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2014年2月23日 (日)

浅田真央さんのフリースケーティング - ソチ五輪

多くの人が、ソチ・オリンピックの浅田真央さんのフリースケーティングに涙を流したことと思う。我ながら50過ぎて、夜中にスケートを見て涙を流すとは思わなかった。ロシアの選手やキムヨナ選手の滑りから、美しさや流麗さ、テクニックを感じても、ここまで魂を揺さぶられる思いはしなかった。

これはなんなのだろう。翌日になっても繰り返し録画を見ては(見させられては)、ネットに答えを探し、知ったのは、浅田選手の滑ったこのプログラムは、他の女性スケーターには到底まねの出来ないものだったということだ。事実上、このプログラムを再現できるのは世界で浅田さん一人なのだそうだ。であるにも関わらず、得点としては、それほどあがらないようになっているのは、任意性のまさる採点システムのためだ。また、浅田選手が誰よりも練習する努力家であるとか、誰のことも悪し様に言うことがなくつねに人のことを気にかける人柄であるとか、人となりにまつわる多様なエピソードが出てくるのだが、そうした人間性について無知であってもこの滑りから伝わるただならぬ雰囲気は看取できたのではないかと思う。なんとなくだが、浅田選手がやりとげたのは、ちょっと次元の違うことだということを感じるのだが、それがどのように優れているのかはなかなか分からなかった。

ネットの中をうろつく中で、勝ち負けなんてどうだっていい、メダルなどもはやオプションだという趣旨の意見を何度か見た。僕もそう思った一人だ。もちろん、無関係者ながら、金をとらせてあげたいと思っていたわけだし、期待しながら見ていたのは確かなのだが、何と言うか、浅田さん自身はそのこだわりをとうに振り切っているように強く感じられた。もちろん、専門家としてあの状況でメダル獲得がほぼありえないことは理解できていただろうから、頭を切り替えて異なる目標達成に集中したということなのかもしれない。しかし、長く、浅田選手のスケーティングを楽しみに見てきたのは、いつかオリンピックで金メダルを獲得するというテーマ、文脈にそってであることは否めないし、本人もそのストーリーに忠実に演技してきたはずだとは言えるのではないか。前日のショート・プログラムでそうした応援者の身勝手かもしれない期待は弾け飛んでしまったが、浅田選手自身が、その弾け飛ぶ期待とともに自身の目標を失ってもおかしくないところで、むしろ本来の自分を取り戻しバンクーバー以降のもやもやしたものを吹き払ってしまったように思うのだ。そして、実際に、浅田選手は、これまでにない鬼気迫る演技で、すべてのジャンプをほぼ完全にこなしてみせた。

演技のあとのインタビューでは、浅田さんは、しきりに応援してくれた人への恩返しというようなことを言った。応援している方からみると、勝手な期待と重圧をかけただけで、どのような恩も感じてもらういわれがないと思うから、これは違和感があって仕方なかった。日本的な奥ゆかしさなのか、気遣いなのか分からないが、スケート界であれ、実業界や政府であれ、メダル候補者への期待のかけ方はまったく一緒で、みんな勝手な期待をかけて、勝手に浅田さんのイメージにあやかり、むしろ自分たちの利益に利用してきたのは周囲の方だといっても間違いではあるまい。もちん、スポンサーから金も出るしサポートもあるだろうけど、だいたいは計算づくだ。

採点基準にまつる曖昧さについていろいろ指摘されていることは、おそらく間違いないだろう。基礎点だけなら浅田選手がフリースケーティングで一位だった採点結果を知ると、その採点システムこそが、浅田選手が金メダルを獲得するのを拒んできた張本人であるという気がしてくる。実際、浅田選手にとってはあらかじめ得点が伸びないように考慮された採点システムであるような説明すらなされている記事をみかけるし、いずれもそれなりの説得力がある。他のスポーツでも、日本の選手が得意な競技や種目で、国際大会で日本が勝利を続けている場合、ルールが日本に不利に変更されるという話はしばしば耳にする。これを陰謀だとか買収だとか言う人もいるけど、技術分野での標準化委員会や経済分野での国際会議などでも同じで、要するにそうした国際的な駆け引きの場での日本の発言力や交渉力の弱さが原因だろう。語学力、外交力、コミュニケーション能力、交渉力などを欠いた人材がそうした場に出て行っている場合は、日本有利なルールを守りようも無い。浅田選手も、そうした度重なるルール変更の影響で苦労してきたことはテレビ報道などでも知らなくはなかったが、実際、ルール変更の頻度や内容を知ると、日本のスケート連盟はいったい何をしていたんだと言いたくなるくらい、浅田選手に不利な内容となっていて、ちょっと驚くのである。もちろん、僕が読んだ記事に書かれていたことが、ほんとうにそのとおりかどうかは分からないが、テレビ観戦していて感じる限り、たとえばキムヨナ選手のフリープログラムが浅田選手よりも高得点であるのはちょっと理解しがたい。キムヨナ選手の滑りも、なんというか安定した美しさのようなものがあって決してレベルが低いわけではないのだろうけど、スケートの技として見れば、ごく無難な技しか繰り出していないような印象がどうしても残る。それでも差がつくのは、インプレションからの上積みと構成点だそうだが、そこがまさしく採点上のグレーエリアで、これについては素人は何も言えない訳だが、納得がいく理解ができないことだけはもう事実だとしか言いようが無い。

そのグレーな領域について考えをめぐらしている時に思い至ったのは、それらのグレーゾーンを越える演技を提供することで、採点システムのあいまいさ自体を乗り越えようとした浅田選手の強い意志なのだ。浅田真央さんは、そんなグレー領域の一点二点のやりとりを考えて演技を構成するのではなくて、誰にも出来ない演技に正面から取り組み、それを乗り越えることで自分自身のスケートに新しい次元を開くことを選択したのだと。これが、グレーな採点システムに対する魂のこもった根底からの否定、無言の抗議(当人は露程もそんなことを思ってないでしょうが)でなくてなんだろう。ゴッホは、最期の手紙で、画家は結局のところ絵に語らせることしかできないのだ、とテオに書き送っている。浅田選手は、自らのスケーティングで、フィギュア・スケートの不確かな採点システムや気まぐれなジャッジたちを無言の内に否定し、真のスケーターの歩むべき道を昂然と指し示したのではなかったろうか。あの演技を見た直後に、もうメダルなんかどうだっていいと多くの人が感じたのは、きっとそういうことだったんだろうと僕は思う。

エキシビション後のインタビューで、ソチ五輪の印象を聞かれた浅田さんは、「バンクーバーもあわせて」最高の五輪だった、といったことを答えていたように思う。それはもう終わったことだ。彼女は少なくともそう考えている。もうオリンピックに彼女が戻ってくることは無いだろうと思う(戻ってきてほしいですけどね)。それだけの覚悟であの場に立ったことがよく分かるインタビューだった。

僕たちが、世界最高の競技者と同時代に同じ国に生きていることを本当に幸いに思う。最終グループの選手たちの演技もすばらしかったが、浅田選手の演技は、それらと異なる次元で輝いている。浅田真央さんは、たとえ審判の採点に不満でも、言葉に出して誰かを非難したり否定したり決してしないだろう。多分、心の中ですらそんなことはあまり思わないのではないか。だからこそ、彼女の演技の前では、すべてのスケート関係者はひれ伏さなければならなくなる。その滑りは、本質のみを示し、すべての雑音を消し去るとても大きな力をもっているからだ。おそらくは、無我夢中でやってきた結果なのだろう。その結果、その光があまりにもまばゆいので、スケートとはほとんど何も関係ないわれわれなんかも涙を流してしまうというわけだ。『はじめの一歩』ではないが、久しぶりにいいものをみせてもらった。また明日から仕事がんばろってな感じで。

浅田さんありがとう。世界選手権も楽しみだ。 (2/27/2014 加筆)

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