« 『永遠の0』 映画の方 | トップページ | 浅田真央さんのフリースケーティング - ソチ五輪 »

2014年2月 8日 (土)

『永遠の0』 百田尚樹 著

映画が評判になっているが、先に小説を読んだ。手に取ったのは偶然だ。最初の数十ページくらいをざっとながめて投げ出しかけたのだが、少し思うところがあって読み進めていくうちにだんだんこの作品について書いてみたくなった。

読めばわかるわかりやすさで作られていて、それなりによくできた作品だと思う。しかし、本当は言葉だけでは描くことのできないものを、だからこそ言葉で描き出すのが文学だとすれば、この作品は文学的ではない動機に支えられているところがあり過ぎるし、エンタテイメントにしては読者に応分の負担を要求する戦争論や特攻論に作者自身がのめり込みすぎている面もある。僕が最初の数十ページで放り出しかけたのは、『蟹工船』と同じだと思ったからだ。文学化された『ゴーマニズム宣言』といったほうが分かりやすいかもしれない。はじめに作者の主張が明確にあって、その主張のために登場人物が生な意見を吐く。一種のアジテーションになっていて、小説の作法としては、これをやったらだめだということをやっている。『蟹工船』と同様、この作品もそこだけでB級作品であるとひとまず言えると思う。これは、プロレタリア文学が60-70年以上前にやったのと同じやり方なのだ。

それでも読ませるというのがみそだし、それ故にベストセラーになっていると考えたらいいと思う。『蟹工船』だって、作品としてはB級だが、古典として今でも読まれている。この作品も、読者に考えさせる部分もあり、読みつづける楽しみも作ってあり、謎が少しずつ解かれていく読者を飽きさせない仕掛けもある。登場人物の性格付けも一応きちんとなされている。実際、この、文庫で600ページ近くある作品を読み通すのは、それほど骨ではなかった。楽しめたと言えなくもない。よくできているというのはそういう意味だ。では、解説を書かれている児玉清さんが言うように感動したかと言われると、複雑な気持ちになる。理由は明白で、作者が作品中にちりばめた主張に首肯しかねる部分があるからだ。このように作品があからさまな「主張」を持っていて、その賛否が作品評価に連動しているようなもののほとんどはだめな作品だと僕は考えているし、高校の読書感想文で『蟹工船』が課題になったときから今に至るまで考え方がかわったことはない。つまり、これは、B級品だ。なのに、なぜこの作品は賞賛され、ベストセラーになり、映画もヒットしているのか。作品の主張が時代の空気に丁度見合ったからだと考えるのが妥当だと思う。つまり、作者の主張にひかれる読者が相当数いるということになる。

小学生の頃、太平洋戦争を扱った戦記物をずいぶん読んだ。子供向けに書かれたシリーズが二三種類あって、いずれも全巻読破した。プラモデルは、軍艦の喫水線上の姿をモデル化したウォーターライン・シリーズや戦闘機ばかり作った。戦争の道具としての兵器に距離をおくようになり熱が冷めたのは中学生になってからだ。つい最近まで、軍事関係の情報に対してはまったく興味を失っていて、時々思い出したように制作される日本製の戦争映画は見る気にならないし、それについて何か書こうという気持ちになったこともなかった。家族を守るためだとか、愛する人のためだとかで戦争にかり出されて懸命に戦う人たちの悲劇といった類いのテーマ設定にはうんざりしつくしていたし、戦後の「民主主義化」の過程で華麗に新しい世の中の流れにのって戦中の自分をがらりとすてて転身した人々に対する困難な批判も抜きに戦争の何が語れるのか僕には見当もつかなかったからだ。どれもこれも質の悪い感動作にちがいないことは、見なくたってだいたい想像がつくというものだ。

しかし、この作品は、そうした作品とは一線を画している。作者である百田さんは、戦後のメディアにあふれる戦前否定のあり方に明確に意義を申し立てていて、その主張にはある程度説得力があるのだ。この作品がベストセラーになっているのはあながち理由がないことではない。たとえば、上に書いたような戦後になって民主主義に鞍替えした代表格である新聞については、次のようにして徹底的にこき下ろされている。

話者である主人公の姉のボーイフレンドとして登場する高山という新聞記者は、特攻はテロと同じと考えている。特攻要員として終戦を迎えた武田という元経済界の大物だった人物を話者である主人公が訪ねる時に、高山はその姉についてきて武田に対話を断られ、次のようにして追い返される。少し長くなるが引用する。

「特攻の体験は語りたくない。特にあなたには」

「なぜですか?」

 武田は大きく息を吐くと、高山の顔を見据えて言った。

「私はあなたの新聞社を信用していないからだ」

 高山の表情が強ばった。

「あなたの新聞社は戦後変節して人気を勝ち取った。戦前のすべてを否定して、大衆に迎合した。そして人々から愛国心を奪った」

「戦前の過ちを検証し、戦争と軍隊を否定したのです。そして人々の誤った愛国心を正しました。平和のために」

(略)

「あなたは戦後立派な企業戦士となられましたが、そんなあなたでさえ、愛国者であった時代があったということが、私には大変興味があります。あの時代は、あなたのような人でさえそうだったように、すべての国民が洗脳されていたのですね」

 武田はカップを皿に戻した。スプーンとぶつかって派手な音を立てた。

「私は愛国者だったが、洗脳はされてはいない。死んでいった仲間たちもそうだ」

「私は特攻隊員が一時的な洗脳を受けていたと思っています。それは彼らのせいではなく、あの時代のせいであり、軍部のせいです。しかし戦後、その洗脳は解けたと思っています。だからこそ、戦後日本は民主主義になり、あれだけの復興を遂げたと思っています」

 武田は小さな声で「何と言うことだと呟いた。

 高山は畳みかけるように言った。

「私は、特攻はテロだったと思っています。あえて言うなら、特攻隊員は一種のテロリストだったのです。それは彼らの残した遺書を読めばわかります。彼らは国のために命を捨てることを嘆くよりも、むしろ誇りに思っていたのです。国のために命を捨てることを嘆くよりも、むしろ誇りに思っていたのです。国のために尽くし、国のために散ることを。そこには、一種のヒロイズムさえ読みとれました」

「黙れ!」

 いきなり武田は怒鳴った。

「わかったようなことを言うな!我々は洗脳などされておらんわ」

「しかし、特攻隊員の遺書を読めば、殉教的精神は明らかだと思いますが」

「馬鹿者!あの遺書が特攻隊員の本心だと思うのか」

 武田は怒りで顔を真っ赤にさせた。周囲の人が皆こちらを見たが、武田はまったく気にしなかった。

「当時の手紙類の多くは、上官の検閲があった。時には日記や遺書さえもだ。戦争や軍部に批判的な文章は許されなかった。また軍人にあるまじき弱々しいことを書くことも許されなかったのだ。特攻隊員たちは、そんな厳しい制約の中で、行間に思いを込めて書いたのだ。それは読む者が読めば読みとれるものだ。報国だとか忠孝だとかいう言葉にだまされるな。喜んで死ぬと書いてあるからといって、本当に喜んで死んだと思っているのか。それでも新聞記者か。あんたには想像力、いや人間の心というものがあるのか」

(略)

 涙を流して語る武田に、高山は口元に冷ややかな笑みを浮かべた。

「私は書かれた文章をそのまま受け取ります。文章というものはそういうものでしょう。出撃の日に、今日は大いなる喜びの日と書いた特攻隊員もいます。また天皇にこの身を捧げる喜びを書いた者もいます。同じようなことを書いた隊員たちは大勢います。そんな彼らは心情的には殉教的自爆テロのテロリストと同じです。」

「馬鹿者!」

 武田は手のひらで机を叩いた。コップが音を立てた。ウェイターが思わず一歩近づいた。先程からずっと周囲の人たちがこちらを見ていた。

「テロリストだと-----ふざけるのもいいかげんにしろ。自爆テロの奴らは一般市民を殺戮の対象にしたものだ。無辜の民の命を狙ったものだ。ニューヨークの飛行機テロもそうではないのか。考えてみろ」

「そうです。だからテロリストなのです」

「我々が特攻で狙ったのは無辜の民が生活するビルではない。爆撃機や戦闘機を積んだ航空母艦だ。米空母は我が国土を空襲し、一般市民を無差別に銃爆撃した。そんな彼らが無辜の民というのか」

高山は一瞬答えに詰まった。

(略)

「夜郎自大とはこのことだ-----。貴様は正義の見方のつもりか。私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だったと思っている。日露戦争が終わって、ポーツマス講和会議が開かれたが、講話条件をめぐって、多くの新聞社が怒りを表明した。こんな条件が呑めるかと、紙面を使って論陣を張った。国民の多くは新聞社に煽られ、全国各地で反政府暴動が起こった。日比谷公会堂が焼き討ちされ、講和条約を結んだ小村寿太郎も国民的な非難を浴びた。反戦を主張したのは徳富蘇峰の国民新聞くらいだった。その国民新聞もまた焼き討ちされた」

(講談社文庫版 418ページから424ページ)

と、この後、この一連の事件が国民を戦争賛美に導く分水嶺となり、新聞社とそれに煽られた国民は軍部を暴走させるに至った、その元を作ったのは新聞社だったと武田は言って、その新聞社が戦後手のひらを返すように国を愛することは罪であるかのような主張に転じた結果、自らの国を軽蔑し近隣諸国におもねる売国的な政治家や文化人を生み出したと断じるのだ。

この箇所は、全編を通じて作者の怒りが一番強く現れている箇所だと思う。作中人物に半分作者が顔を出して作品のバランスを崩しかけている。この年齢の特攻要員経験をもち、大企業の経営を経験した人物にしては軽すぎるししゃべり過ぎているし、誰が話しても同じような内容をまくしたてることで武田という人物のイメージを縮小し、ただのはりぼてにしてしまっている。また、この新聞記者の浅薄さもおそらくは意図されたもので、わざと戦前に対する最も薄っぺらな考え方をもつ戦後生まれの人間を造形しておいて、それを戦後の人々や戦後の新聞社の代表であるかのように見なして全否定している。この箇所を読む者の多くは、おそらく武田の側に立って読み、高山に対して怒りを抱くだろう。僕もそうだった。おそらく、こんな薄っぺらな人間理解で人の過去の記憶にずけずけ土足で踏み込むやつがいたら、自分なら問答無用で追い返すだろうななどと考えながら読んだことは事実だ。しかし、この高山もこの箇所をのぞけばどうでもいい登場人物の一人に過ぎず、一向に顔が浮かばない。高山は、戦後のある種の戦争理解の薄っぺらさに対する標的の役回りしか与えられていない。

一方で、武田の側に身を置いて読んでしまうといっても、その武田の言い分で同意できるのも戦争に赴いたものの内面の動きまでだといっていいかと思う。特攻をテロと同一視するなというのは当事者の心情としては当然だろうし、時代状況を想像してみても、逃げることの許されない状況で堂々と死地に赴いた人々にテロリストの言葉を浴びせるのはあまりに心ないし酷という心情には共感する。しかし、911のテロを見て特攻を思い出した人は実際にはたくさんいると思う。武田は、特攻が殺戮兵器たる空母や戦闘要員しか攻撃対象にしていないのに対して、テロリストは一般の人々を対象としている点で違うのだと主張する。しかし、そう言ったすぐ後で、その日本軍の攻撃対象たる米軍は日本の一般市民を無差別に攻撃したと言っていて、そのアメリカの日本本土爆撃がテロではなかったかについては言及しない。それがテロでないとしたら、それはなぜなのか。

たとえば、戦争中、日本が米国本土まで攻め入っていたと仮定しよう。日本は、おそらく、米国の主要都市に対する空襲を行っただろう。ドイツのイギリスに対するV2ロケットによる攻撃を思い出してもいい。また、日本が原爆を研究していたことは史実であり、原爆は戦闘組織だけを破壊することなく、広く都市全体を破壊せずにはいない兵器であることも明白である。特攻は確かに空母を対象としていたかもしれないが、お互いの軍隊が一般市民にまで及ぶ攻撃を視野に入れた戦いをしていたことは実際には明らかだと思う。特攻機が一般市民めがけて突入したわけではないという事実は、第二次大戦のさなかにおいては結果論に過ぎない面があると言わざるを得ない。鬼畜米英という言葉がスローガンだったんだから。何しろ。

また、一般市民にまで及ぶ攻撃が何の躊躇もなく行われる戦況の中で、国の勝利のために必要とされる自爆攻撃が計画され、それに志願せざるをえず、その上、喜んで突入すると遺書に記さなければならない集団の状況がどれほど「飛行機テロ」と異なるものなのかは簡単には言えないことにも注意する必要がある。この点では、武田が見落としていることがおそらく最低でもふたつはある。

ひとつは、テロが本当に狂信に基づくものかどうかは、それほど自明ではないという点だ。無差別テロを行う集団の側に特攻と同様の必死な思いがなかったのかは外から見ていても単純にはわからない。たとえば、啄木の『ココアの一匙』を思い出そう。

われは知る、テロリストの

かなしき心を――

言葉とおこなひとを分ちがたき

ただひとつの心を、

奪はれたる言葉のかはりに

おこなひをもて語らむとする心を、

われとわがからだを敵に擲げつくる心を――

しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。

啄木のこの詩を最初に読んだのは中学一年生だったから、テロを分かるという啄木にずいぶん驚いたものだ。しかし、ここで啄木はテロの本質をよく理解していると今では思う。自分の主張を言葉で表現するかわりに行動で示さざるを得ないテロリストの追いつめられ方がよく表現されていると思う。テロリストは、対抗する言葉を封じられるかあるいはそれに絶望して相手方との交渉を攻撃に切り替えざるを得ないところに追い込まれることで生まれる。過激だからテロリストになるのではなく、過激な言葉にならざるをえない主張の水準で言葉を抑圧することでエネルギーが直接行動に反転することでテロの芽が生まれるのだ。強い抑圧がないところにテロは起こらない。殉教的精神は本当は関係ない。自爆テロであるかどうかは、戦術的な問題であり、軍やテロ組織がそれを強いることを許容する宗教的、文化的背景があれば起こりえることに過ぎないと僕なら考える。また、「自由」ないし「自由社会」を守るための戦争が宗教と無関係かどうかも本当はきわめて怪しいと考えるべきだ。チョムスキーは、もっとあっさりとアメリカはテロ国家だと言い切っているが、アメリカは抑圧からではなく、「自由」を強いるためにより小さい国や集団を暴力的に支配する。それをテロだというなら、国家の本質はテロだと言ってもいいし、国家間の戦争はテロの応酬だということになるだろう。たとえば、アメリカとNATOの攻撃対象は、東欧の共産主義国家の崩壊後イスラム国家に対するものに変化してきている。アフリカをのぞけば、ほとんどの戦争は、イスラム圏と西欧圏の闘争の色彩を帯びていると言ったら極端かもしれないが、国家同士の戦争というよりも内線を通じて宗教的な背景を異にする民族間が闘争を繰り返しているというように見えてならない。もっといえば、僕は、共産主義国家に対する冷戦も、宗教戦争だったと考えている。共産主義同様、自由主義が宗教であると言っても本当はかまわないのではないかと思っているくらいだ。そうではないのだとしたら、なぜその抽象的な「国家」を守るために兵士たちは喜んで生命を投げ出すのか。信じているものに殉じる構図があれば、なんらかの宗教的な基盤がなければならないし、その構図の必死さ、逃げられなさが同じなら、自由のために危険きわまりない作戦を遂行するアメリカ軍と自爆テロを遂行する人々とがどれだけ異なることをしていると言えるのか極めて怪しいと考えるべきだ。そんなに何もかも宗教といわなくてもよいではないかという批判があるなら、信念とか信条とか言葉をかえてもかまわない(本当は、国家と宗教の関係はもっと丁寧に言うべきなのだろうがそれはまた別問題として)。いずれにせよ、特攻のような生命を投げ出す行為がある場合には、多かれ少なかれそうした宗教的なしばりにもとづく精神的な背景と無縁ではないことをよく理解しておく必要があると思う。所属・帰属している集団からの暗黙の強い要請が無い限り、個人は決して自ら生命を捨てないだろうからである。

たとえば、映画、『アルマゲドン』でエイリアンである敵の母船に突入していく主人公は特攻の麗しい昇華されたイメージだとみなせる。そこから翻って、人類を救うために自爆することと、自国の人々を救うために敵の母船に自爆することとどれほど異なるかを考えれば特攻の本当の意味はすぐわかるはずだ。これは、武田が見落としている二つ目の点だ。特攻は、本当は、実行する個人の問題ではなく、それを生み出した集団の問題なのだ。テロを行う人々が、神の名を唱えて万歳を叫びながら喜んで死んでも、特攻で家族の名前を呼びながら死んでも、窮地に追い込まれた部隊が全滅覚悟で突入しても、本当は同じことで、その間に大きな差は無いと考えるべきだ。『アルマゲドン』型の特攻は、太陽に突入する鉄腕アトム、火山に向かうグスコーブドリ、映画、『日本沈没』で深海艇に乗り込む草薙剛、など物語の世界では少なくないし、たいていは美しい人間の犠牲的精神とその悲しさを描くものとなっている。それらは、個人が死ぬことで集団を死地から蘇らせる構造において同型である。そこには、本当は、集団が生きながらえるために個人を犠牲にすることに躊躇ないある巨大な意思があるのであり、神風という言葉が象徴的に示すように、神に対する供犠にも似た犠牲的な精神構造が存在しているのであり、個人の内面で特攻を語ろうとする限り、すべての自己犠牲のストーリーと同じ美談にしかならないことに、武田も、実は武田であるところの著者も思い至っていない。この欠陥がある限り、どんな特攻の物語もありきたりの美談にしかならないことは前述のとおりである。たとえ宮沢賢治でも、それを賛美する立場に僕はいない。

個人の信条や信念の次元、あるいは、家族を守るという次元、愛する者のためという次元では戦争は始まらないし、できない。特攻も殉教的な攻撃も起こらない。それらは個人が本当はやりたくない戦闘に参加するために自分を納得させる言葉としてあることを忘れてはならない。戦争はそれらとは全然別の次元で起きる。戦争がいったん起こって、動き出したら、それは個人の思想判断の次元とも倫理や生き方とかの次元とも異なる次元の論理で個人の行動を律することを求め始める。集団への過激な帰属と一体化の要請、思想の共有、家族からの独立、秘匿の禁止、感情の抑制、規律の遵守、等々。それは、洗脳とは関係ない。洗脳は、それら集団が求める従順さを個人の欲望の軸に合わせる技術であり、宗教組織は用いても、軍隊組織のやり方とは一般的には無関係だからだ。武田が怒るのは当然だ。軍隊は、人を従わせるために、暴力を用いる。鉄拳制裁のような暴力もあるわけだが、より本質的には、やらなければやられるという敵との関係性そのものを用いるのだ。暴力に基づく均衡関係に放り込まれることで、丁度、奔流の中では流れに合わせて動くほか無いように人は暴力の行使のために生き始める。それは、個人の意志とも洗脳とも無関係で、ただ集団としての人の動きと個人としての人の動きとは次元が違うということだけからくる現象だ。奔流がやめば(すなわち戦争が終われば)この緊張関係から解かれて、人は集団の次元から抜け出て個人として生きだすことができるようになる。平時の社会生活では、こうした集団と個人との場面は交互にやってくるが、軍隊組織では常時、集団としての生活のみが許容されるわけで、それを洗脳と読みとったり、その結果の行動をテロと断じたりすれば、それは怒るよ、ということになる。このあたりの特攻隊員たちの無念さは、本作ではよく汲み取られている。全部とは言わないまでも、そこに対して著者は最大限の敬意を払おうとしている。そこまで理解しているのに残念であるというのが本書に関する感想のすべてだといえるだろうか。重みをかける場所はそこじゃないんだけどなという気がしばしばして仕方なかった。現実に戦争体験した作家の作品と比較してどこか軽さを感ずるのはそのたあたりなのではないかと僕は思う。

さて、もうひとつ、本書で「生に」主張されていることをあげておこう。それは、日本帝国の軍隊にあった士官制度と官僚主義に対する批判である。実戦経験乏しいままに、勉強ができることだけで士官としてはじめから戦地に赴く軍人が戦局を苦境にもたらしていったひとつの原因であることが主人公の姉を通じて語られている。あるいは、戦地においても出世のための評価を気にしながら戦う軍人の情けない姿についても半信半疑ながら言及されている。この指摘は、戦争史の研究から様々な形であきらかにされていることと思うが、日本の国がそうした多数のだめな船頭に導かれて責任者不在のもと敗戦まで連れて行かれたのは、日本の官公庁のキャリア制度がもたらしている問題と同じ構造であり、日本の大組織の腐敗構造の根にある問題である。この問題に関連する物語が本書で主たる軸として展開されているわけではなく、兵士の死の無駄にされ方に対する著者の視点を支えるひとつの状況証拠となっているだけなのだが、日本軍のだめな所も特攻のだめなところも十分理解された上で当時の軍隊に対する批判が貫かれているということは言えるように思う。物語全体としては、特攻の当事者の内面の真実を描くというよりも、日本軍の狂気の原因やその現象に対する冷静な認識を下敷きに、特攻に追い込まれていったいちばん「死にたくなかった」兵士が特攻で突入してくまでの物語を作りあげた形になっている。もしかするとそうした官僚主義的な軍隊の腐敗の結果を明確にすることにも著者のもうひとつの狙いがあったのではないかという気がしないでもない。冒頭で、現代の空気と合っていたのではないかというのは、このことだ。犠牲になるのは、現代も戦争中も一番若い学校出たての若者である。戦争中は、しかも学徒出陣でかり出された兵士たちが優先的に特攻に向かわされたわけだ。『進撃の巨人』が、現代の日本で、まるで食い物にされている若者のつましくかなしい反撃の物語に見えるのと同様、「馬鹿な」上司に理不尽な理由と給与でこき使われなければならない、あるいは、その場にいるためにすら多大な努力と犠牲を要する若い世代には、本書は実は極めて現代的な物語として響くのではないかということだ。その理不尽な組織に属していた、あるいはまだ属している「士官」クラスのおじさんたちにも。

単純な戦争賛美でもないし、戦地の状況、国の状況もよくおさえられているし、特攻のような特殊状況における兵士の心理にも迫真性があり、あわせて、ミリタリー好きも満足させる零戦に関する記述。オンライン・ゲーム、艦隊コレクションのブームなどとも合わせて考えると、現在における「右傾化」の本質はよく浮かび上がるのではないかという気がする。そこには、だめな官僚に守られただめな国を脱して、強い組織で作り直した強い国への渇望のようなものが漂っているのだ。安倍首相の人気もその前の民主党への期待も根は一つではないかと思う。本作が保守系の政党支持者から強く支持される所以である。半面の真理しかない。しかし、それを知らない者は本作に感動するだろう。やっと日本はそこまできた。その程度の成熟度だと考えると、本作がベストセラーとなる意味も分かる気がするのだ。 (平成26年2月8日 加筆)

|

« 『永遠の0』 映画の方 | トップページ | 浅田真央さんのフリースケーティング - ソチ五輪 »

本の感想」カテゴリの記事

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『永遠の0』 百田尚樹 著:

« 『永遠の0』 映画の方 | トップページ | 浅田真央さんのフリースケーティング - ソチ五輪 »