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2014年2月 8日 (土)

『永遠の0』 映画の方

お正月休みに、実は映画も見た。

不覚にも涙ぐんでしまうシーンもあったのだが、泣くのはこちら側の理由で感情を重ねて見てしまうところがどうしてもあるからで、だからといってこの作品をほめたいわけでもない。泣かせる技に長けてる分だけ始末が悪いということもあったりする。

シナリオは、日本の戦争映画の定石、「戦争犠牲者の内面の悲劇を描く」をやっている。何がだめなのかといえば、そこが徹底的にだめだ。周囲と軋轢を起こしても愛するもののために死なないように戦うという設定は原作と同様だが、主人公はどうしようもない流れにおしつぶされていく名もなき人々の代表例のように描かれてしまっている。あるいは、当時の軍部の愚かさを否定的に描きながらも、結果として特攻で死んでいった登場人物たちの死が無駄死にではなかったという方向に絶えず物語が傾いていく。おそらくは、それらの死が本当は戦闘においては全くの無駄死にであったからこそ、むしろ個々の兵士の内面の価値を強化することで戦いそのものの意義を支えざるをえないのだ。兵士個人の視線から出ずにその死の尊さを讃え、兵士の内的動機の側から戦う理由を支えることで、結果としてその人々が守ろうとした国家、特攻という愚行を生んだ国家の犯罪から目をそらし続けるようにして物語は進む。あの戦争のだめだったところを一面でとらえながら、結局のところ、映画は現代日本の映像に戻り、この豊かな発展した国家を守る意味を訴えるという構図に陥って、防衛省協賛映画になって終わる。終盤で、現代の町並みにいる宮部の孫の上を特攻機にのった宮部が通り過ぎるシーンはまるで自衛隊の宣伝ビデオで、そのやり口のおぞましさに気分が悪くなる。

小説で特攻隊の生き残りのビジネスマンと新聞記者が言い合うシーンは、宮部の孫の青年が友人たちと特攻について異なる意見を吐いて奇異な目でみられ合コン中のレストランを立ち去るというシナリオに置き換えられている。原作にあった無理矢理な感じは解消されて、自然な形で映像化されていると思うが、特攻はテロであるという考えは軽薄な青年たちの言動とともに徹底して否定にされる。この時代に、特攻が国家による個人に対するテロだと考えるならともかく、この国家意識はいったいなんなのだと感じざるを得ないのだ。

VFXを駆使した空中戦は、ほめていいのかけなしていいのか僕はわからない。監督は、実写版の『宇宙戦艦ヤマト』を作った人で、あの作品は、VFXを作った残りでセットを作って演出をしているようなひどい映画だったけど、この映画はそんなことはなかった。セットも道具類も丹念に作り込まれていて、それなりのリアリティを保っている。零戦も空母のデッキもよくできていたと思う。空中戦も迫力がある。ストーリーはともかく、監督がやりたかったのはそっちの方なのではないか。VFXで太平洋戦争を描きたい監督の希望と、国を守る軍人の魂の潔さみたいなものを描きたい制作側の意図が合致して何とも気持ち悪い融合をもたらしたのではと邪推したくなるほど、VFXには力が入っている。この共犯関係は今の日本を象徴していると思うのだが、それについてはいずれまた。

ここには、たとえば海行かばを大声で歌って軍国主義を賛美する右翼の宣伝カーのようなあからさまな描写があるわけではない。役者の演技も丁寧に撮られていて、ドラマもある。国民的な支持を得るという目標ははじめから設定されていたと思う。いろんな企業が共同で作っているから、失敗できないというところもあっただろうし、防衛省だの内閣府だのが手伝って、文科省もおしたりしているので、過激な主張はあまりなくて、しみじみと戦争はよくないものだという感想とそれでもその時がきたら人は(まじめに生きているほど)精一杯戦わざるを得なくなるのだという事実に気づかされるように仕立てられている。この安全そうな見せかけは現代の穏やかな右傾化と本当によく整合する。

戦争について言うならば、問題はむしろその手前にある。あるいは、そこから向こうにある。なぜ、人々がやむを得ず戦いに赴くのか。なぜ、まじめな人々が愚行を繰り広げることがあるのか。そもそも、戦争を指揮していた連中は何をしたことになるのか。その大事な点になると、宮部が個人的な葛藤に苦悩しながら人々の注目をそらし、大事な論点をずらして人々の目を外に向けさせるのを拒むのだ。これは、結局のところ、注意深く作られた零戦礼賛と軍人礼賛映画じゃないかと言ったら怒られちゃうのだろうか。軍人だって人の子だし、戦争といったって、それはいろいろ戦争があるわけだけど、特攻隊員の生を肯定することで、間接的に特攻を擁護して、戦争のマイナス面を覆い隠すような作用をもった単純な映画であることは隠しようも無いと僕は思う。原作はまだ日本軍に対して厳しい表現がなされているけど、映画はそうでもない。上官の愚は表現されても、ひとりひとりの隊員はせいいっぱい生きたというところに結局行き着いてしまう。涙ぐんどいて言えた義理ではないけど、今こういう形で本作を映画化するのはかなりあざとい。

先日、首相の靖国参拝に関連して、靖国神社の遊就館がとてつもない歴史修正主義のたまものの展示であふれているといった指摘がアメリカで出たという記事が出ていたけど、ぼくはその新しくなった遊就館にもそれほどひどい印象は抱かなかった。軍国主義グッズの集大成みたいなお土産コーナーは別として、馬鹿爆弾「桜花」が展示されてたり、兵器の一部が展示されていたり、軍人の書だの軍服だのが展示されているところは、世界中どこの戦争記念館でも同じだろう。むしろそれらを見終えて感じたのは、戦争から受けた被害、犠牲、徒労といったことに対するどうしようもない悔恨である。もし、遊就館が修正主義だというなら、それはその悔恨が家なる悔恨であって、どのような意味でも侵略についての記録ではない点にあるんだろう。それは必ずしも戦争否定ですらないのだから。そうした側面は『永遠の0』にも明確にあって、僕があざというというのは、日本が敗戦国として被った精神的なダメージからの回復を心の底で願い、独立国として普通の姿を取り戻したいという静かな自意識の芽生えのようなものが充満しているこの時代に死なないための戦争像を提示するしたたかさなのだ。おそらくは現代的な真の軍人像として描かれている死なずに妻のもとに帰りたい戦争犠牲者宮部が決意して改めて特攻に向かい誰よりも敵艦に肉薄し敵を震え上がらせて自爆するシーンをクライマックスで描くこの最期のシーン、まなじり決して米国の空母に突入していく宮部機にはある種胸のすくような疾走感が漂う。それは、大リーグとの親善試合で1点に押さえた沢村栄治に抱くような思いに近い。僕のような徹底的に国家が嫌いな人間ですら、日本人がこのように米国人が驚くような反撃をする姿に心動かされないでもないのだから。また、そうした自分の心の動きを怪しみ嫌悪しながらも、それを否定したら自分の立っている場所は本当は危うくなるのではないかという微かな疑問を感じたりもするのだ。かつて江藤淳さんが、ナショナリティを喪失した日本人が国際社会で身の置き所が無い思いをすることを述べて、国家の自立の重要性を説いていたのを思い出す。このなんともいえない帰属意識は根が深くそうそう簡単に断ち切れるものではないのだ。

主役の岡田准一さんもかっこいいし、演技に文句もないのだけど、役者としての頭のよさからか、原作が求める本質よりは映画が観客に見せたがっている演技をしてしまっている。役者に罪はなくとも、本作の与える印象の肯定感は主役の岡田さんからも強烈にもたらされていることは間違いない。妻役の井上真央さんの演技は知らぬ間に立派な女優さんになったのだなと思うくらいよかったのだけど、宮部が自分の分身として教え子の兵士を生き残らせ、妻のもとに向かわせ、どんなことがあっても、たとえ死んでも戻ってくると誓った宮部がそのようにして帰ってきたのだと気づき感動するところは、多くの人は違和感を持つのではないかと思う。原作者の思いは僕には分からないけど、そこに泣かなければ、この映画に感動するところのほとんどはは戦場にいくかもしれない男たちのためのものだと思う。つまり、古くからの男女の役割分担に対する肯定を通じて、この映画はもうひとつのあざとい刷り込み、男は外で戦い、女は家を守る、をやりとげる。戦争中の話だからという言い訳はあるだろうけど、端的に言えば、男は命じられたら四の五の言わずに戦地に赴き大事な家族を守るために戦え。女は家にのこって、主人の留守を守れ。と、身もふたもないメッセージが根底にあるのは疑いようもない。多分そうではないというんだろうが、その無意識が国を滅ぼす。重要なのは国家ではない。それを悟らなければ、国家は延命できない時代はもう始まっている。

太平洋戦争中の風景の再現、戦闘機や空母の再現、戦闘シーン、井上真央さんの演技など見るべきものもある。しかし、全体としてどうかと言われれば、これを評価するために今まで生きてきた訳ではないわいと言うほかない。井筒監督が、見た記憶を無くしたいとこの映画をこきおろしていたが、そこまでは言わない。だが、ひとまず、これは労作であるとしても、僕とはどちらにしても関係のない人々の作り上げた労作だというくらいは言っておきたい。残念ながら自分の記憶には長いこと残る作品になってしまった。それだけあれこれ考えさせられたからだけども。単に。サザンオールスターズにもがっかりしたよ。正直ね。 (2014年2月3日、8日 加筆)

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