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2013年9月の記事

2013年9月 4日 (水)

物理学者の意見とは

当ブログへのアクセス記録を見ていて、ある匿名Blogサイトのリンクからいくつか飛んで来ているものがあるのを見つけた。そのサイトの方は、僕の原発関連の過去の記事にリンクをはって、よく整理されていると紹介してくれている。誰だか分からないが、いちおう感謝したい。Blog氏は、続けて、これらの物理学者の主張を読んでも新鮮味はないと言って、要するに彼らの主張は左翼がかっていたので浸透せず、多くは概ねたこつぼ研究者となり一部の例外だけが大学の隅っこで権力にたてついてきた、一部の文系左翼は社会に不満をもったまま現代の指導層に組み込まれて権力の手先となった、と震災後そうしたことが自分には明らかとなったが大多数の研究者にはそれがまだ見えていないと、まとめるとだいたいそのようなことを書かれている。

すべての研究者は、というほど今の大学の研究者の実態を知らないのだけど、東大の先生方を初めとする学者たちの一種の無抵抗主義と政府見解へのナイーブな関与の仕方を見ていて、この人たちほんとにだめだなと思った人は多いだろうと思う。とはいえ、僕自身できない大学生をやっていた頃から理系の学者さんのたこつぼ化は見りゃわかる状態だったから、この意見には少し驚いたりする。あれ、今気づいたの?というように。この点は、単によく分からない。大学行った人は、みんな大学でたこつぼ的な無関心の共同体を嫌悪するという通過儀礼を経て社会に出たりしているのではなかったんだろうか。

それはともかく、坂田さんや武谷さんのようなマルクス主義的な唯物論のながれにいた学者は別にしても、朝永さんなんかも含めて原発導入の頃に議論の中心にいた学者の意見は左翼がかっていたので浸透しなかったのではなくて、はなから政治家には馬鹿にされて国の行政の中ではほとんど顧みられなかっただけのことだと思う。意見を出す側はそれ以上どうしようもなかったろうし、学者のポジションを求める人間などは掃いてすてるほどいるわけだから、予算と地位が用意されていれば研究しようかという学者は必ず出てくる。もっといえば、国から予算とポシションをとってこない学者に人望が集まらずに少数化するのもさして不思議なことではない。学者、特に国公立の学者は結局のところ税金のおこぼれで食わせてもらっている存在に過ぎない面が我が国では少なからずあるからだ。直接的に利益をもたらさない純粋科学ならなおさらだ。一家の大黒柱がなぜ居候の意見など聞かねばならないか?

それ以前に、そもそも、これらの物理学者の意見はそれほど左翼的ではない。古色蒼然とした人道主義的ではある。というよりも、アメリカの核についての覇権主義を批判したら左翼だというのもどうなのか?その発想は御用学者と同じじゃないのか?という自問は必要だろうよとは思う。

僕が、これらの学者さんの当時の主張に注目してきたのはもちろん意図がある。多くの人がいっせいに原発について考え始めた状況で、あまり誰もやっていない出発点における議論を誰もが参照できるようにしておいたら意味があるだろうという考えも幾分かはあった。引用が少々過剰なのはそのためだ。実際、原発事故問題のなかで語られていた論点の多くは死の灰以降のあらゆる議論をなぞっている。おそらく丹念に整理すればネットに転がる原発言論の90%は既に一度は議論されているものではないかと思うくらいだった。意見の出方、議論の発散の仕方、みんないつか来た道に過ぎなかったりする。その終着点も。それらはどれだけ強い批判であったとしても行政実務の世界とは乖離している部分があって、奉られたとしても精神として根付くことがない。これは国の諮問や審議会のあり方と同型であって、学術会議も原子力委員会も例外ではなかったということだろう。学者がなんと言おうが、政治がやると言ったらやるのである。多くの学者がそうしたものに近づかず、一部の出たがりや過信型の自己主張が強いタイプが知らず御用学者として取り込まれて行く。

原子力導入期の議論を読みながら検討してきたのは、学者や有識者の総意などではなくて、一部の都合のよい意見の集約で国の方針が決まり、一度決まれば、多くは黙って決定事項に従うか背を向けるだけというようにして国家レベルのプログラムが開始され、異なる意見を言っていたほとんど全ての人々が沈黙を余儀なくされていく状況自体についてだ。それは、そうした官主導の大規模国家プジェクトの実行可能性こそが原発について問われなければならない本質だからである。原子力発電自体の危険性が技術的に乗り越えられるのかという課題もあるだろうけど、それがもつ技術的な制約は元々明白であって、それをきちんと把握しながらどのように国の実行プランを作ってきたのかが本当は問題なのだ。それがいい加減な政策的なバイアスで本質的な課題を先送りにしながらごまかしごまかし進められて来たものであることはほぼ明らかだ。現時点においてなお、政府や東電の発表はしばしば戦争中の大本営発表になぞらえられているけど、原発事故は、ほとんど太平洋戦争の敗戦と同じ課題を持っている。原発事故問題もまた第n番目の敗戦であって、他の身動きがとれなくなっている社会問題の数々と同じく一度走り出したら止まれない我が国の政策立案者とその同伴者の末路を典型的に示しているからだ。

残念ながら、この国は間違った選択をして、嬉々として地獄へ向けて走って行く人々をうまく止められないという致命的な弱点を抱えているようなのだ。いつか豊田さんの原発本を批判した時に書いたように、原発関連の部品を輸出するのならまだ分かるが、政府主導でやってきたプロジェクトごと輸出するのならやめた方がいい。それは一度無惨に破綻の姿を示したし、その後、その欠陥について何の検証も国としての総括も行えていない技術領域にあるからだ。一度走り出したプロジェクトは大規模であるほど止めにくい。これは洋の東西を問わない。人間の本質に根ざした部分があるからだと思う。しかし、西欧ではしかるべきときに失敗したプロジェクトという烙印を押す奴が必ず出て来る(それが直ちに良いことだとは言わないが)。我が国ではどうだろうか。言うまでもなく、福島事故の責任は問わずという国なのだ。責任は、天災におしつけて。あるいは、担当者におしつけて。また、あるいは、国民に押し付けて。

そのような国を許容しているのは国民である。押し付けられた責任にたいして怒る人は少数派で、再び、その原因を作った政党が支持される。そのような事態に対して、民度という訳のわからない言葉を使う人間をぼくは信じないが、たとえば、批判ひとつをとってもそうした訳の分からない言葉で済ましてしまうことを常習化して本質的な議論を避け続けた挙げ句の果てが福島だと思えばだいたい合っているのではないか?東大の先生方の活動は立派だと思う面ももちろんあるのだけど、本質から目をそらして沈黙していることにおいては全く同じだし、そのことで国を許容しているという意味では、自民党の復権を許した国民と同じ罪を背負っていると言わねばならないと思う。

で、もちろんこういう言葉は必ず自分に返ってくる。大きな声で批判を口にして自ら傷ついていないものを僕は信用しない。もう言いたいことを言っていれば済んだ時代は終わってしまった。「評論家」や「ジャーナリスト」の時代も終わった。何らかの形で当事者にならずに意見を言える時代はもう永久に去ってしまった。

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