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2014年2月の記事

2014年2月23日 (日)

浅田真央さんのフリースケーティング - ソチ五輪

多くの人が、ソチ・オリンピックの浅田真央さんのフリースケーティングに涙を流したことと思う。我ながら50過ぎて、夜中にスケートを見て涙を流すとは思わなかった。ロシアの選手やキムヨナ選手の滑りから、美しさや流麗さ、テクニックを感じても、ここまで魂を揺さぶられる思いはしなかった。

これはなんなのだろう。翌日になっても繰り返し録画を見ては(見させられては)、ネットに答えを探し、知ったのは、浅田選手の滑ったこのプログラムは、他の女性スケーターには到底まねの出来ないものだったということだ。事実上、このプログラムを再現できるのは世界で浅田さん一人なのだそうだ。であるにも関わらず、得点としては、それほどあがらないようになっているのは、任意性のまさる採点システムのためだ。また、浅田選手が誰よりも練習する努力家であるとか、誰のことも悪し様に言うことがなくつねに人のことを気にかける人柄であるとか、人となりにまつわる多様なエピソードが出てくるのだが、そうした人間性について無知であってもこの滑りから伝わるただならぬ雰囲気は看取できたのではないかと思う。なんとなくだが、浅田選手がやりとげたのは、ちょっと次元の違うことだということを感じるのだが、それがどのように優れているのかはなかなか分からなかった。

ネットの中をうろつく中で、勝ち負けなんてどうだっていい、メダルなどもはやオプションだという趣旨の意見を何度か見た。僕もそう思った一人だ。もちろん、無関係者ながら、金をとらせてあげたいと思っていたわけだし、期待しながら見ていたのは確かなのだが、何と言うか、浅田さん自身はそのこだわりをとうに振り切っているように強く感じられた。もちろん、専門家としてあの状況でメダル獲得がほぼありえないことは理解できていただろうから、頭を切り替えて異なる目標達成に集中したということなのかもしれない。しかし、長く、浅田選手のスケーティングを楽しみに見てきたのは、いつかオリンピックで金メダルを獲得するというテーマ、文脈にそってであることは否めないし、本人もそのストーリーに忠実に演技してきたはずだとは言えるのではないか。前日のショート・プログラムでそうした応援者の身勝手かもしれない期待は弾け飛んでしまったが、浅田選手自身が、その弾け飛ぶ期待とともに自身の目標を失ってもおかしくないところで、むしろ本来の自分を取り戻しバンクーバー以降のもやもやしたものを吹き払ってしまったように思うのだ。そして、実際に、浅田選手は、これまでにない鬼気迫る演技で、すべてのジャンプをほぼ完全にこなしてみせた。

演技のあとのインタビューでは、浅田さんは、しきりに応援してくれた人への恩返しというようなことを言った。応援している方からみると、勝手な期待と重圧をかけただけで、どのような恩も感じてもらういわれがないと思うから、これは違和感があって仕方なかった。日本的な奥ゆかしさなのか、気遣いなのか分からないが、スケート界であれ、実業界や政府であれ、メダル候補者への期待のかけ方はまったく一緒で、みんな勝手な期待をかけて、勝手に浅田さんのイメージにあやかり、むしろ自分たちの利益に利用してきたのは周囲の方だといっても間違いではあるまい。もちん、スポンサーから金も出るしサポートもあるだろうけど、だいたいは計算づくだ。

採点基準にまつる曖昧さについていろいろ指摘されていることは、おそらく間違いないだろう。基礎点だけなら浅田選手がフリースケーティングで一位だった採点結果を知ると、その採点システムこそが、浅田選手が金メダルを獲得するのを拒んできた張本人であるという気がしてくる。実際、浅田選手にとってはあらかじめ得点が伸びないように考慮された採点システムであるような説明すらなされている記事をみかけるし、いずれもそれなりの説得力がある。他のスポーツでも、日本の選手が得意な競技や種目で、国際大会で日本が勝利を続けている場合、ルールが日本に不利に変更されるという話はしばしば耳にする。これを陰謀だとか買収だとか言う人もいるけど、技術分野での標準化委員会や経済分野での国際会議などでも同じで、要するにそうした国際的な駆け引きの場での日本の発言力や交渉力の弱さが原因だろう。語学力、外交力、コミュニケーション能力、交渉力などを欠いた人材がそうした場に出て行っている場合は、日本有利なルールを守りようも無い。浅田選手も、そうした度重なるルール変更の影響で苦労してきたことはテレビ報道などでも知らなくはなかったが、実際、ルール変更の頻度や内容を知ると、日本のスケート連盟はいったい何をしていたんだと言いたくなるくらい、浅田選手に不利な内容となっていて、ちょっと驚くのである。もちろん、僕が読んだ記事に書かれていたことが、ほんとうにそのとおりかどうかは分からないが、テレビ観戦していて感じる限り、たとえばキムヨナ選手のフリープログラムが浅田選手よりも高得点であるのはちょっと理解しがたい。キムヨナ選手の滑りも、なんというか安定した美しさのようなものがあって決してレベルが低いわけではないのだろうけど、スケートの技として見れば、ごく無難な技しか繰り出していないような印象がどうしても残る。それでも差がつくのは、インプレションからの上積みと構成点だそうだが、そこがまさしく採点上のグレーエリアで、これについては素人は何も言えない訳だが、納得がいく理解ができないことだけはもう事実だとしか言いようが無い。

そのグレーな領域について考えをめぐらしている時に思い至ったのは、それらのグレーゾーンを越える演技を提供することで、採点システムのあいまいさ自体を乗り越えようとした浅田選手の強い意志なのだ。浅田真央さんは、そんなグレー領域の一点二点のやりとりを考えて演技を構成するのではなくて、誰にも出来ない演技に正面から取り組み、それを乗り越えることで自分自身のスケートに新しい次元を開くことを選択したのだと。これが、グレーな採点システムに対する魂のこもった根底からの否定、無言の抗議(当人は露程もそんなことを思ってないでしょうが)でなくてなんだろう。ゴッホは、最期の手紙で、画家は結局のところ絵に語らせることしかできないのだ、とテオに書き送っている。浅田選手は、自らのスケーティングで、フィギュア・スケートの不確かな採点システムや気まぐれなジャッジたちを無言の内に否定し、真のスケーターの歩むべき道を昂然と指し示したのではなかったろうか。あの演技を見た直後に、もうメダルなんかどうだっていいと多くの人が感じたのは、きっとそういうことだったんだろうと僕は思う。

エキシビション後のインタビューで、ソチ五輪の印象を聞かれた浅田さんは、「バンクーバーもあわせて」最高の五輪だった、といったことを答えていたように思う。それはもう終わったことだ。彼女は少なくともそう考えている。もうオリンピックに彼女が戻ってくることは無いだろうと思う(戻ってきてほしいですけどね)。それだけの覚悟であの場に立ったことがよく分かるインタビューだった。

僕たちが、世界最高の競技者と同時代に同じ国に生きていることを本当に幸いに思う。最終グループの選手たちの演技もすばらしかったが、浅田選手の演技は、それらと異なる次元で輝いている。浅田真央さんは、たとえ審判の採点に不満でも、言葉に出して誰かを非難したり否定したり決してしないだろう。多分、心の中ですらそんなことはあまり思わないのではないか。だからこそ、彼女の演技の前では、すべてのスケート関係者はひれ伏さなければならなくなる。その滑りは、本質のみを示し、すべての雑音を消し去るとても大きな力をもっているからだ。おそらくは、無我夢中でやってきた結果なのだろう。その結果、その光があまりにもまばゆいので、スケートとはほとんど何も関係ないわれわれなんかも涙を流してしまうというわけだ。『はじめの一歩』ではないが、久しぶりにいいものをみせてもらった。また明日から仕事がんばろってな感じで。

浅田さんありがとう。世界選手権も楽しみだ。 (2/27/2014 加筆)

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2014年2月 8日 (土)

『永遠の0』 百田尚樹 著

映画が評判になっているが、先に小説を読んだ。手に取ったのは偶然だ。最初の数十ページくらいをざっとながめて投げ出しかけたのだが、少し思うところがあって読み進めていくうちにだんだんこの作品について書いてみたくなった。

読めばわかるわかりやすさで作られていて、それなりによくできた作品だと思う。しかし、本当は言葉だけでは描くことのできないものを、だからこそ言葉で描き出すのが文学だとすれば、この作品は文学的ではない動機に支えられているところがあり過ぎるし、エンタテイメントにしては読者に応分の負担を要求する戦争論や特攻論に作者自身がのめり込みすぎている面もある。僕が最初の数十ページで放り出しかけたのは、『蟹工船』と同じだと思ったからだ。文学化された『ゴーマニズム宣言』といったほうが分かりやすいかもしれない。はじめに作者の主張が明確にあって、その主張のために登場人物が生な意見を吐く。一種のアジテーションになっていて、小説の作法としては、これをやったらだめだということをやっている。『蟹工船』と同様、この作品もそこだけでB級作品であるとひとまず言えると思う。これは、プロレタリア文学が60-70年以上前にやったのと同じやり方なのだ。

それでも読ませるというのがみそだし、それ故にベストセラーになっていると考えたらいいと思う。『蟹工船』だって、作品としてはB級だが、古典として今でも読まれている。この作品も、読者に考えさせる部分もあり、読みつづける楽しみも作ってあり、謎が少しずつ解かれていく読者を飽きさせない仕掛けもある。登場人物の性格付けも一応きちんとなされている。実際、この、文庫で600ページ近くある作品を読み通すのは、それほど骨ではなかった。楽しめたと言えなくもない。よくできているというのはそういう意味だ。では、解説を書かれている児玉清さんが言うように感動したかと言われると、複雑な気持ちになる。理由は明白で、作者が作品中にちりばめた主張に首肯しかねる部分があるからだ。このように作品があからさまな「主張」を持っていて、その賛否が作品評価に連動しているようなもののほとんどはだめな作品だと僕は考えているし、高校の読書感想文で『蟹工船』が課題になったときから今に至るまで考え方がかわったことはない。つまり、これは、B級品だ。なのに、なぜこの作品は賞賛され、ベストセラーになり、映画もヒットしているのか。作品の主張が時代の空気に丁度見合ったからだと考えるのが妥当だと思う。つまり、作者の主張にひかれる読者が相当数いるということになる。

小学生の頃、太平洋戦争を扱った戦記物をずいぶん読んだ。子供向けに書かれたシリーズが二三種類あって、いずれも全巻読破した。プラモデルは、軍艦の喫水線上の姿をモデル化したウォーターライン・シリーズや戦闘機ばかり作った。戦争の道具としての兵器に距離をおくようになり熱が冷めたのは中学生になってからだ。つい最近まで、軍事関係の情報に対してはまったく興味を失っていて、時々思い出したように制作される日本製の戦争映画は見る気にならないし、それについて何か書こうという気持ちになったこともなかった。家族を守るためだとか、愛する人のためだとかで戦争にかり出されて懸命に戦う人たちの悲劇といった類いのテーマ設定にはうんざりしつくしていたし、戦後の「民主主義化」の過程で華麗に新しい世の中の流れにのって戦中の自分をがらりとすてて転身した人々に対する困難な批判も抜きに戦争の何が語れるのか僕には見当もつかなかったからだ。どれもこれも質の悪い感動作にちがいないことは、見なくたってだいたい想像がつくというものだ。

しかし、この作品は、そうした作品とは一線を画している。作者である百田さんは、戦後のメディアにあふれる戦前否定のあり方に明確に意義を申し立てていて、その主張にはある程度説得力があるのだ。この作品がベストセラーになっているのはあながち理由がないことではない。たとえば、上に書いたような戦後になって民主主義に鞍替えした代表格である新聞については、次のようにして徹底的にこき下ろされている。

話者である主人公の姉のボーイフレンドとして登場する高山という新聞記者は、特攻はテロと同じと考えている。特攻要員として終戦を迎えた武田という元経済界の大物だった人物を話者である主人公が訪ねる時に、高山はその姉についてきて武田に対話を断られ、次のようにして追い返される。少し長くなるが引用する。

「特攻の体験は語りたくない。特にあなたには」

「なぜですか?」

 武田は大きく息を吐くと、高山の顔を見据えて言った。

「私はあなたの新聞社を信用していないからだ」

 高山の表情が強ばった。

「あなたの新聞社は戦後変節して人気を勝ち取った。戦前のすべてを否定して、大衆に迎合した。そして人々から愛国心を奪った」

「戦前の過ちを検証し、戦争と軍隊を否定したのです。そして人々の誤った愛国心を正しました。平和のために」

(略)

「あなたは戦後立派な企業戦士となられましたが、そんなあなたでさえ、愛国者であった時代があったということが、私には大変興味があります。あの時代は、あなたのような人でさえそうだったように、すべての国民が洗脳されていたのですね」

 武田はカップを皿に戻した。スプーンとぶつかって派手な音を立てた。

「私は愛国者だったが、洗脳はされてはいない。死んでいった仲間たちもそうだ」

「私は特攻隊員が一時的な洗脳を受けていたと思っています。それは彼らのせいではなく、あの時代のせいであり、軍部のせいです。しかし戦後、その洗脳は解けたと思っています。だからこそ、戦後日本は民主主義になり、あれだけの復興を遂げたと思っています」

 武田は小さな声で「何と言うことだと呟いた。

 高山は畳みかけるように言った。

「私は、特攻はテロだったと思っています。あえて言うなら、特攻隊員は一種のテロリストだったのです。それは彼らの残した遺書を読めばわかります。彼らは国のために命を捨てることを嘆くよりも、むしろ誇りに思っていたのです。国のために命を捨てることを嘆くよりも、むしろ誇りに思っていたのです。国のために尽くし、国のために散ることを。そこには、一種のヒロイズムさえ読みとれました」

「黙れ!」

 いきなり武田は怒鳴った。

「わかったようなことを言うな!我々は洗脳などされておらんわ」

「しかし、特攻隊員の遺書を読めば、殉教的精神は明らかだと思いますが」

「馬鹿者!あの遺書が特攻隊員の本心だと思うのか」

 武田は怒りで顔を真っ赤にさせた。周囲の人が皆こちらを見たが、武田はまったく気にしなかった。

「当時の手紙類の多くは、上官の検閲があった。時には日記や遺書さえもだ。戦争や軍部に批判的な文章は許されなかった。また軍人にあるまじき弱々しいことを書くことも許されなかったのだ。特攻隊員たちは、そんな厳しい制約の中で、行間に思いを込めて書いたのだ。それは読む者が読めば読みとれるものだ。報国だとか忠孝だとかいう言葉にだまされるな。喜んで死ぬと書いてあるからといって、本当に喜んで死んだと思っているのか。それでも新聞記者か。あんたには想像力、いや人間の心というものがあるのか」

(略)

 涙を流して語る武田に、高山は口元に冷ややかな笑みを浮かべた。

「私は書かれた文章をそのまま受け取ります。文章というものはそういうものでしょう。出撃の日に、今日は大いなる喜びの日と書いた特攻隊員もいます。また天皇にこの身を捧げる喜びを書いた者もいます。同じようなことを書いた隊員たちは大勢います。そんな彼らは心情的には殉教的自爆テロのテロリストと同じです。」

「馬鹿者!」

 武田は手のひらで机を叩いた。コップが音を立てた。ウェイターが思わず一歩近づいた。先程からずっと周囲の人たちがこちらを見ていた。

「テロリストだと-----ふざけるのもいいかげんにしろ。自爆テロの奴らは一般市民を殺戮の対象にしたものだ。無辜の民の命を狙ったものだ。ニューヨークの飛行機テロもそうではないのか。考えてみろ」

「そうです。だからテロリストなのです」

「我々が特攻で狙ったのは無辜の民が生活するビルではない。爆撃機や戦闘機を積んだ航空母艦だ。米空母は我が国土を空襲し、一般市民を無差別に銃爆撃した。そんな彼らが無辜の民というのか」

高山は一瞬答えに詰まった。

(略)

「夜郎自大とはこのことだ-----。貴様は正義の見方のつもりか。私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だったと思っている。日露戦争が終わって、ポーツマス講和会議が開かれたが、講話条件をめぐって、多くの新聞社が怒りを表明した。こんな条件が呑めるかと、紙面を使って論陣を張った。国民の多くは新聞社に煽られ、全国各地で反政府暴動が起こった。日比谷公会堂が焼き討ちされ、講和条約を結んだ小村寿太郎も国民的な非難を浴びた。反戦を主張したのは徳富蘇峰の国民新聞くらいだった。その国民新聞もまた焼き討ちされた」

(講談社文庫版 418ページから424ページ)

と、この後、この一連の事件が国民を戦争賛美に導く分水嶺となり、新聞社とそれに煽られた国民は軍部を暴走させるに至った、その元を作ったのは新聞社だったと武田は言って、その新聞社が戦後手のひらを返すように国を愛することは罪であるかのような主張に転じた結果、自らの国を軽蔑し近隣諸国におもねる売国的な政治家や文化人を生み出したと断じるのだ。

この箇所は、全編を通じて作者の怒りが一番強く現れている箇所だと思う。作中人物に半分作者が顔を出して作品のバランスを崩しかけている。この年齢の特攻要員経験をもち、大企業の経営を経験した人物にしては軽すぎるししゃべり過ぎているし、誰が話しても同じような内容をまくしたてることで武田という人物のイメージを縮小し、ただのはりぼてにしてしまっている。また、この新聞記者の浅薄さもおそらくは意図されたもので、わざと戦前に対する最も薄っぺらな考え方をもつ戦後生まれの人間を造形しておいて、それを戦後の人々や戦後の新聞社の代表であるかのように見なして全否定している。この箇所を読む者の多くは、おそらく武田の側に立って読み、高山に対して怒りを抱くだろう。僕もそうだった。おそらく、こんな薄っぺらな人間理解で人の過去の記憶にずけずけ土足で踏み込むやつがいたら、自分なら問答無用で追い返すだろうななどと考えながら読んだことは事実だ。しかし、この高山もこの箇所をのぞけばどうでもいい登場人物の一人に過ぎず、一向に顔が浮かばない。高山は、戦後のある種の戦争理解の薄っぺらさに対する標的の役回りしか与えられていない。

一方で、武田の側に身を置いて読んでしまうといっても、その武田の言い分で同意できるのも戦争に赴いたものの内面の動きまでだといっていいかと思う。特攻をテロと同一視するなというのは当事者の心情としては当然だろうし、時代状況を想像してみても、逃げることの許されない状況で堂々と死地に赴いた人々にテロリストの言葉を浴びせるのはあまりに心ないし酷という心情には共感する。しかし、911のテロを見て特攻を思い出した人は実際にはたくさんいると思う。武田は、特攻が殺戮兵器たる空母や戦闘要員しか攻撃対象にしていないのに対して、テロリストは一般の人々を対象としている点で違うのだと主張する。しかし、そう言ったすぐ後で、その日本軍の攻撃対象たる米軍は日本の一般市民を無差別に攻撃したと言っていて、そのアメリカの日本本土爆撃がテロではなかったかについては言及しない。それがテロでないとしたら、それはなぜなのか。

たとえば、戦争中、日本が米国本土まで攻め入っていたと仮定しよう。日本は、おそらく、米国の主要都市に対する空襲を行っただろう。ドイツのイギリスに対するV2ロケットによる攻撃を思い出してもいい。また、日本が原爆を研究していたことは史実であり、原爆は戦闘組織だけを破壊することなく、広く都市全体を破壊せずにはいない兵器であることも明白である。特攻は確かに空母を対象としていたかもしれないが、お互いの軍隊が一般市民にまで及ぶ攻撃を視野に入れた戦いをしていたことは実際には明らかだと思う。特攻機が一般市民めがけて突入したわけではないという事実は、第二次大戦のさなかにおいては結果論に過ぎない面があると言わざるを得ない。鬼畜米英という言葉がスローガンだったんだから。何しろ。

また、一般市民にまで及ぶ攻撃が何の躊躇もなく行われる戦況の中で、国の勝利のために必要とされる自爆攻撃が計画され、それに志願せざるをえず、その上、喜んで突入すると遺書に記さなければならない集団の状況がどれほど「飛行機テロ」と異なるものなのかは簡単には言えないことにも注意する必要がある。この点では、武田が見落としていることがおそらく最低でもふたつはある。

ひとつは、テロが本当に狂信に基づくものかどうかは、それほど自明ではないという点だ。無差別テロを行う集団の側に特攻と同様の必死な思いがなかったのかは外から見ていても単純にはわからない。たとえば、啄木の『ココアの一匙』を思い出そう。

われは知る、テロリストの

かなしき心を――

言葉とおこなひとを分ちがたき

ただひとつの心を、

奪はれたる言葉のかはりに

おこなひをもて語らむとする心を、

われとわがからだを敵に擲げつくる心を――

しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。

啄木のこの詩を最初に読んだのは中学一年生だったから、テロを分かるという啄木にずいぶん驚いたものだ。しかし、ここで啄木はテロの本質をよく理解していると今では思う。自分の主張を言葉で表現するかわりに行動で示さざるを得ないテロリストの追いつめられ方がよく表現されていると思う。テロリストは、対抗する言葉を封じられるかあるいはそれに絶望して相手方との交渉を攻撃に切り替えざるを得ないところに追い込まれることで生まれる。過激だからテロリストになるのではなく、過激な言葉にならざるをえない主張の水準で言葉を抑圧することでエネルギーが直接行動に反転することでテロの芽が生まれるのだ。強い抑圧がないところにテロは起こらない。殉教的精神は本当は関係ない。自爆テロであるかどうかは、戦術的な問題であり、軍やテロ組織がそれを強いることを許容する宗教的、文化的背景があれば起こりえることに過ぎないと僕なら考える。また、「自由」ないし「自由社会」を守るための戦争が宗教と無関係かどうかも本当はきわめて怪しいと考えるべきだ。チョムスキーは、もっとあっさりとアメリカはテロ国家だと言い切っているが、アメリカは抑圧からではなく、「自由」を強いるためにより小さい国や集団を暴力的に支配する。それをテロだというなら、国家の本質はテロだと言ってもいいし、国家間の戦争はテロの応酬だということになるだろう。たとえば、アメリカとNATOの攻撃対象は、東欧の共産主義国家の崩壊後イスラム国家に対するものに変化してきている。アフリカをのぞけば、ほとんどの戦争は、イスラム圏と西欧圏の闘争の色彩を帯びていると言ったら極端かもしれないが、国家同士の戦争というよりも内線を通じて宗教的な背景を異にする民族間が闘争を繰り返しているというように見えてならない。もっといえば、僕は、共産主義国家に対する冷戦も、宗教戦争だったと考えている。共産主義同様、自由主義が宗教であると言っても本当はかまわないのではないかと思っているくらいだ。そうではないのだとしたら、なぜその抽象的な「国家」を守るために兵士たちは喜んで生命を投げ出すのか。信じているものに殉じる構図があれば、なんらかの宗教的な基盤がなければならないし、その構図の必死さ、逃げられなさが同じなら、自由のために危険きわまりない作戦を遂行するアメリカ軍と自爆テロを遂行する人々とがどれだけ異なることをしていると言えるのか極めて怪しいと考えるべきだ。そんなに何もかも宗教といわなくてもよいではないかという批判があるなら、信念とか信条とか言葉をかえてもかまわない(本当は、国家と宗教の関係はもっと丁寧に言うべきなのだろうがそれはまた別問題として)。いずれにせよ、特攻のような生命を投げ出す行為がある場合には、多かれ少なかれそうした宗教的なしばりにもとづく精神的な背景と無縁ではないことをよく理解しておく必要があると思う。所属・帰属している集団からの暗黙の強い要請が無い限り、個人は決して自ら生命を捨てないだろうからである。

たとえば、映画、『アルマゲドン』でエイリアンである敵の母船に突入していく主人公は特攻の麗しい昇華されたイメージだとみなせる。そこから翻って、人類を救うために自爆することと、自国の人々を救うために敵の母船に自爆することとどれほど異なるかを考えれば特攻の本当の意味はすぐわかるはずだ。これは、武田が見落としている二つ目の点だ。特攻は、本当は、実行する個人の問題ではなく、それを生み出した集団の問題なのだ。テロを行う人々が、神の名を唱えて万歳を叫びながら喜んで死んでも、特攻で家族の名前を呼びながら死んでも、窮地に追い込まれた部隊が全滅覚悟で突入しても、本当は同じことで、その間に大きな差は無いと考えるべきだ。『アルマゲドン』型の特攻は、太陽に突入する鉄腕アトム、火山に向かうグスコーブドリ、映画、『日本沈没』で深海艇に乗り込む草薙剛、など物語の世界では少なくないし、たいていは美しい人間の犠牲的精神とその悲しさを描くものとなっている。それらは、個人が死ぬことで集団を死地から蘇らせる構造において同型である。そこには、本当は、集団が生きながらえるために個人を犠牲にすることに躊躇ないある巨大な意思があるのであり、神風という言葉が象徴的に示すように、神に対する供犠にも似た犠牲的な精神構造が存在しているのであり、個人の内面で特攻を語ろうとする限り、すべての自己犠牲のストーリーと同じ美談にしかならないことに、武田も、実は武田であるところの著者も思い至っていない。この欠陥がある限り、どんな特攻の物語もありきたりの美談にしかならないことは前述のとおりである。たとえ宮沢賢治でも、それを賛美する立場に僕はいない。

個人の信条や信念の次元、あるいは、家族を守るという次元、愛する者のためという次元では戦争は始まらないし、できない。特攻も殉教的な攻撃も起こらない。それらは個人が本当はやりたくない戦闘に参加するために自分を納得させる言葉としてあることを忘れてはならない。戦争はそれらとは全然別の次元で起きる。戦争がいったん起こって、動き出したら、それは個人の思想判断の次元とも倫理や生き方とかの次元とも異なる次元の論理で個人の行動を律することを求め始める。集団への過激な帰属と一体化の要請、思想の共有、家族からの独立、秘匿の禁止、感情の抑制、規律の遵守、等々。それは、洗脳とは関係ない。洗脳は、それら集団が求める従順さを個人の欲望の軸に合わせる技術であり、宗教組織は用いても、軍隊組織のやり方とは一般的には無関係だからだ。武田が怒るのは当然だ。軍隊は、人を従わせるために、暴力を用いる。鉄拳制裁のような暴力もあるわけだが、より本質的には、やらなければやられるという敵との関係性そのものを用いるのだ。暴力に基づく均衡関係に放り込まれることで、丁度、奔流の中では流れに合わせて動くほか無いように人は暴力の行使のために生き始める。それは、個人の意志とも洗脳とも無関係で、ただ集団としての人の動きと個人としての人の動きとは次元が違うということだけからくる現象だ。奔流がやめば(すなわち戦争が終われば)この緊張関係から解かれて、人は集団の次元から抜け出て個人として生きだすことができるようになる。平時の社会生活では、こうした集団と個人との場面は交互にやってくるが、軍隊組織では常時、集団としての生活のみが許容されるわけで、それを洗脳と読みとったり、その結果の行動をテロと断じたりすれば、それは怒るよ、ということになる。このあたりの特攻隊員たちの無念さは、本作ではよく汲み取られている。全部とは言わないまでも、そこに対して著者は最大限の敬意を払おうとしている。そこまで理解しているのに残念であるというのが本書に関する感想のすべてだといえるだろうか。重みをかける場所はそこじゃないんだけどなという気がしばしばして仕方なかった。現実に戦争体験した作家の作品と比較してどこか軽さを感ずるのはそのたあたりなのではないかと僕は思う。

さて、もうひとつ、本書で「生に」主張されていることをあげておこう。それは、日本帝国の軍隊にあった士官制度と官僚主義に対する批判である。実戦経験乏しいままに、勉強ができることだけで士官としてはじめから戦地に赴く軍人が戦局を苦境にもたらしていったひとつの原因であることが主人公の姉を通じて語られている。あるいは、戦地においても出世のための評価を気にしながら戦う軍人の情けない姿についても半信半疑ながら言及されている。この指摘は、戦争史の研究から様々な形であきらかにされていることと思うが、日本の国がそうした多数のだめな船頭に導かれて責任者不在のもと敗戦まで連れて行かれたのは、日本の官公庁のキャリア制度がもたらしている問題と同じ構造であり、日本の大組織の腐敗構造の根にある問題である。この問題に関連する物語が本書で主たる軸として展開されているわけではなく、兵士の死の無駄にされ方に対する著者の視点を支えるひとつの状況証拠となっているだけなのだが、日本軍のだめな所も特攻のだめなところも十分理解された上で当時の軍隊に対する批判が貫かれているということは言えるように思う。物語全体としては、特攻の当事者の内面の真実を描くというよりも、日本軍の狂気の原因やその現象に対する冷静な認識を下敷きに、特攻に追い込まれていったいちばん「死にたくなかった」兵士が特攻で突入してくまでの物語を作りあげた形になっている。もしかするとそうした官僚主義的な軍隊の腐敗の結果を明確にすることにも著者のもうひとつの狙いがあったのではないかという気がしないでもない。冒頭で、現代の空気と合っていたのではないかというのは、このことだ。犠牲になるのは、現代も戦争中も一番若い学校出たての若者である。戦争中は、しかも学徒出陣でかり出された兵士たちが優先的に特攻に向かわされたわけだ。『進撃の巨人』が、現代の日本で、まるで食い物にされている若者のつましくかなしい反撃の物語に見えるのと同様、「馬鹿な」上司に理不尽な理由と給与でこき使われなければならない、あるいは、その場にいるためにすら多大な努力と犠牲を要する若い世代には、本書は実は極めて現代的な物語として響くのではないかということだ。その理不尽な組織に属していた、あるいはまだ属している「士官」クラスのおじさんたちにも。

単純な戦争賛美でもないし、戦地の状況、国の状況もよくおさえられているし、特攻のような特殊状況における兵士の心理にも迫真性があり、あわせて、ミリタリー好きも満足させる零戦に関する記述。オンライン・ゲーム、艦隊コレクションのブームなどとも合わせて考えると、現在における「右傾化」の本質はよく浮かび上がるのではないかという気がする。そこには、だめな官僚に守られただめな国を脱して、強い組織で作り直した強い国への渇望のようなものが漂っているのだ。安倍首相の人気もその前の民主党への期待も根は一つではないかと思う。本作が保守系の政党支持者から強く支持される所以である。半面の真理しかない。しかし、それを知らない者は本作に感動するだろう。やっと日本はそこまできた。その程度の成熟度だと考えると、本作がベストセラーとなる意味も分かる気がするのだ。 (平成26年2月8日 加筆)

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『永遠の0』 映画の方

お正月休みに、実は映画も見た。

不覚にも涙ぐんでしまうシーンもあったのだが、泣くのはこちら側の理由で感情を重ねて見てしまうところがどうしてもあるからで、だからといってこの作品をほめたいわけでもない。泣かせる技に長けてる分だけ始末が悪いということもあったりする。

シナリオは、日本の戦争映画の定石、「戦争犠牲者の内面の悲劇を描く」をやっている。何がだめなのかといえば、そこが徹底的にだめだ。周囲と軋轢を起こしても愛するもののために死なないように戦うという設定は原作と同様だが、主人公はどうしようもない流れにおしつぶされていく名もなき人々の代表例のように描かれてしまっている。あるいは、当時の軍部の愚かさを否定的に描きながらも、結果として特攻で死んでいった登場人物たちの死が無駄死にではなかったという方向に絶えず物語が傾いていく。おそらくは、それらの死が本当は戦闘においては全くの無駄死にであったからこそ、むしろ個々の兵士の内面の価値を強化することで戦いそのものの意義を支えざるをえないのだ。兵士個人の視線から出ずにその死の尊さを讃え、兵士の内的動機の側から戦う理由を支えることで、結果としてその人々が守ろうとした国家、特攻という愚行を生んだ国家の犯罪から目をそらし続けるようにして物語は進む。あの戦争のだめだったところを一面でとらえながら、結局のところ、映画は現代日本の映像に戻り、この豊かな発展した国家を守る意味を訴えるという構図に陥って、防衛省協賛映画になって終わる。終盤で、現代の町並みにいる宮部の孫の上を特攻機にのった宮部が通り過ぎるシーンはまるで自衛隊の宣伝ビデオで、そのやり口のおぞましさに気分が悪くなる。

小説で特攻隊の生き残りのビジネスマンと新聞記者が言い合うシーンは、宮部の孫の青年が友人たちと特攻について異なる意見を吐いて奇異な目でみられ合コン中のレストランを立ち去るというシナリオに置き換えられている。原作にあった無理矢理な感じは解消されて、自然な形で映像化されていると思うが、特攻はテロであるという考えは軽薄な青年たちの言動とともに徹底して否定にされる。この時代に、特攻が国家による個人に対するテロだと考えるならともかく、この国家意識はいったいなんなのだと感じざるを得ないのだ。

VFXを駆使した空中戦は、ほめていいのかけなしていいのか僕はわからない。監督は、実写版の『宇宙戦艦ヤマト』を作った人で、あの作品は、VFXを作った残りでセットを作って演出をしているようなひどい映画だったけど、この映画はそんなことはなかった。セットも道具類も丹念に作り込まれていて、それなりのリアリティを保っている。零戦も空母のデッキもよくできていたと思う。空中戦も迫力がある。ストーリーはともかく、監督がやりたかったのはそっちの方なのではないか。VFXで太平洋戦争を描きたい監督の希望と、国を守る軍人の魂の潔さみたいなものを描きたい制作側の意図が合致して何とも気持ち悪い融合をもたらしたのではと邪推したくなるほど、VFXには力が入っている。この共犯関係は今の日本を象徴していると思うのだが、それについてはいずれまた。

ここには、たとえば海行かばを大声で歌って軍国主義を賛美する右翼の宣伝カーのようなあからさまな描写があるわけではない。役者の演技も丁寧に撮られていて、ドラマもある。国民的な支持を得るという目標ははじめから設定されていたと思う。いろんな企業が共同で作っているから、失敗できないというところもあっただろうし、防衛省だの内閣府だのが手伝って、文科省もおしたりしているので、過激な主張はあまりなくて、しみじみと戦争はよくないものだという感想とそれでもその時がきたら人は(まじめに生きているほど)精一杯戦わざるを得なくなるのだという事実に気づかされるように仕立てられている。この安全そうな見せかけは現代の穏やかな右傾化と本当によく整合する。

戦争について言うならば、問題はむしろその手前にある。あるいは、そこから向こうにある。なぜ、人々がやむを得ず戦いに赴くのか。なぜ、まじめな人々が愚行を繰り広げることがあるのか。そもそも、戦争を指揮していた連中は何をしたことになるのか。その大事な点になると、宮部が個人的な葛藤に苦悩しながら人々の注目をそらし、大事な論点をずらして人々の目を外に向けさせるのを拒むのだ。これは、結局のところ、注意深く作られた零戦礼賛と軍人礼賛映画じゃないかと言ったら怒られちゃうのだろうか。軍人だって人の子だし、戦争といったって、それはいろいろ戦争があるわけだけど、特攻隊員の生を肯定することで、間接的に特攻を擁護して、戦争のマイナス面を覆い隠すような作用をもった単純な映画であることは隠しようも無いと僕は思う。原作はまだ日本軍に対して厳しい表現がなされているけど、映画はそうでもない。上官の愚は表現されても、ひとりひとりの隊員はせいいっぱい生きたというところに結局行き着いてしまう。涙ぐんどいて言えた義理ではないけど、今こういう形で本作を映画化するのはかなりあざとい。

先日、首相の靖国参拝に関連して、靖国神社の遊就館がとてつもない歴史修正主義のたまものの展示であふれているといった指摘がアメリカで出たという記事が出ていたけど、ぼくはその新しくなった遊就館にもそれほどひどい印象は抱かなかった。軍国主義グッズの集大成みたいなお土産コーナーは別として、馬鹿爆弾「桜花」が展示されてたり、兵器の一部が展示されていたり、軍人の書だの軍服だのが展示されているところは、世界中どこの戦争記念館でも同じだろう。むしろそれらを見終えて感じたのは、戦争から受けた被害、犠牲、徒労といったことに対するどうしようもない悔恨である。もし、遊就館が修正主義だというなら、それはその悔恨が家なる悔恨であって、どのような意味でも侵略についての記録ではない点にあるんだろう。それは必ずしも戦争否定ですらないのだから。そうした側面は『永遠の0』にも明確にあって、僕があざというというのは、日本が敗戦国として被った精神的なダメージからの回復を心の底で願い、独立国として普通の姿を取り戻したいという静かな自意識の芽生えのようなものが充満しているこの時代に死なないための戦争像を提示するしたたかさなのだ。おそらくは現代的な真の軍人像として描かれている死なずに妻のもとに帰りたい戦争犠牲者宮部が決意して改めて特攻に向かい誰よりも敵艦に肉薄し敵を震え上がらせて自爆するシーンをクライマックスで描くこの最期のシーン、まなじり決して米国の空母に突入していく宮部機にはある種胸のすくような疾走感が漂う。それは、大リーグとの親善試合で1点に押さえた沢村栄治に抱くような思いに近い。僕のような徹底的に国家が嫌いな人間ですら、日本人がこのように米国人が驚くような反撃をする姿に心動かされないでもないのだから。また、そうした自分の心の動きを怪しみ嫌悪しながらも、それを否定したら自分の立っている場所は本当は危うくなるのではないかという微かな疑問を感じたりもするのだ。かつて江藤淳さんが、ナショナリティを喪失した日本人が国際社会で身の置き所が無い思いをすることを述べて、国家の自立の重要性を説いていたのを思い出す。このなんともいえない帰属意識は根が深くそうそう簡単に断ち切れるものではないのだ。

主役の岡田准一さんもかっこいいし、演技に文句もないのだけど、役者としての頭のよさからか、原作が求める本質よりは映画が観客に見せたがっている演技をしてしまっている。役者に罪はなくとも、本作の与える印象の肯定感は主役の岡田さんからも強烈にもたらされていることは間違いない。妻役の井上真央さんの演技は知らぬ間に立派な女優さんになったのだなと思うくらいよかったのだけど、宮部が自分の分身として教え子の兵士を生き残らせ、妻のもとに向かわせ、どんなことがあっても、たとえ死んでも戻ってくると誓った宮部がそのようにして帰ってきたのだと気づき感動するところは、多くの人は違和感を持つのではないかと思う。原作者の思いは僕には分からないけど、そこに泣かなければ、この映画に感動するところのほとんどはは戦場にいくかもしれない男たちのためのものだと思う。つまり、古くからの男女の役割分担に対する肯定を通じて、この映画はもうひとつのあざとい刷り込み、男は外で戦い、女は家を守る、をやりとげる。戦争中の話だからという言い訳はあるだろうけど、端的に言えば、男は命じられたら四の五の言わずに戦地に赴き大事な家族を守るために戦え。女は家にのこって、主人の留守を守れ。と、身もふたもないメッセージが根底にあるのは疑いようもない。多分そうではないというんだろうが、その無意識が国を滅ぼす。重要なのは国家ではない。それを悟らなければ、国家は延命できない時代はもう始まっている。

太平洋戦争中の風景の再現、戦闘機や空母の再現、戦闘シーン、井上真央さんの演技など見るべきものもある。しかし、全体としてどうかと言われれば、これを評価するために今まで生きてきた訳ではないわいと言うほかない。井筒監督が、見た記憶を無くしたいとこの映画をこきおろしていたが、そこまでは言わない。だが、ひとまず、これは労作であるとしても、僕とはどちらにしても関係のない人々の作り上げた労作だというくらいは言っておきたい。残念ながら自分の記憶には長いこと残る作品になってしまった。それだけあれこれ考えさせられたからだけども。単に。サザンオールスターズにもがっかりしたよ。正直ね。 (2014年2月3日、8日 加筆)

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