カテゴリー「父の晩年」の記事

2012年3月25日 (日)

宮台真司の吉本隆明解説

http://www.youtube.com/watch?v=2ateTa6WAAE

ラジオの録音を偶然聞いたのだが、フーコーとの対談あたり以降に、日本の「思想界」界隈の人々が吉本さんをどう見ていたかを代表する割合に率直な意見だと思う。吉本さんの生前はこういうことをわざわざ言う人もなく、そっと無視をしている感じだったのではないかと思うが、これからこの種の感想は少しは聞けるようになるんだろう。しかし、宮台さんの説明する「大衆の原像」も「自立」も「資本主義肯定」も、教科書には(もし書かれるとすればだが)そんな風に書かれるのだろうなという意味でとくに間違っているわけでもないというだけで、やはり遠巻きに見ていた人の理解を出るものではないと思う。本人が生きていたらおっかなびっくりしか言えないようなことをやっと安心して一般向けに言えるようになったという安堵感がかすかにほの見えていて、親しみや敬意みたいなものと同時に少しの照れも感じるのだが、宮台さんって案外いい人なんだなと思ってしまった。

70年代以降の思想の死みたいな流れを理解しない吉本さんの説明をしているあたりは、ものにならないことが明らかな統一場理論に打ち込んでいた晩年のアインシュタインに対して、彼を尊敬する物理学者が感じていた複雑な気持ちに重なる物があるように思う。量子論が発明されて世の中変わっているのに、量子論に先鞭をつけ相対論をひとりで完成しているにも関わらず、それがもたらした成果を信用しないで見通しのない世界へ舞い戻る天才物理学者を遠巻きにしている若い物理学者達。

僕自身はというと、ヘーゲルに戻っていって体系云々言い始めたそのフーコーとの対談あたり以降の吉本さんがだんだんずれていっているというのにはあまり反論はない。フーコーも「ヘーゲル?」って感じだったのではないか。しかし、原発に対する吉本さんの見解がこの「ずれ」の典型というような解説を聞くと、それこそ吉本理解しそこないの典型だと感じてしまうのも否定できない。原発の問題は、別の記事で書いてきているのでそちらを読んでもらえばいいけど、吉本さんの言っている「技術」は、我々が困らされている現実の技術と概念のレベルが違う。吉本さん自身も、そこらへんは存外無頓着で、技術原理主義のようになっているところがあって、その意味では結果としては昨今の原発の議論とは論点が確かにずれているには違いないのだが、この吉本さんの技術原理主義は、技術の不可逆性を自然の発展過程の一部とみなす理解の仕方に由来していて、実はそこにこそ吉本さん理解の鍵があるのだが、このことの深刻さはまだ人文科学系の学者には十分に理解されておらず、宮台さんような解説が許されてしまう原因となってしまっている。
この理解されなさっぷりは、80年代以降の吉本さんの理解されなさっぷりとほとんど重なる。結局の所、これは、表現に関する理論的な展開を自然理解の仕方と関連させてその仕事をながめられるかどうかにかかっているのだ。吉本さんのこのへんの仕事の原点は、『言語にとって美とは何か』の「表現転移論」にある。この成功体験が、その後の吉本さんをずっと支え続けていたことは間違いない。個別の仕事を断片的に見ていると、その時々の関心の対象をそのまま取り入れて料理するというかなり行き当たりばったりな試行錯誤を続けているように見えるところもあるし、西欧思想の流行に妙に敏感に反応する割に主流となっている理解からは遠い勘違いっぷりに終始しているようにも見えるし、勝手な材料を勝手に独断的に料理していて、はなから議論が交わらない面もあるし、というわけで、プロの学者や研究者がつきあいきれないと判断して敬して遠ざけるかむしろ端的に無視してきたのはよく分るのだ。しかし、そのことによって、吉本さんの幹となる表現の理論に関する展開の道筋を見失っているのは非常に残念である。これを、自然の弁証法や弁証法的唯物論の系統の思考の残渣とみなして忘れてしまうのは簡単だが、そんなに簡単な問題ではないというのが僕の意見だ。アフリカ的とかアジア的のような怪しげな概念を振り回す吉本さんをあまり無視しないほうがいいと僕はずっと考えてきた。その背景にある考え方は、現在でもまだ死んでいないかもしれないからだ。

結局のところ、グリーンアクティブのような動きがいくらかは期待感を漂わせながら少し残念な感じがするのと、この種の残念感は底ではつながっているのではないだろうか。短い時間の中だし、一般向けの概説なのだから、あえて単純化して簡単なことしか説明されなかったのだとは思うのだが、聞いていて党派性の問題も自立の問題も本当に考えたことあるのだろうか?と感じてしまったのも事実なのだ。
たとえば、宮台さんは、「自立」を党派性の対立概念であるかのように説明していたが、それは「自立」概念の一面でしかない。自立概念には、借り物でない自分の思想(鶴見さん流に言えば、自分の固有の偏見)を軸として歴史的な現実に対峙する姿勢が含意されていて、自分の立っている場所は自分自身でつくるという基本的な発想がある(それゆえに『言語にとって美とは何か』の最終章は、「立場」であったのだ)。というよりも、それより他に思想の語られる場所はないというのが、「自立」の出発点であったといった方がいいのかもしれない。その思想なるものが正しかろうと、そうでなかろうと、その立っている場は平等に批判に曝されねばならないし、その結果として乗り越えられるようなものなら乗り越えられればよく、決して自分の政治的な立場を守る防護服のように強い思想を学びその言葉をしゃべるようになることが思想を語ることではない。ロシア・マルクス主義は、思想を宗教に転換してしまい、マルクスやレーニンを教義にしてしまった。西欧のマルクス主義の強い影響下にあった日本の左翼知識人は、それ以下で、ほとんどは結局自分の言葉でしゃべれてやしないではないか、というようなのが自立思想に顕著な考え方だったと思う。党派性に対する否定ももちろんだが、それは、借り物の知識を自分のもののようにして話す日本の知識人に対する否定でもあって、この批判はそのまま現在でも有効だという点が実は大事なのだ。マルクス主義が西欧社会で退潮して構造主義になれば、構造主義にながれ、構造主義ってなんだとやっているうちにポスト構造主義だとなれば、今度はそっちだとながれていく。西欧の書店に並ぶ書物をながめていれば、数年後の日本の思潮はほぼ予測できるはずだ。何も、ビジネスだとか情報科学のような分野ばかりではない。その都度、何が新しい考え方なのかを解説する人が現れ、多くの人は原典を読まずにそういう文献でいっぱしの口をきくようになっているだけなのだ。『構造と力』がなぜベストセラーになったのかを考えてみるとよいと思う。結局のところ、それは、ドラッカーなどと特に異なる読まれ方がされていたわけではないのだ。

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2010年11月13日 (土)

父の晩年(7)

父が、ひそかに「雨ニモ負ケズ」を好きな詩としてあげて短文を書いているのを大分前に偶然みつけたことがある。多分、私が中学生か高校生ぐらいの時だったから、まだ父も50代くらいではなかったか。宮沢賢治をどの程度読んでいたのか聞いたことはないが、そもそも私が物心ついて以降、父が小説や詩を読んでいるのはあまり見たことがない。押し入れには、漱石全集や春陽堂の文学全集などがしまい込まれていたが、新しく文学作品を買い込んで読みふけっているなんてことは無かった。中央公論をとっていたから、連載されている小説くらい読んだかもしれないが、司馬遼太郎とか井伏鱒二とかを読んで暇つぶしをするようになったのは、70歳も過ぎて仕事もほとんどしなくなってからだ。音楽は好きで、数少ないレコードを毎週日曜になると聞いていたものだが、ここ二三年は音楽もあまり聞かなかった。

一昨年だったか、その前か、CDドライブを買いに連れて行った事がある。それまで使っていた物が壊れたのだ。私が使っているのは安物の一体型の小型ステレオだから、CDドライブが単体で買える物なんだというのを改めて知ったのだが、せっかく買ったのに時々しか音楽を聞くのを目にすることはなかった。父はごりごりの古典派愛好家であり、せいぜいブラームス、チャイコフスキーくらいまでで、マーラー、ブルックナー、ドビュッシーとかには眼もくれなかった。モーツァルトも好きじゃなかった。基本は、ベートーヴェンである。魂がこもっていると若いころに言ってたことがある。日曜に毎度聞かされたのは、母が結婚のときにもってきたというトスカニーニの第9、ケンプの皇帝、ピアノ・ソナタ、バイオリン・ソナタ、カルテットなんかで、例外的にチャィコフスキーとメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲もよく聞いていたと思う。カラスのカルメンも。小学生の低学年ぐらいまではよく父のあぐらに座って第9を聞きながら寝てた。元々機械いじりが好きで、ラジオはもとより、昔見ていた白黒テレビは自分で組み立てたようなことを言っていた。その頃使っていたレコード・プレイヤーはバカでっかくて、あれこれ自分でいじった後があり、スピーカーも秋葉原で部材を買って来て自分で組み立てたものだった。オーディオ・マニアというわけでもなく、単にそういうことをするのが好きだっただけだと思う。仕事を減らしてからは、自分でオーディオの本を買って来て研究していろいろ組み合わせて自分のセットをもっていた。さすがにもう自作する気にもならなかったのだろう。

もう10年以上前だと思うが、気まぐれでケンプのベートーヴェンのコンチェルト全集を買ってあげたらすごく喜んでもらえたことがある。本当に、皇帝は好きでよくレコードを聞いていたのだ。人からもらった二台目のレコード・プレイヤーも壊れて長い事聞けないでいたのだ。葬式の時に、皇帝を流してやろうと思って探したのだがなぜか見つからなかった。葬式にはふさわしくないのではといわれたが、だって、あんなに好きだった曲なんだからさ。

父は、歌を歌わなかった。母が一度鼻歌をきいたことがあると言っていたほどだ。歌を歌わない人生というのはどういうものなのだろう。私には想像もつかない。祖母によると、子供の頃はもちろん歌っていたらしい。思春期に遭遇した戦争が父の歌を奪ったのではないかという気がしてしょうがない。一度理由を聞きたいと思っていたのだが、果たせなかった。聞いても言わなかったろうけど。自分を語らないなかには、歌を歌わないことも入っていたのではないか。そうした表現を、父は自分に禁じていたのではないか。そんな気がするほどだ。

そうした自分について語ったものを父は何も残さなかった。長い人生の中で、そうしたものを書く事がなかったわけでもないと思うのだが、すべて処分されてしまっていて何も無いのだ。何も残さず、無名の人としてひっそりといなくなる。誰にも負担にならないように。家族にすら気をつかわせず、記憶にも残されないように。使っていたものなんかはみんなすててしまえと言われているような気さえする。その徹底度合いは、自分の父ながら、すごみを感じるところすらある。みかけは、なんてことはないどこにもありふれた老人だし、何か世間的に有名になるようなことをしたわけではなし、年老いてからは尚更にがんこで気難しさもまして、好々爺みたいなのにはほど遠い晩年だったのだが、その芯に誰にもどうしようもない動かしがたい虚無みたいなのがあって、うかつに分ったふりをすると拒否されるようなところがあったのだ。近年は特にそうだった。

母は、バルトークだのフォーレだのと聞いていたし、なぜかは知らないけどポピュラー音楽もタンゴとハリー・ベラフォンテだけは許容していて、エルビス・プレスリーのハワイからの生中継ライブなんかも見せられた記憶がある。私の音楽の嗜好が完全に雑食性だったり、ラテン中南米音楽が好きだったりするのは母の血を引いているのかもしれない。子供の頃はよく歌集をみながら一緒に歌も歌ってくれた。高校の教師をしていたころは、ダンス・パーティを主催したり、レコード・コンサートをやったりしていたと言っていた。ダンスはジルバまでやったと言っていた。ロックンロールがきたところで結婚したのだと。私はダンスは基本やらないし、むしろ苦手である。ダンスは、社会とのなじみ方によってやるやらないが大きく変わる類のものだし、私はひきこもりのほうだから。ただ、踊れる人はものすごくうらやましい。This is it!のマイケル・ジャクソンのすごさは私でもわかる。

父は、そういう母と結構な晩婚で結婚したのだ。母とはもちろんよく話していたが、お客がくれば基本的には母が応対し、父は時々口をはさむくらいで黙っていることが多かった。母が特養に入った事で、何かのバランスが永久に崩れたのは間違いない。ベッドに寝たきりだったくせに、母が紛れも無く父を支えていたのだ。自分を表現することをやめて、ひたすら静かに消え行く道を選択した父を現世につなぎとめていたのが母だったとも考えられる。子供は、おそらく生まれたときから諦めている。子供に依存することをよしとしなかった。実際にはなかなかそうかっこうよくはいかなかったわけだが。子供に介護されながら生きながらえることを望んでいなかったのは私には確かなことに思える。少なくとも、情けない気持ちでいたことは確かだ。

自分に何ができたのだろうと考える。業者を手配し、必要な手続きを代行し、時々は会話をし、食事を作ってやり、病院につれていき、支払いをし、薬をもらってくる。高齢者とつきあうというのは、そういうことだ。次に、食事の介助と排泄の問題がやってくる。つまるところ、老人介護とは食事の介助と排泄の世話だと言っても過言ではないほど比重が大きいし負担もかかる。でも、それを親が望まなかったら、いったいどうすればいいんだ。やればやるほど、相手を情けない気持ちにさせるとしたら、いったい自分は何をどうしたらいいのか。

どんな介護も待ったなしだ。考えている暇はない。相手が亡くなったら、その後で泣く事ができるだけだ。私は父が亡くなった時、泣きはしなかった。葬式では、家族はみんな涙を流していたが、私は涙も出なかった気がする。清志郎や飼い犬の時の方が泣いてたよ。実際。理由はわからない。でも、まだ父との関係が続いているからではないかという気が今は強くする。こんな文章を書かなければいけなくなっているのは、つまるところそういうことなんじゃないかと。

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2010年11月 8日 (月)

父の晩年(6)

宗教といえば、私の住んでいるあたりでも、キリスト教系の信者の方が布教でこられることがある。駅頭でパンフレットを掲げて黙って立っている人たちをみることもある。多分、そうした宗派の人だと推察されるのだが、数年前のある時、家に「聖書をお読みになったことがありますか。」と訪ねてきたのだそうだ。おそらくは、そのパンフレットだか聖書の抜粋だかを掲げながら。平日の事で私は不在で、妻が横で見ていたそうなのだが、その宗教の信者の方のやさしい物腰での問いかけに対して、父は、

「聖書?あるよ。」
「で、なんすか?」

、と。どうやら、父は、聖書の訪問販売と思ったのではないかと妻は笑いながら教えてくれたのだか、聖書を読んだ事もあるし家にもある(実際何冊かある)が、だからなんなんだと、「なんすか?」をくりかえしていたので、先方も話しが通じないと諦めたのか、帰っていったらしい。「聖書お読みになった事ありますか」の次の言葉として、聖書を読んでるし持っているけど信者では無い人に対して何を言えばよいのかはマニュアルがないのかもしれないが、概して突然の訪問者には冷たいのが父であって、別に宗教の勧誘でも家の外壁の塗装工事でも同じことだ。人付き合いの悪さは言うまでもなく、顔見知りの人間にもとりたてて愛想のいい顔をすることはほとんどない。元々、家族の間ですら必要な事以外しゃべることはなく、必要な事だってできれば話さないですましてしまうのだから、外からやってくる人間に対しては尚更である。このエピソードはそういう意味で、父らしさが良く出ていて私としてはとても気に入っている。

しかし、この妻が笑ってしまうようなとんちんかんな状況は、前に引いた『最後の親鸞』で描写されている親鸞の最後の姿ともしかするとかぶるのではないかと思うところがある。

        最後の親鸞を訪れた幻は、<知>を放棄し、称名念仏の結果にたいする計らいと成仏への期待を放棄し、まったくの愚者となって老いたじぶんの姿だったかもしれない。

                「思・不思」というのは、思議の法は聖道自力の門における八万四千の諸善であり、不思というのは浄土の教えが不可思議の教法であることをいっている。こういうように記した。よく知っている人にたずねてください。また、詳しくはこの文では述べることもできません。わたしは眼も見えなくなりました。何ごともみな忘れてしまいましたうえに、人にはっきりと義解を施すべき柄でもありません。詳しいことは、よく浄土の学者にたずねられたらよいでしょう。(『末燈抄』 八) [私訳]

         目も見えなくなった、何ごともみな忘れてしまった、と親鸞がいうとき、老もうして痴愚になってしまったじぶんのおいぼれた姿を、そのまま知らせたかったにちがいない。だが、読むものは、本願他力の思想を果てまで歩いていった思想の恐ろしさと逆説を、こういう言葉にみてしまうのをどうすることもできない。(吉本隆明 『最後の親鸞』より)

父は、長く生き過ぎたねなどとケアマネの方と笑いながら話していたことがある。何をするにもやっかいなのはもとより、周囲からもやっかいなものとして扱われ、自分だけでは身の始末一つできず、風呂に入るのもままならない。そんな人生いつまでもだらだら過ごしてもしょうがないだろうにと思うものの、死なないで生きている。何のために?

もしかすると、このまるで境界人のような行き場の無い状況は、思春期の子供にむしろ近いのではないか。親のやっかいにならずには生活することができず、自我は毎日成長して扱いかねるほどなのに、それを支える生活力や充実した心身みたいなものはまだ存在せず、宙ぶらりんの気持ちのまま押し付けられる受験やら進路の選択やらはまるで自分のやりたいことではなく、しかし時間は容赦なくすぎてだんだん居場所がなくなってくる。居心地のいい場所にはどちらにしても永遠にいられるものではない。しかし、老年のそれは次に移動していく先が、死しかないことを意味している。死に対するモラトリアムこそが、この最晩年なのだ。

世界の中に最早自分を喜んで受け入れてくれるところはない。病院も養老院も子供すらも、心のどこかで、厄介な問題と対峙しているという感覚を抜きに老人と向き合うことができない。もうすぐ死ぬであろう人と向き合っているという感覚を抜きには会話一つできない。気にしないように、周囲が努力すればするほどしゃくに障る。お前達に何がわかるのだと。お年寄りを扱うプロは、こうした心理にも通じているに違いない。ケアマネージャーとは打ち解けて、子供に言わない愚痴も言っているようだった。何を言っていたのかは、彼らもプロだから私たちには決して言わない。想像はできるけど、知ったところでどうなるものでもないし私も強いて聞かなかった。

死の前年、つまり昨年だが未統合だった年金記録がみつかったと社会保険庁から連絡があった。父が手続きの書類を放置しているので、私が代理で手続きをした。父は、手続きの内容について私が説明してもめんどくさそうにもう全部洋一にまかせるよ、というだけだった。未払いの年金額は100万以上になると言われていたのに、そんなものには大して興味はなく、ただ面倒なだけだったのだ。その気分は、実は私にもなんとなく分る。説明するのは難しいのだが、たとえば、もう列車にのった後で、自宅に小包が届いたと知らされたのと同じで、今更言われたって関係ない、という状況といったらいいだろうか。自分が何かの役割を果たす時期はもう疾うに過ぎた。今何を言われても、どうすることもできない。あとは頼むから、必要なことはよしなに処理しておいてくれ、もう全てまかせるよ、と。親鸞は、父よりもう少し生きたが、その心境には似たものがあったのではないだろうか。つまり、ただ面倒だったのではないか。今更、宗教でもない、と親鸞は言えなかっただろうが、父にはもちろん、そんな事情はない。本当は、布教にきた信者の方に、こう言いたかったのではないか。

        聖書?信仰?それがなんだ。
        まだ先があるもんの遊びじゃないか。

かなり私の脚色が入ってはいるし、こういう場面で具体的に自分の考えや心情を口にする人間ではなかったので、ここまで具体的に考えていたとも思えないが、気分としてはそんなに外れてないんじゃないか。

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2010年10月27日 (水)

父の晩年(5)

父が晩年いつも座っていた場所の近くに置いていた本が3冊ある。繰り返し読み返したというわけではなく、トースターの近くに置いてるものだから、パン屑がかかったり煙草の灰が落ちたりで片付けたときには大分汚れていた。ただ、もう本などほとんど読まなかったから、ほとんど最後に読んだ3冊といってよいのではないかと思う。最後司馬遼太郎の『以下、無用のことながら』、吉本隆明の『最後の親鸞』、幸田文の文庫本。後の2冊は元々は私の本だ。司馬遼太郎は好んでよく読んでいた。しおりがはさんであったのは、親鸞について書かれた部分である。

親鸞に殊更関心をもっていたのかどうかは分らない。しかし、歳を取ってから仏教に関する本をよく読んでいたのは確かだ。中村元とか、私の本棚にあった岩波文庫の『ブッダのことば』なんかも引っぱりだして読んでいたのを覚えている。

父が死にどう向き合っていたのか、私には分らない。死が怖くないということはなかったと思う。死ぬのはいやだという気持ちとこんな歳老いてしまって生きているのも面倒だという気持ちの両面があるようなことをちらっと聞いた事がある気がする。父は、信仰を持たなかった。最後に宗教について書かれた本を読んで何を思ったのか聞く事もなかった。それで宗教心が芽生えるということもなかったに違いない。我が家は元々神道だったらしいのだが、戦後葬式を出すときに宮司がおらず仏式でやって以降葬式は仏式という宗教にはいい加減な家である(と父は言っていた)。ただ、おばあさんだかが、浄土真宗の熱心な信者だったと聞いた事がある。親鸞について書かれた本を読む気になったのは、そうしたことも背景にあったかもしれない。

『最後の親鸞』には、割合に前の方にしおりがはさんである。そこまでしか読まなかったのか、そこが気になったのか分らない。その三顧転入について述べられている箇所で私が注意をひかれるとすれば次の箇所だ。

「第十八願は、浄土を信じて、十遍でも念仏の心をもった衆生が、浄土に生れ変れないならば、じぶんは覚りをもつまいという阿弥陀の誓いをさしていて、称名念仏が、救済の本意だという絶対他力の根拠をなしている。そこで第十九願から第二十願をへて、第十八願に転化する過程は、人間的な倫理の高さ低さの差別の否定であり、善と悪との差別を相対化して、<浄土>という概念にふくまれている、美麗なところ、清浄なところ、荘厳なところ、豊饒なところという、観想的なイメージの否定を経て、念仏のまえに、一切の人間は等しく<正機>に属しているという思想への過程としてみることができる。これはまた、一切の自力の痕跡を現世的な人間から消してゆく過程ともみなされる。」

親鸞は、おそらくは自分でもちっとも信じていない浄土を肯定する。その上で、一度でも南無阿弥陀仏ととなえれば浄土へ行けると言い切るのだ。その言葉は、思想の言葉とは異なり、もはや嘘とも真とも言えないような非常に高く強い言葉だ。それがたとえまったく当てにならない浄土であっても、それを信じさえすればそこへ行けるというまったくあてにならない真実の言葉。それは、だれのためにも開かれている。

父は、もとかすると、こうした親鸞のもっている絶対的な平等性とでもいうような考え方に少しくらいはひかれたかもしれない。多くの事を思い煩う歳ではない。ほとんどの人生上の問題は終わってしまっている。いくつかのことを簡単に考えて、納得するかしないかぐらいしか残っていない。そんな具合に人生を始末しようとしていたのではないか。人生は、単調な繰り返しの連続だ。人間は、その繰り返しに耐えかねて確実にすりきれやがてぼろぼろになっていくというのは、ボリス・ヴィアンの『うたかたの日々(日々の泡)』のテーマだった。父は、『うたかたの日々』のような切なさや感傷とは無縁に、男らしくその繰り返しを最後まで淡々と過ごして死んだ。それ以外に何があるんだ?あとは、せいぜい念仏となえるかどうかのオプションがあるだけじゃないのか。この残された三冊を見ていると、そんな風に無言の内に父が語っているように思えてならない。

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2010年10月23日 (土)

父の晩年(4)

 それまでも、家の中にいて鬱々としているので本当は車で連れ出したいのだが、ヘルパーや看護士が訪問する事もあって母をひとり寝かせておく事もできず、できなかった。その制約は無くなった訳だが、入浴の問題はすぐには解決せず、異臭を放つ父を連れ歩くこともはばかられそれもしてやれなかった。母のケア・マネージャーと父の介護について相談し、市の介護の認定も受け、入浴サービスを含めて介護プランを立てようとしていた時に倒れてしまったからだ。
 もう少し早く進めていればという後悔がないわけではない。父の介護の問題を後回しにしていたのは確かだ。母を見に来た相談員も、父の方が心配だと言っていたし、母のケア・マネも気にかけてくれてはいたのだ。毎日顔を会わせていながら、長男である自分が一番気にかけていなかったことは言い訳ができない。なぜなんだろうと自分でも思う。困難な問題なので分ってはいても手をこまねいていたという側面は無くはない。しかし、目をそらしていたと考えるのが一番あたっていると自分でも思う。
 しかし、前にも書いたように、分っていても打つ手が無かったというのは本当のことだ。私も妻も日中は毎日家にいるというわけにはいかない。父は、当時、まだ要支援の介護度の認定しか受けられておらず、市のサービスでやれることは多くない。
 母のときに経験したことだが、要介護度が4とか5でも、看護士さんやヘルパーさんにお願いできる作業には限界があり、予定外のコールに対してはそれぞれ1時間で9000円とか4500円とかが自腹でかかる。たとえば、朝、昼、晩の食事の介助をそれぞれ1時間お願いしようとすると、月に40万円以上かかる勘定になる。
 母の場合、入れ替わり立ち代わり担当者が変わるヘルパーさんとはうまくいかないことも多く、食事の介助は元々難しかったと思うが、毎回受けていた清拭と下の世話、褥瘡予防のための体位の固定や補助具の調整だけで30分はかかり、日に二度それをお願いして月に二度の入浴をお願いすると、それ以外に看護士さんの処置のための点数しか残らず、もう介護保険でできることはあまりなくなる。しかも、土日はヘルパーさんの確保が困難で、おむつの交換すらままならなかった。
 父は、母より遥かに問題ないと思われていた訳だから、入浴サービス一つとっても、提供されなかったはずだ。父は、おそらくは墓石と葬式代のつもりで積み立てていた簡易保険の他、貯金や生命保険は何もなかったし、私も介護の費用を出せるほどの余裕は無く、結局のところ自分の体力を使った解決策しか無いのだが、それはほとんど何もできないということと同じなのだ。
 市では、介護がまだ必要ないお年寄りに、介護状態にならないような予防のプログラムは各種提供されているようなのだが、実際に介護が必要になりはじめている父に対しては打てる手がなかったというのは、制度の盲点なのではないかと考えている。
 母のケア・マネの好意で、12月に父は要介護度の判定を受けていて、1月に倒れてから結果が届いたのだが、父の介護認定レベルは3だった。この1ヶ月と少し、判定を受けて認定されるまでの間に父が倒れたのは決して偶然ではない。父の健康上の一番の問題は、おそらく介護度3の認定にもそのことが大きく効いたに違いないのだが、足の自由がきかなくなってきたことだった。非常にゆっくりと足をひきずりながらしか歩けなくなっていた。それでも、要介護度の判定を受けた12月の中頃までは、自力で少し離れたコンビニまででかけていたのだが、年末、クリスマスあたりからはもうそれもだめになり急速に歩行ができなくなったのだ。父が亡くなった直接の原因は、入院中に悪化した肺炎だが、入院することになったのは足がもつれて転倒したときに脳挫傷を起こしたことだ。転倒さえしなければ、まだ介護を受けながら余生を過ごしていたはずなのだ。しかし、その転倒防止のための対策は何もできなかった。父は、立たないように言っても自分のことは自分でしないと気が済まない質で、そんな助言を聞くわけもなく、また転倒しても大丈夫なようなスポンジ上の家に済んでいる訳でもない。
 何が自分にできただろうかとも思う。何かができたはずなのにしなかったのだとも思う。自分はつまるところ仕事を理由に自分の親の大問題を他人任せにしていて、休みの日だってろくに父親と話しもしなかったではないか。何を今更言えた義理か、と。
 しかし、これを読む人はもしかすると困惑するかもしれないが、自分の実感を素直に言えば、父は、自分に対してそうした色々な気遣いをあるいは自分の子供から受ける介護をほとんど望んでいなかったとしか思えないのだ。他人はおろか、子供からの世話も受けずに、それこそ着の身着のまま朽ちていくことを本気で考えていたとしか思えないのだ。
 何かできたはずなのにという私の思いは、おそらく心ある医療や看護、介護の関係者には共通する気持ちだと思う。しかし、当事者はそんなことよりは別の観念にとらわれていて、そうした周囲の気持ちは単なるエゴと化している可能性がある。つまり、自分の気持ちに区切りがつかないだけであって、当事者ためお年寄りは、そんなことはまったく問題としていないのかもしれないのだ。
 父は、風呂に入れようとする私の「親切」は迷惑がったことだろうし、具合が悪くなって病院へ連れて行く時も自分のためというより、息子を納得させるために仕方なくだったというのが本当のところなんじゃないか。覚悟をしたわけではないし、諦めた訳でもない。ただ、そんなことを積極的にやらなければいけない意義はとっくに見いだせなくなっている。そういうことだったのではないか。
 父の死後、あの時ああしておけばといったことは随分考えたが、その想念に苦しめられるということはほとんど無かった。葬儀のときも、それ以降もある種せいせいした感じがあったのは、父がわれわれ残された者に何の執着も残さなかったからではないだろうか。そして、それを父は意識してやっていたような気がしてならないのだ。

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2010年10月18日 (月)

父の晩年(3)

 母が特養に入所するときは、介護タクシーを頼んだ。転院するときもそうなのだが、乗用車のシートに座っていることが困難だったり、移動に車いすなどが必要な場合、高額な民間の介護タクシーを頼まざるをえない。この時は、1万5千円くらい支払った記憶がある。介護タクシーの運転手は乗り降りの介助をしてくれるのだが、基本は一人で、もう一人介護者が必要だと料金が変わるようだ。
 車には、昇降機がついていて車いすや移動用の寝台が固定できようになっているのだが、そのせいで同乗者が乗るスペースは大抵補助席みたいな座席なのだ。頼んだ運転手が無知で高速を使って現地まで行くように頼んだのだか、事前に調べたルートで行かないと道が分らないという。仕方なく任せたところ、一番混む道を選択され、確か出発したのが昼過ぎで到着が15時まわっていたから2時間以上かかったことになる。
 父も、道すがらまだつかないのかと何度も小さく文句を言っていたが、到着したときにはすっかり疲れ果ててしまい母が落ち着くまでの間廊下のソファで横になったままだった。その頃はもう家にいても、ベッドとテレビの前の椅子とを行ったり来たりでどちらかというと半分くらいは寝て過ごしていたのだから無理も無い。横になっている父のズボンを見ると煙草で穴があき、シミだらけでまるで浮浪者の衣服のようにくたびれはてていた。母が身の回りの面倒を見れなくなって以降父が自分のことは自分でやっていたのだが、もうこんなこともどうでもよくなっていたのだ。なんとかしなくちゃと思ったが、結局どうもしてやれなかった。
 母がベッドに落ち着いてから父もベッドのところに行きしばらく二人でぽつりぽつりと話したのだろうか。しかし、ベッドわきの小さなパイプ椅子では父もつらいようで、その日別の用事でこられなかった妻に電話で頼んだ迎えの車を待つ間、またソファに沈み込んでしまっていた。迎えの車は、高速を使って30分で到着した。
 また来るからね、と母に別れをつげて、おそらくは父も何かそうしたことを告げて特養を後にした。父が、うちの車に乗るのは久しぶりである。その頃、父は何度言ってもめんどくさがって入浴をしなかった。着替えも、めったにしない。着の身着のままでだんだんに朽ちていくように死ぬんだから構わないんだといった意味の事を言って口うるさい息子に抵抗した。そんなわけで、同乗していても、通常の老人の匂いよりもやや臭いがきつい。外食して帰りたかったが、あきらめてそのまま帰宅した。思えば、それが、父が遠出をした最後、父が我が家の車に乗った最後だった。
 そして、父が母といっしょに過ごしたのもそれが最後だった。

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父の晩年(2)

母は健在である。兄弟や親戚もいる。こんなプライベートなことを公の場で書き連ねるのには抵抗もある。しかし、これは恥ずかしい事でもなんでもない極ありふれた風景なのだ。私たち家族の経験が、もしそうしたありふれたものであるなら、そこから何かをくみ出す事でしか、父の晩年の「空白」にむくいることはできないのではないかという思いの方が勝る。

母が特養に入れることになったとき、私は「ぎりぎり間に合った」という気がしていた。父の体力的な衰えが目立ち、父にも介護が必要になるのがそう遠くない未来であることを予想しつつ、打つ手がなかったのだ。最悪の場合、会社に事情を説明して在宅勤務にして二人の介護を続ける他ないと覚悟をしかけていたので、まるでどこかで私のことを見守ってくれている人でもいるのかという気がしたほどだ。母の状態を確認しにきた相談員の方は、よくここまでがんばってきた、この状態であれば施設に入るのに何ら問題ないと言ってもらった。ただひとつの気がかりは、父の気持ちの張りが解けて、一挙に健康面に問題が出てくることだ。そしてて、それは実際そのとおりになってしまった。一人で食事をとるような生活は2ヶ月と続かず帰らぬ人になった。

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父の晩年(1)

昨年の12月のはじめに、母を特別擁護老人ホームに入れた。ここ数年寝たきりの状態で、足の拘縮がすすみ手も自由が利かなくなり、認知症も進んだ。辛うじて会話ができても、言葉は日に日に出なくなり、理解力も低下した。父は、母が特養に入所するまで夕飯を母のベッドの横で一緒に食べた。私たち夫婦が用意する食事を母に食べさせながら食事するのだが、母の食欲は衰えないのに、手の自由がきかず、箸を使わずに手で食べたり、箸をつかってもおかずをこぼしたりして父の怒りをかっていた。父は、なだめすかすなんてことはしない。うまくできなければ、いらいらして叱るだけだった。もちろん、母が衰えていることはよく了解していたに違いない。しかし、その衰えを許容して見かけ上で優しく振る舞うことはあまりなかった。よく、いやになっちゃったよとこぼしていた。

食事の介助は根気のいる作業である。しかし、これは父がやるべき仕事だと私はずっと考えていた。父の食事の好みはうるさく、随分苦労したと母からよく聞かされていたこともある。このくらい、女房孝行してもバチはあたるまいということだ。しかし、本当はそんなことよりも、父が母と隔てられて一人で食事をするようになったときに、一挙に張りが無くなって早く衰えてしまうのではないかということが心配だったのだ。父は、カメラやクラシック音楽など趣味もないわけではないが、このところそうしたものに向かう気持ちがなくなってしまったようで、いつも鬱々としていた。テレビや新聞を見る他は、介護業者や時々くる宅配業者やクリーニング屋の応対、近所のコンビニへの買い物などを除くと何をすることもなく過ごしていた。そういうことは一切言ったことはないが、父は母と会話がまともにできなくなってしまってからは、楽しいことなんか何もなかったのだと思う。ただ、残っている生と近づいてくる死の双方に耐えていただけのような生活なのだ。

その宙ぶらりんの状態を埋めるように、煙草を止めなかった。一日、二箱近く吸っていたのではないか。これしかないんだよ、と言っていた。具合が悪くなり、自分で近くの自動販売機に買いにいくことができなくなり、最後の煙草を去年の年末に吸って以降は、私は煙草を買ってやらなかった。「煙草がないと、手持ち無沙汰だな。」と、できれば買ってきて欲しそうにぼそりと言ったことが一度あったが、具合悪いのに煙草なんかだめだよと取り合わなかったら、それ以上言わなかった。煙草は、最後父の寿命を幾分か縮める原因になったと思う。自分でも、悪いことは分かりきっていたはずだ。おそらくは、それで死ぬならしょうがないと考えていたのだと思う。父は、86歳で、もうこれ以上長く生き抜く気力も失っていたわけで、何もしたいこともやることもなく、間が持たないのよりは煙草でも吸っていた方がまだましだったのだ。

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