主体となることを否定するものではないので、念のために繰り返すが、これは、初等教育を実際に受けた経験を踏まえての個人的な感想である。自分の考えを否定され、つまらなく感じた瞬間をやまほど経験したことから、こんな考え方は否定して差し支ないと感じるだけだ。反論されてもすぐには応答する準備はないし、その気もないことはお断りしておかねばならない。

もう少し具体的に言えば、二つのことが考慮されていないと思う。

一つ目は、出題意図の不明確さに関する問題だ。「文に現れる数字のうち6と4を順に取り出してかけ算にした場合には、一つ分の大きさが読み取れていないことが分るので(式が異なるので)判別できる」と村川さんはいうのだが、必ずしも児童は出題者の思惑通りにこの問題文を読まないだろう。では、どのように考えるかについては、もう上に例を示した。この問題文は曖昧で、そのままでは意図が確実に児童に伝わるとは僕には思えないのだ。事前に受けた授業やそこで解いた練習問題が想起されることが暗黙の了解事項になっている。しかし、文章題なら、その文章の質は問題にされなければならない。教える側の文脈の外にいても、それだけで理解できるように問題文をつくるべきではないだろうか。出題意図を、前後に習った内容から推察しなければ答えが導けないような文章題は自分の児童・生徒時代にもずいぶん沢山見た記憶がある。そんなものは、教育的効果以前の落第品に過ぎない。また、「一つ分」×「いくつ分」という考え方を教えたいなら、それを自然に導くような問題文であったら何か問題でもあるだろうか。わかりにくい問題文で、解けない子供が多数出るとしたら、出題側に問題があるのだ。白川さんが指摘されているように、現に×をつけられた子供がその意図を理解できていなければ何の意味もない。

二つ目は、反対の順番で答えを書いた子供の思考過程をすくいとる意欲がまったく欠如していることだ。子供の思考は、大人よりもある面で論理的であり、子供が8×6と書いたなら、その理由は必ずある。もし、それが理屈に合っているなら×をつける理由はなく、もうひとつの考え方として受け入れるべきだと僕は思う。その上で、出題意図と期待される答えを説明し、あらためてそれまでの学習内容を復習するようにフォローする必要があるだろう。それが、曖昧で質の悪い問題を出した側の責任である。

はっきり言うなら、「一つ分の数」×「いくつ分」という数え方に対して、たとえば、「何人に」×「いくつづつ」という思考が存在することについて、この算数教育法は無防備かつ無配慮なのだ。これは、ひねくれた考え方でもなんでもない。日常言語の中に、生き生きと根付いている立派な思考方法である(実際に、欧米ではそちらが主流だったりもするのだ)。それをそのまま算数にもちこむことで×をつけられなければならない理由が、みんな理解できないのだよ、要するに。

もっと言えば、この採点にまつわる問題は、村川さんの説明されているような教育法の問題ではなくて、教師側の教育法・教育手順の遵守にまつわる問題なのだ。それを子供側の事情を無視して一律に強引に適用しようとしている歪みが、至る所に現れている?マークである。当然子供は分らないし、親も疑問に思うし、ネットで話題になるし、僕のような学校は敵だくらいにしか考えていないような人間もこんな文章を書いたりすることになるのだ。白川さんの事例を見てもそうなのだが、教師の指導方法や手順に従わないで「勝手に自分で考える」児童・生徒の考え方を否定することを一生懸命にやるような状況の倒錯になぜ教師は気づかないのだろう。しかも、教師側の教える手順をどんな児童・生徒もうけいれなければならないという理屈は本当はない。数学であれ、算数であれ、もうひとつの考え方というものは常にあり、その考え方自体の優劣は問題になっても、いずれかのみが正解でなければならない根拠などどこにもない。正しい式と答えに対して、理由も聞かずに「×」を付すという行為は、大げさに言えば、思考の自由、数学の自由を否定することと同じだ。大学に入って、数学は本来自由なものだなどという講義を聞いて軽く「カルチャー・ショック」を受けたことがある人も沢山いるだろうと思う。実体験に即して考えて、ほぼ間違いないと思うのだが、こういう訳の分らない理由で×をつけられた経験はみんなしているし、そんなことが原因でどんどん算数、数学嫌いになっていくものなのだ。「ずいぶんひねくれている」僕のような計算をする生徒は決して少なくないはずだ。

といったわけで、白川さんの、「本末転倒」という意見には、僕も概ね同意である。算数・数学教育に関係する方には、もう少し上質な教育的配慮をお願いしたいものである。あまり認識論的に絶対的とも思えない「教育法」への固執は、算数・数学嫌いを産むことは間違いないと一応ここでは結論として言っておきたい。元々、学校で教えることには、かなり嘘があると思っている僕のような「ずいぶんひねくれている」児童・生徒は、それでも一応つきあうのだが、普通の人は、さっさと見放してしまうんだよ。算数・数学なんか、わけわからないし、なんの役にも立たないという具合に。児童・生徒が授業についていけないというのは、本当は逆で、算数・数学をみすてる児童・生徒に教師がついていけてないだけだ。正しい教授法ひとつ開発できずに。


(注:いったんUP後修正。村川さんのブログに対する解釈の誤り、あやふやな点を訂正して再度UP。)
(注2:2012/01/04)
少し気になっていた点を補足・修正した。元の文では、村川さんの主張に違和感を述べながらそのまま教育現場の対応を批判しているので、そこも含めて村川さんの批判のようにも読めるころがあったのではないかと思う。僕が文句をつけているのは、教え方を理解しない子供に×をつける教育現場の硬直的な姿勢である。村川さんも、逆順の答案は×にすべしなどとは僕が読んだ限りでは書かれていなかったと思う。下に書いたように、多分、その元凶は教科書会社らしいのだが。村川さんは、掛け算の教え方という観点から(乗数)と(被乗数)の順序には意味があることを説明されていて、僕は教育のある段階においてそのような教え方があること自体は理解している(正しいかどうかについては判断できていない)。ただ、引用した遠山啓さんの著書をひいて書かれているところは数の認識に関わる基本的なところに関係しており、恐らくは指導法の混乱を招く原因だと思われたので、率直に違和感を述べさせてもらった。多分、この違和感のもたらされる原因にきちんと指導法が対応されれば、この問題についてはクリアと言っていいのではないかと思う。

また、最近、Z会の寺西隆行さんが教科書の教師用の手引きである「教師用指導書指導編」というものに逆順に書くことを誤りと書いてしまっているものがあることを説明されているものを読んだ。現場での対応のひとつの例として、Z会ではどのようにしているかが述べられているので、この問題に関心がある特に小学校の先生には参考になると思う。ただし、登録が必要。そのようなサイトなので、ここでは引用は避けるが、ちなみにZ会では×はつけていないとのこと。

ついでに、自分の児童・生徒時代の経験を思い出して雑な言い回しを敢えて使った点を穏やかに修正した。問題の性質上、見に来られる方の気持ちも考えておこうかと。

| | トラックバック (0)

2010年12月17日 (金)

東京都の「東京都青少年健全育成条例改正案」(4)

この条例が問題になり始めたときに、あまり興味をもてなかったのは、成人向けのコンテンツに対する同情があまりないせいだ。そうしたものは、子供の目の届かない所においておきたいという意見には賛成したい気持ちの方が大きい。しかし、都が、そうした書籍などを区別する手続きには全く賛成できない。どうやってそのコンテンツが成人向けと判断するのかについて、あるいは、誰がその基準を与えるのかについては、簡単な答えはないと考えているからだ。

そもそも子供向けとか、大人向けのコンテンツなどというものが存在するんだろうか。たしかにそう称しているものもある。図書館に行けば、小学生までは子供用の図書室に行く事になり、そこには子供向けの書籍が並んでいる。そういう子供向けのコンテンツは、子供の読者や鑑賞者を想定しながら作ったのだろうし、教師や親がチェックすることも予期して内容を決めているんだろうから与える側は安心だ。おなじように、どのように受容されるかを考えながら作っているならば、それが成人向けかどうかを一番知っているのは作者、製作者のはずだ。当たり前だが、とりわけエンタテイメント作品や教育目的の作品ならどういう客層に向けて作っているかはっきりしてなければおかしい。

商品を流通させる側はそうした商品をどこまで区別して陳列できるのか。多分、商品へのコメントくらいはつけてもいいのではないか。この商品には、性的な描写が含まれていますとかなんとか。実際にそうですよね。amazonでも、なんでも。しかし、その作品を受け入れるかどうかを判断するのは読者、鑑賞者、消費者であるべきだ。もし、13歳のぼくが18禁とされている本が読みたくて、自分には読む準備があると思うなら読むだろう。大人の本は、もう少し先にと思うならそうすればよい。あるいは、保護者が子供の読む本をさりげなく観察していて、見せたくないと思うのなら、それはまだ早いと教えてあげれば良い。それでも隠れて見るかもしれない。それは、それでいいではないか。性的な表現は、そうした成熟の端境期に親には分らないようにして受容することが必要な時だってあるのだ。性的な成熟は、そのようにしてまったく「個人的に」やってくるのだから。

性的な表現を制約したがる人々に共通の物言いは、子供達に悪影響があるというものだが、こんな馬鹿なセリフはない。彼らは自分が子供の時の事を忘れてしまったのだろうか。誰しも、自分の性的な成熟にともなう不安定な気分を持て余した時期があったはずだし、その頃、程度の差は人それぞれだとしても、性については、親に隠れて「学んだ」に違いないのだ。そのときにどぎつい性描写に接したことはないのだろうか。それは、後年の自分にどういう影響を与えたと分析しているのだろう。子供への悪影響を心配するこういう発言は、自分はそうした性的な表現にはまったく接したことがなかったかのような立場からのもので、まったく見苦しいものだと思う。当時は、こんなひどいマンガなんかなかったと言うのかもしれないが、性的であれなんであれ表現は想像の領域のものだし、マンガが近くにあろうが無かろうが、人間は想像だけでどのような変態行為にも及ぶことができる存在である。なぜ、文学者ともあろう人々がそんなことも分らないのだろうかと思うのだが、想像の世界でそのようにどんな変態でもありうる人間が、具体的な表現としてかつては考えられなかった様々な性のあり方を表現として外化してきているのが最近のポルノだとしたら、それは表現が高度(高尚ではない)になったというだけのことで、表現の時代的な水準がそうだという以上の意味をつけることはできない。倫理的な意味付けはもとより、肯定したり否定したりする事柄ですらまったくない。人間の想像力がそのように発展していくのは不可避ではないか。一部の漫画の表現に限った話ではないのだ。ほっといても制約しても、それらはいずれ外化されるし、一度始まってしまった表現はそのようにしてエスカレートしていくことをやめることはできない。これに対して法律でブレーキかけたいという思いがみえみえなのが都の条例であり、いくら棚を分けるだけのことだと弁明してもコンテンツに対する批判が前面に出ている以上、コンテンツの作者の立場から反対が出るのは当然のことだろうと思う。

ならば、東京都の条例の主旨である「棚を分ける」ことを、私はどのような根拠から許容するのか。私の答えは簡単である。これは、親のベッドルームのプライバシーは、大事だということと問題の根が近い。性的な表現を子供に見せるのがいやなのは、親の性行為を覗かれるのが困るという心理と近いのだ。親子でテレビを見ていてラブシーンが始まると居心地が悪いのだってそうだ。それは、密かな行為であって、おおっぴらにやることではない。親としては、いちいち説明したくないしそういうムードを子供と共有していてはくつろげない。そんなことは、今に始まった事ではないしある程度普遍性があるわけだから、そうした心情は大切にされてもいいのではないか。私はそう思う。成人向けの棚を作る。作者は成人向けの作品なら、その棚におくよう指定する義務を負う。店舗も責任をもって、その棚におく。それだけ。都の条例の最大の問題は、作品を成人向けの棚におく指定をするのがだれなのかがはっきりしない点だ。いや、それが知事の命令にもとづいてなされるところだ。これは、これまで述べてきた所からあきらかなように、越権行為である。表現の自由ではない、個人の尊重の否定につながる越権行為だ。憲法でいうならこっちですね。

        日本国憲法第13条:すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

なぜか。個人の尊厳とか人間の本質とかいう言葉をこんな時代に繰り出しているのは訳がある。私は、人間の本質は、表現だと考えているからだ。表現を止められることで、人間は簡単に死ぬことだってある。人間が生きるということは表現だし、芸術するのだってそうだ。とても止むに止まれぬ創作意欲の結果としてできていると思えない最低なエロ漫画にも人間の存在の根拠がある。多くの人々にとってそれがどんなに不快であっても、ひっそりと想像の領域で作られているだけならそれを否定してはいけないのだ。サドだってマゾッホだって、ギョーム・アポリネールだっていいさ。なんで、それらの作品が生き延びて、しかも学問の対象にまでなったりしているのか考えてみるがいい。

この問題のねじれは、宇多田ヒカルのベスト盤の話題に関連して述べたコンテンツとコンテナの乖離の観点を適用すると理解できる。都は、流通の調整弁をひねっているつもりで、コンテナを飛び越えてコンテンツに口出しをしているのだ。版権だか原盤権だかを理由に勝手にベスト盤を編集するレコード会社と同じで、本来は制作者かユーザがやるべきことを行政がやろうとしているのだ。自分達は間違いっこ無いという根拠のない尊大な思い込みに基づいて、自信家の知事や支持者が、愚かな民衆を導こうって考えているように私には見える。私以上にポルノに同情のない保守層の暗黙の了承に助けられて。しかし、もしそうだとするなら思い上がりもはなはだしい。そんなことを都知事に頼もうと私は思わないし、そんな権限をあたえた覚えもない。だいたいあんたには投票しなかったんだ。一児の親として言わせてもらっても、まったく余計なお世話である。タチが悪いのは、「なにも、作るな、売るなというんじゃない、棚をわけてくれといってるだけだ」といいながら、作品の下劣さを大声であげつらい攻撃し、小児性愛や近親相姦はまだしも、ついでに同性愛や性同一性障害までこきおろすかのような言動が知事の口から頻繁に飛び出していることだ。こんなに教育に悪いコンテンツはないぜ、まったく。本音は、そうした作品を世の中から一掃したいのに決まっている。二枚舌に気づかぬほど民衆は馬鹿ではない。

それだけではない。青少年を守るとしながら、青少年の性については何が健全であるかが曖昧なままなのだ。これに対応して、どうやって誰が線引きをするのかなどの曖昧さを巡る問題が噴出するのは眼に見えている。表現の複雑さに対する配慮なしに乱暴な法律の条文のままに人間の一番微妙な性の問題に踏み込むところから起きる混乱であって、全般に表現とは何かが十分踏まえられていないために議論が様々な場面ですれ違っていて、余計にこの問題をわかりにくくしているのだ。結果として、条文は読むに耐えない粗雑な内容になり、これで誰が何を判断するというのだと暗澹たる気持ちになる。都知事や副知事の心配は、一人の親として幾分は共有もするのだが、やり方が完全に間違っている。知事の罵倒の尻馬に乗って、都の職員が条文を書くときにも勇み足をしている。条文のどこがだめかを言い始めたら際限がない。恣意的な解釈を特権的な委員だかなんかに許してみたり、知事に禁書目録を作るのを許可してみたり、ともかくこれで反対されなかったらどうかしているという内容だと私は思う。表現の自由には十分に配慮するのだというが、要するに「不健全」な創作物(都の説明資料では、『青少年との「性交(セックス)又は性交類似行為(フェラチオ・手淫・アナルセックスなど)」を不当に賛美・誇張して描いた悪質な漫画等』と表現)は青少年から遠ざけることを義務化しようという目的だけで、手段も基準も明確化されていないのだ。条例の内容にここで詳しく立ち入るつもりはないのだが、不当に賛美ってどういう状況を言うのだ?正当に賛美してたらいいのかよ、というつっこみが、方方から既に入っていることと思う。悪質ってなんだよとか。こうしたエモーショナルな表現でいちいち作品が規制されたらエロを主領域とする作者はたまったもんではない。それこそ、加納典明ではないが、具体例を示せるもんなら示してもらいたいもんだと思う。こんなものにきれいな線引きなど土台無理な話なのだから。

一方で、反対する作家や出版社の言い分も、反対するポイントが違うように思えてならない。上で述べたように、これは表現の自由(=流通の自由)というより、メディアの調整弁を誰がひねるのかという問題なのではないか。社会の中に歴然として様々な保護のもとに存在していて、保護者が少し口を出すと過剰にキレルというのは、青少年と同じ心性と見えなくもない。いまのところ、私のように、ポルノの流通はこっそりやってくれと思っている人間に対する配慮なんてこれっぱかしも感じない。現状で流通が野放しだというのは多くの指摘があるように誤りなのではないかと思うが、それにしても流通の課題は他人任せで作りたいものを好きに作らせろという態度にみえて仕方ない。この問題は、ある面では、公園の犬の放し飼いの問題と同じなのだ。これについては、意外に根深い問題だと思うので、改めて書いてみたい。ここでは深入りしない。

これまでの考察から、私にはさしあたって二つのことが明白だと思う。

一つ目は、作品の送信者と受信者を適切に橋渡しできるメディアが望まれているとするなら、それを実現するのはメディアの役割であって政府・自治体の役割ではないということだ。政府にできるのは、そういうメディアのあり方を検討するよう促すことだけだろう。メディアは、流通の仕組みを変革する責任がある。メディアと言われるに足る存在でいたいならば、これについては、態度をはっきりしたほうがいいのではないか。一方でエロでかせぎながら、表現の自由みたいな綺麗事ばっかり主張していると、中二かって言われるぜ。大出版「メディア」から出てくる意見を聞いていると、要するに販路が狭まって相対的に売上が落ちるのを懸念しているようにしか私にはみえないのだが。そんなこったから、知事に足元見られて、あとで恥かくのはそっちだなんて言われるのさ。

二つ目は、作品の分類や評価、まして序列のようなことについて行政が口をだすべきではないということだ。作品流通の過程で何らかの仕分けの判断が必要なら、それは市民の自主的な判断に任されなければならない。売らないという店がある一方で、売るという店があってもよい。棚を分けてまで子供の近くで売りたいなら親は子供を棚から遠ざけてやる責任がある。それだけのことではないか。なぜ、法律にしないと我々は何もできないんだ?もちろん、そんなことはまったくない。ひところ流行ったヘアヌードもそうだし、日本の社会がこうしたコンテンツにおおらかに見えるのは、そのとおりかもしれない。しかし、その風潮を変える役割は政治家ではなく自由な言論にまかせるべきだ。時間はかかるかもしれないが、そもそもそういう領域の課題だと考えるべきだ。映倫やビデ倫のように業界団体で考えたっていいではないか。そうした議論を促すくらいなら知事殿がやったってかまわないと思うが、法律による秩序を求めるのはお門違いだ。

長々書いたが、結論は単純だ。何度でも言うが、作品そのもの、コンテンツの内容に行政が口を挟むべきではない。


| | トラックバック (0)

2010年12月15日 (水)

東京都の「東京都青少年健全育成条例改正案」(3)

芸術のもっている本質的な自由性は、まずやってしまった後で警察につかまるという形でいつも法律とぶつかる。写真家の「わいせつ写真」の事件はほとんどこのパターンだ。もともと境界を決めるのに合理的な根拠などは無いのに、誰かがその作品を違反とみなして作家を逮捕する。加納典明は、以前テレビ番組で自らの写真のわいせつ容疑による逮捕について触れて、どこがまずいか線をひいて示してくれと警察官に言って写真の上に線をひかせたことを語っていた。線をひいて、ここからこっちはわいせつなどと言う事がどれだけ愚かなことかを知った上でやらせているわけだ。しかし、その愚かな線引きが法律の論理であり、法律に基づいて取り締まる警察の論理なのだ。芸術はそうではない。人間の精神が自由に活動するものである限り、そして、芸術活動が自らの切実な欲求に基づいて、あるいは自らの欲求を自由に解き放つ事で新しい地平に立つものである限り、境界などないのだ。だから、時々芸術表現は社会とぶつかる。法律に違反し、倫理にもとり、いたずらに性欲を刺激する。それは、芸術の本質だ。古代ギリシャの時代からそのことに変わりはない。だから、普通の社会人としてひっそりと生きたければ、法律にぶつかって取り締まられたら甘んじて受けるしかなくなる。法律の支配する世界を尊重するならだ。法律が支配する空間では、芸術の自由は元々制限されている。社会と折り合いたいなら折れる他無い。

前に、次のように書いた。

「作品を着想し苦労して仕上げたアーティストは当然その作品をどうにでもする権利をもつ。法律的なことは知らない。しかし、これは、法律にどう書かれていようが自明なことなのだ。作品は、アーティストの意思で生み出されるものでありその生殺与奪権は手を離れるまでアーティストにある。」

たとえば、陶芸家が気に入らない作品を壊してしまう場面を思い浮かべよう。作品は、いずれ他人の物になるので、作者といえども必ずしも作品の所有者としていつまでも「どうにでもできる」かどうかは分らないが、作品が作者との関係において成立している限りにおいて、その作品の誕生は作者のみに依存すると言える。誰かが、そういう作品は好ましくないから作成しないようにと言ったって、作れてしまうものは仕方ないし、できてしまうものを止める事は誰にもできない。これを創作の時点で法律的に制御しようというのは元々理屈に合わないし、人権侵害だといってもよい。私たちは、個人としての内面が下劣で悪辣で社会規範を無視した破廉恥な存在でありうるし、そのことを芸術に表現できる。それを誰からもとがめ立てされる謂れは無い。そうでなければ、ドストエフスキーもトルストイもピカソやマティスもローリング・ストーンズもジミ・ヘンドリックスも生まれてこない。その個人の内面の破廉恥さを正す運動からろくなものは生まれないし、実際、それがどれだけろくでもない社会かは、文化大革命の中国やソビエト連邦、北朝鮮を思い浮かべれば十分だろう。19世紀に世界の最高峰だったロシア文学は、ロシアのマルクス主義の元で明らかに衰退した。中国も同様だ。こうした国々での個人に対する抑圧は、どっからどう見たって全否定する他ないものだ。これは、人間のあり方を理解しないところからくる誤謬であって、今更繰り返す必要がないほど、それが誤謬であることは念入りに歴史が証明してくれている。もっとも、「自由主義」経済圏の国々だって例外ではない。しばしば個人の芸術作品を法律的に規制したり罰したりすることが行われて来た。発売禁止、放送禁止、墨塗りなんてのは例をあげればきりがない。もちろん、我が国でも。

なぜ、法律が個人の芸術作品の内容に口を出すのだろうか。法律は元々遅れている上に、不完全であり、むしろカバーできない広い範囲を手つかずで残しながら、曖昧さを権力機関の運営と解釈でなんとかしているに過ぎないものであり(判例をなぜ重視するか考えるとよい)、本質的に自由な芸術と相容れるはずがないものである。法律には、そのように不得意でカバーできない領域というのが歴然として存在するのに、その事実に多くの人々があまりにも無頓着なのではないだろうか。人間は、法律なしにくらしていけるし、本来はその方がいいのだし、実際に多くの場面でそうしているということにどれだけの人々が自覚的だろう。どんな人間も法律を頭に入れて法律的な存在として日々振る舞っているわけではなく、特に芸術分野についてそうであることは何度でも確認する必要がある。もちろん、芸術だって、法律の規定する世界と背中くらいは接するだろうし、芸術が作家の手をはなれて流通する時には社会的な通念とともに法律的な制約の元におかれるのも既に書いた通りだ。しかし、だからといって、アーティストは社会的な通念や法律に従って、あるいはそれらの制約を考慮して作品を作るわけではない(もちろんそういうアーティストがいてもよいのだが)。どんな残虐で反社会的で社会通念に反した内容でも、芸術としての価値はその作者がそれを表現せざるをえない切実さと見合ったぐらいのものはあるのだ。これを否定することは誰にも許されない。それは、個人の個人だけの生を否定することと同じだからだ。つまり、個人の尊厳を否定することになるからだ。そうした意味で、作品に手を入れたり変えたり破壊したりしてよいのは作者だけだ、と確信をもって言うことができる。なぜ、芸術作品を大事にしなければならないのか?それは、それによって生きている個人の存在根拠と尊厳に関わる問題だからだ。「差別用語」の規制が駄目なのは、社会通念だとかどこでだれが決めたのか分らない多数意見や恣意的なメディア内部の自主的な基準で個人の領域から出て来た作品を検閲する点にある。そんなものが、個人の表現を修正してよい論理的な根拠は何もない。

実際、こうした人間の表現に向けての 欲動を止めるのは難しい。頭の中で何を考えようが他人には分らないし、そのこと自体は誰にも止められないということと、本質的には同じことだ。個人の勝手な領域で勝手に営まれるものが芸術表現であり、どんな法律があろうが、作りたい時に、作りたい物を人は作る。金になるならないを問わず、楽しいか楽しくないかを問わず、それが作品と呼べるような物ならそれは個人(あるいは、独立した個人の集まり)の領域に属するし、その限りにおいては、法律の規制は届きようがない。法律にできるのは、せいぜい「間違った」考えを持ったり、「間違った」考えに基づいて作られた作品の流通を取り締まる事ぐらいである。つまり、「流通」上の問題としてしか芸術作品を規制することはできない。

さて、そういったわけで、「流通」の問題だ。これまで書いてきたように個人の表現物は内容に関わらず守られるべきだ。では、その作品の流通はどのように保護されるべきなのか。既に書いたように、法律にできるのは、流通に対する制約を課す事だけだ。では、この制約を課すという政府の行動は正しいのか、正しくないのか。それは、表現の自由=発表についての自由を損なうものなのか。

その問題を考える前に、芸術作品の「消費」とは何なのかを考えなければならない。どんな分野の作品であれ、作家だけで芸術文化が成立しているわけではない。芸術を人間のもつ文化としてとらえたいなら、そしてとらえたいわけだが、発信者に対して受信者がいないと始まらない。発表せずに個人で書きためているものは芸術ではないといっているのではない。どのような作品も、それがいつか他者の目に触れるものであるという刻印を有している。引き出しの奥底にしまわれている作品も、読者を求めていて、いつか機会をとらえて他者に受容されるために羽ばたいていこうとする。宮沢賢治の死後発見された作品、カフカの多くの作品、死後有名になった画家の作品、どれをとっても、読者を鑑賞者を求めない作品はない。これは、ラスコーの洞窟画以来、ずっと正しい。それが、自分のためにだけ書かれた作品であっても、それが作品であるなら、かならず開放端をもち、そこに接続してくる受信者を待っている物なのだ。これは、人間の表現の宿命である。それは、他者との交渉の地平に開かれた一方的な送信機であり、受信されて初めて開花するように仕組まれた装置だから。そうでなければ、それは少なくとも人間の作った芸術ではない。

受信者と送信者をつなぐものが「メディア」だとするなら、そのメディアはどういうものでなければならないのか。おそらく、この「メディア」は企業とかマーケットとか大量生産のための工場とか流通網だとかネットワークとか調整機構としての政治権力とか法律とかその他もろもろでできあがった訳の分からん代物である。そうとらえよう。つまり、芸術の送信から受信にいたるコンテンツ以外のもろもろである。デジタル・コンテンツについて考えた時に、コンテナという概念を出した。作品をのせる器という程度の意味だが、このコンテナはメディアの中を作品が流通するときの単位になるものだ。雑誌、CD、DVD、電子書籍、Webサイト、等々、緩く境界をとらえればみなコンテナである。流通とは、簡単に言ってしまえばコンテナにのせて、この訳の分からんメディアへと作品を流し、それを不特定多数の受信者が受け取るまでの仕組みだ。作品が受け手に届くために、コンテナにのせた作品を「メディア」に流す必要がある。しかし、その「メディア」には企業や権力や法律やらが調整者として元々絡んででできあがっているのだ。これは、法律の規制を受ける可能性があるということを意味するだけではなく、作品の流通自体が法の秩序に則って行われるべきものと考えられていることも意味する。つまり、これはアーティストの所有物ではなく、社会のインフラないし社会そのものである。メディアにもし調整弁がついているとするなら、それを調整するのはアーティストの役割ではなく、為政者や企業、立法者、そして最終的にはそれらの支持者である市民の役割ということになる(市民とは何ぞやという問題にはここでは立ち入らない)。都が、法律を作り議会にはかり、市民と対話をして条例の制定を進めているのは、その限りにおいては妥当であり、芸術表現の自由を制約することとは何ら関係ないことは明らかだと思う。もし、このメディアを否定するなら、市民社会の外にメディアを自ら構築する他ないわけだが、いずれ条例で巻き取られるのは目に見えている。それが正しいメディアのあり方なのかどうかという議論は今はしない。その問題は、デジタル・コンテンツについて考えるなかで、向き合う時があると思うのでその時まで保留しておきたい。ともかく、メディアはそのようにアーティストのものではないし、そのコンテンツ受益者のものですらない。

つまり、作品と社会との関わりの問題なのだというつまらない結論にここで辿り着いている訳だ。一般市民への受容度に応じて、流通に制約が入るのは仕方ないじゃないの、公共の場所なのだから、という。この問題は、大学紛争の時の学生と政府の関係にも似ている。いくら学生の自治を言っても、その大学は税金で成り立っているし、納税者の意向が入るのは避けられないし、その意味では政府が市民の意向をくんで暴力学生の排除に警察を導入するのも当然だ、というような理屈。要するに、アーティストが市民に食わせてもらっている立場なら、言う事を黙って聞くべきではないかというような立場もありうるということだ。アーティストといえども、公共の場所ではルールに従う事を求められる。キース・リチャーズが、東京ドームでコンサート中に煙草を吸う事に関して、招聘元では、ドームや当局の特別な許可をえるためにやっかいな手続きを踏んだらしい。ストーンズですらルールの中に回収されているのだ。今は、1968年ではなく2010年なのだから。

諸外国では、アダルト向けの商品は、ちゃんと棚を分けてるよという聞いた風なセリフもこの類だ。つまるところ、ルールを守って、お互い気持ちよく過ごそうという嫌煙運動と同じ思想なのだ。そのように考えると、これは是とするべきなのではないかという人は多いのではないか。禁煙席が設けられて助かっている人は大勢いるはずだ。キースだって、決められた場面で予定通りに煙草を吸って、予定どおりに火を消したに違いない。ルールを守る事でビジネスも初めて成立するのだから仕方ない。そんなところで突っ張ったって仕方ない。そうした発想から、芸術の内容に行政が口を出すような行為を当たり前かのように考える人たちが出てきてもそれほど不思議ではない。最近の風潮は、特にそうだから。しつこいかもしれないが、それが間違いであることはもう一度繰り返しておきたい。行政機関、政府、法律、そうしたものは、芸術作品の内容について口出ししてはいけない。それが、個人の尊厳を認め、個人の自由性を許容し表現を尊重する考え方から出てくる自然な帰結だ。したがって、どんな作品であれ、都が作品を指定して流通上の配慮を求める事は越権行為なのだ。それは、コンテンツへの言及が不可避な行為だが、流通を制約するためにするコンテンツへの言及を自治体や自治体の委託を受けた少数の個人がやることは、「表現の自由」ではなく「個人の尊厳」を直接傷つける行為だからだ。そうした人々に、作品に即してその有害性を認定することが本当にできるだろうか。そんなことはできやしないさ。人間は、そんなに薄っぺらな存在ではない。作品を批判することはもちろん可能だ。不快感を表明することも可能だ。しかし、それが有害であると客観的に証明することは多分できないだろう。そもそも、できないことを無理矢理にできることにすべきではない。まして、それを公の名前でやることは基本的人権の侵害であると私は考える。

では、この結論を大事にしながら、流通について交通整理を行いたい自治体がとれる手段は何か。コンテンツに言及できないのだから、制限したい目的に応じて交通整理をする他ない。つまり、成人向けのコンテンツを成人にしか届けたくないというのが目標なら、成人向けのコンテンツを流通させる経路をあらかじめ準備することしか、自治体にはできないだろう、と私は考える。棚を区別する、ネットに成人向けの表示をする、なんでもよいが、そこまでが行政の権限でできるせいいっぱいの所であり、そうした交通整理を市民の様々な声をまとめながらなるべく妥当な形に落ち着けるのが政治の役割だろうと思う。つまり、アダルト商品を必要とする層に対して商品を届けられる路を確実に作ることがむしろ必要なのだ。でないと、闇市場がはびこる事になる。私自身がそうだが、アダルト商品の流通に節度を持つ事自体には特に反対しないという市民は多いのではないか。ならば、その流通に対する工夫を行政が考える事には特に違和感はない。ここまでは、「表現の自由」と関係なくできると私は考えている。問題は、その棚にのせるべき作品は、どれなのか、それをどうやって決めるのかということだが、私の考えでは、それを決めるのは、作者にしかできない。いや、もしかすると作者にもできない可能性がある。次の問題は、これである。誰が成人向けの作品を区別できるのか、何が成人向けの作品なのか。そして、それらは子供の目からなぜ遠ざけられなければならないのか。そこが解決されないと、前回かかげた、われわれはどこまで作品流通の自由を保証するべきかという疑問には答える事ができない。


| | トラックバック (0)

2010年12月14日 (火)

東京都の「東京都青少年健全育成条例改正案」(2)

芸術表現(この際、エロ漫画も含めた広い意味でとらえてほしい)が法の制約を受けることは原理的にできない。原理的にといっているのは、表現が生まれるメカニズムの中に法律のいる場所はそもそも存在しないというぐらいの意味だ。我々は、別に四六時中法律を意識して暮らしている訳ではないし、特に、芸術活動をしているときにはそうだ。それだけではなく、「個」の中で生まれる作品が、集団の元で守るべきと信じられている法と出会うには、発表されて世に出なければならず、発表される前の段階では、「個」からの制約の元にしか作品はいないために、集団が「個」を通して制約できる範囲でしか表現は制約されようがないからだ。そして、「個」は、いつでも法律的な人間というわけではない。

だから、アーティストが自分にとって真に必要な表現を追求していった末に、それが法律違反になることも時にはあるし、それは、当然のことなのだ。法律は、「個」の表現の欲求など理解しないし、法律の水準が表現の最前線に届いていないのも当然で、その差は小さい方がアーティストにとってはいいが、現実にはそうはいかない。ボードレールの『悪の華』が禁書扱いだったことを思い出そう。他にも事例には事欠かない。表現は、多くの「個」によって支えられて初めてその時代の「法」の水準と拮抗することができるが、そうなるまでには時間がかかる。今、禁忌に触れるとして制限の対象になっているマンガ作品がいつか『悪の華』のような古典にならないと誰が言えるだろうか。いや、それは、若干大げさかもしれない。しかし、どちらにしても、そうした法律に触れるかどうかなどということは法律家がその時代の水準にあわせて考える類の問題ではあってもアーティストの表現上の問題にはなりえない。

むかし、坂本龍一の『Seldom Illeagal』という本があった。アメリカで運転免許を取得しようとして、教官から説明を受けている時に出会った言葉らしいのだが、確か、運転していれば時には違法なときもある、というぐらいの意味だったと思う。ドライバーなら思い当たるだろうけど、制限速度を守らないで走行している状況はそんなに珍しい事ではない。制限速度の設定の方がおかしいと感じることも多々あるし、決めた制限速度を守るのがその交通状況で必ず正しいとも限らない。それが現実だ。これをわざわざその時の交通全体の流れを無視して法律は法律だとばかりに取り締まるから所謂ねずみ取りには批判が絶えないわけだ。この問題については、別の項目で改めて書く事を考えているけど、人間があって法律があるのであり、法律があって人間があるのではないことはこの際あらためて確認しておこう。芸術は人間の本質に根ざすのであって、法律の上に制限速度を守ってつくられるわけではないということを。

では、表現の自由とは何なのだ。これが憲法に明記されているのは重要なことだ。そう習った。しかし、上に説明した表現のもっている本質的な自由性は、人間の本質に基づく属性のようなものだ。大切な属性だが、それが本質だというだけで、後天的に法的に整理された権利やなんかとはそもそも次元が異なる。この人間の個人の表現のもつ本質的な自由性から生じた表現、あるいはその表現行為は守られなければならない。これは、個人の尊厳の問題に直接関係するからだ。一方で、憲法が述べる自由は、この人間の本質的な自由性を保証しようとしているわけではない。この点を混ぜこぜにして議論するべきではない。

憲法で、「表現の自由」という言葉が出てくるのは第21条である。

集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保証する。
○2
 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

ここで言われている「表現の自由」は、文脈を普通に受け止めれば、自分の考えを公表したり、同じ考えを持つものが集まって集団を形成したり、それらの表現を他者から盗み見されたり、検閲されたりすることがなく行えたりすることについての自由である。同じ、「表現」という言葉を使っていても、上で説明した、人間の本質的な自由性に基づく表現の自由の問題とは、意味するところが異なるのは明白だと思う。ここで言われているのは、発表の自由である。自分の表現や意見を誰にも妨げられずに公表できるという自由である。そのことで、個人の表現の自由性を抑制しないことを間接的に保証することになっている。都の条例で問題になっているのは、この「発表」に関する自由の文脈であることは明らかだと思う。

都の条例は、個々人の自由な創作を妨げようと言うつもりはなく、発表の機会を奪うつもりもないが、流通上の配慮をお願いしたい。丁寧に言えば、立案者の発想はそういうことなのではないかと思う。作品の作成やその結果としての表現は、それが、どのように下劣に見えようが、それだけでその作品を社会から排除することはできない。それは、個人の尊厳に関わることだからで、人がどのような信条や性癖、習慣をもっていようがそのことだけで直ちに社会から排除できないのと同じ事だ。それが人間の本質なのだから、大切に扱うべきものだ。しかし、その作品の占める位置は、それこそ人々の間での需給関係によって自然と定まるに違いない。「下劣な作品」にはそれなりの取引の場や位置づけが与えられるように自然となるはずである。どのような作品でも美術館に収蔵されるわけではない。しかし、都の条例は、この自然と定まるであろう需給関係にバイアスをかけようとするものだ。健全な子供を育てるために、そうした「下劣なもの」を子供に近づけないよう配慮を求めることを明文化しようとするものだ。この際、「配慮」が強制力を生むのは間違いないので、義務付けと考えてもいいだろう。では、何が「下劣か」は、どうやって決めるのか。

おそらくは、その「下劣度」の決定が作品の表現に即してではなく法律に則してしかできないところに議論がかみあわない最大の理由がある。結局は誰かが線引きをする他ないはずなのだが、その線引きは「法律」の論理に従う他ないはずだから、何らかの基準を明文化せざるをえなくなるに決まっているのだが、それは実質的に不可能である。法律は芸術作品の価値に関わることは多分できないからだ。法律は、作品の価値にも個人の倫理にも関わる事ができない水準でしか作られない。これは、法律と個人との関わり方はいわば垂直にしか交われないようになっているためで、冒頭に述べたように原理的に明らかなことだと思う。かつて、日本人は、このことにはサド裁判でも「愛のコリーダ」裁判でも既に直面したことがあるはずだ。加納典明が警察にやらせたように、表現の上に線を引いて、不適切な部分を示す以外に法律にできることはない。その線引きで作品を区分けする事は表現の価値を無視して、行為の種類とか、対象となる主人公の属性とかを基準として機械的に類別することにならざるをえないのだ。これは、都がやろうが有識者がやろうがどっちでも同じ事だ。これに表現者側が反発するのは当然だと思う。結局の所、恣意的な類別しかありえないのだから。そして、その類別は、需給関係に都が介在する根拠を与えている条例によって支持されるわけだから、そのまま生活にはねかえってくる可能性がある。

都が求めているのは、そうした出版物などの置き場所を大人だけがアクセスできるところに固定して、子供を近づけないようにしてくれ、ということだが、その対象となる作品の線引きのやり方には問題点が残る。しかし、置き場所を分離するのはそんなに問題だろうか。主たる消費者である成年男子は、何も妨げられずに購入できるわけだから。おそらく、都知事や副知事の感覚もそうしたものだと思う。そして、子の親としての私の考えも前回述べたように、どちらかといえばそれに近い。この条例の議論が終止すれ違っているように見えるのは、この点ではないかと思う。都は、要するに、「不健全な図書」など子供に見せたくないものを子供の目の届かないところに追いやりたい訳だ。反論する側は、それには反論せず、表現(発表)の自由を問題にする。現行法でも十分対処できるといった法律のテクニカルな側面については、ここで問題にするつもりはない。問題にしたいのは、本質的に個人の自由の産物である作品が社会に出て行く時に、発表の自由はどのように実現されるべきかという点だ。もう繰り返すまでもなく、今問題になっているのは、芸術表現の自由性の問題ではなくて、作品流通における自由性をどうとらえるかということだからだ。果たして、幼児を性的対象としてレイプするような類の作品を町の中のどこででも買えるようにわれわれは「自由」を保証していかなければならないのだろうか。次の問題は、これである。

| | トラックバック (0)

2010年12月 4日 (土)

東京都の「東京都青少年健全育成条例改正案」(1)

この条例に関する反対意見は、これまでいろいろなところで目にしてきた。しかし、正直に言えばこれまではこの問題にはあまり関心が無かった。多分それは、青少年というのは本質的に不健全な存在だと思っているためだ。健全に青少年を育成しようという発想そのものが不健全だとしか私には思えないのだ。自分が現役の青少年だった頃からそんなことは自分にとっては自明だったので、「未熟で影響されやすい」とか、「純粋な」とかいう青少年に対する形容を聞くたびに馬鹿じゃないのかと心底思っていたものだ。今でも、その考えは変わらない。こんな条例は全否定するほか無いのである。根底から否定する他ない法律のちょっとした改訂ぐらいでは関心のもちようもなかったりする。そんなものを気にしだしたら、ぶっこわしたいものはこんな条例以外にもごまんとあって、ただの勤め人にはとても対処しきれないからだ。

これまでは、幸い、そういう青少年健全育成関係の「大人」達と関わる機会が少なかったし、こちらもできるだけ距離をおいてその手の人々とは関わらないようにしてきた。「何が、健全育成だ。馬鹿にすんじゃない。」というのが自分が青少年だったときの基本的な態度だったわけで、そういう「大人」は基本的に馬鹿にしていたし、そういう感情は隠しておける物ではないから、離れているというのがもっとも楽な解決策だったのだ。思春期以来のそうした習慣はなかなか抜けないもので、関心無いってのにはそういう背景からむとろ持ちたくないってのもある。だいたい、健全育成なんかをおせっかいにも一生懸命考えている連中は、子供が外界の刺激にストレートに反応してすぐ影響されるものだという間違った前提を見直そうとすらしないのだ。思春期の子供の理解力を見くびるべきではないのに。こんな連中とは永遠に敵対関係でしかいられないし、相手の土俵の上で議論したって向こうは応えないと分っているので、やっても始まらないだろう。疲れるだけだ。

もうひとつこの問題に関心がもてなかった理由があるとすれば、多分、槍玉に挙がっていたのが特に子供を対象にしたポルノだったからだと思う。私は、子供を出演させる児童ポルノに関しては断固として反対する。子供に対するポルノ撮影は子供に対する虐待であり、犯罪である。と、信じる事にしている。ロリータ・コンプレックスは理解しえても、子供を虐待する妄想を描いた作品は理解しがたい(だから規制しろというわけではないが)。そして、この条例は、どうも子供を対象として描いたアニメやマンガの流通に制限を設けるということのようなので、そんなことならかまわないのではないかと漠然と考えていたからだ。児童ポルノとロリコンではまた話しが違ってくる訳だが、どちらにしてもおおっびらに売るなというだけなら、別にいいではないか。18禁のコーナーを充実させれば。iPhoneのアプリは、辞書ですら18歳未満には問題のある表現がふくまれてるって警告してくるぜ。

実は、エロ漫画やアニメ、ゲームの類についても大人向けのポルノと言えるような物は、たとえば少年ジャンプと並べてコンビニの棚に陳列するようなことにはやめてもらいたいと思っている(既に、そうしたものは成人コーナーに並べられて子供が手をのばしにくくはなっているが)のもある。これは、子供に見せたくないと言う理由ではなく(見せたくはないが)、ポルノはこっそりと見る物だという信念があるからだ。それで、何か不都合があるのか?私もエロには興味があるが、コンビニのような子供から年寄りまで多くの人が出入りする往来のような場所に並べておかなくてもよいではないか。そうしたものは、町外れの本屋やつぶれそうなビデオショップでこっそりと購い、こっそりと消費するほうがいいのだ。それを制度化するならやったらよい。だいたいそうした商品を必要とする青少年は、それでもちゃっかりどこかから入手するものだし、それはそれでよいのである。それでこそ健全なのだ。

だが、これは私の個人的な好みみたいなもので、なんでポルノの流通はこっそりとやられたほうがいいのか分っているわけではない。これは、自信をもって言うが、ポルノだって健全な文化である。生活かかってるとか言われたら、まよっちゃうね。それに、すでに町中にあふれているじゃないかと。町外れのじいさんが一人でやってるような本屋もつぶれそうなビデオショップも最早見かけなくなったし、事実上コンビニでしか手に入らないという町や村もあるかもしれない。

さて、しかし、どうやらこの問題について書くなら、もう少しきちんと書いた方がいいような気がして来た。条例の改定案自体をきちんと読んでいないので、まずは読んでからだが、実は、この問題は、デジタル・コンテンツについて書いたコンテンツとコンテナの問題も関連しているし、その他、いくつかの大事な問題もふくんでいる。条例は可決したようで、今更と言われるのは承知で私の考えをまとめてみたい。「小さい声ではっきりものを言う」だ。元々、時事問題にいろいろと口を出したいわけではなく、みんなで考えてる時は自分も考えてそれを発表するようにしたら面白いかも、と思うだけなのだが。このブログの読者がどんだけ少ないかはよく承知している。小さい声でものを言う事にどれだけ効果があるのかもよく分らない。しかし、言いたいことがあるなら黙らずにどんな小さな声でもはっきりとものを言うべきなのだ。このことの重要さは確信している。

| | トラックバック (0)