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2013年5月の記事

2013年5月12日 (日)

『Research & Design Method Index -リサーチデザイン、新・100の法則』 Bella Martin (著), Bruce Hanington (著), 小野 健太 (監修), 郷司 陽子 (翻訳)

リサーチとデザインに関する手法のカタログである。知っているのもあれば、これに名前をつけるのかというのもあったり、こんなやり方があるのかと思ったり。値段が少し高いけど、仕事に行き詰まった時に打開策のヒントくらい得られるかもしれない。システム開発でも企画や設計局面で応用が聞く手法が多数ある。それこそ、KJ法みたいなのもちゃんと入っている。たとえば次のようなもの。

  • 行動マッピング
  • オートメーテッド・リモート・サーチ
  • ボディ・ストーミング
  • ビジネスオリガミ
  • カードソーティング
  • ケーススタディ
  • 認知地図
  • 認知的ウォークスルー
  • 概念地図
  • コンテクスチャル・デザイン
  • カスタマー・エクスペリエンス調査
  • デザイラビリティ・テスト
  • エルゴノミクス・アナリシス
  • エビデンス・ベースト・デザイン
  • アイトラッキング
  • フオーカス・グループ
  • グラフィティ・ウォール
  • ヒューリスティック評価
  • KJ法
  • 狩野分析法
  • KPI
  • メンタル・モデル・ダイアグラム
  • マインドマップ
まだまだいっぱい。ひとつの手法につき見開き2ページ、左側に解説、右側に図解となっていて大変見やすい。コンサル、マーケティング、リサーチ、企画・開発、等々。効率重視というだけではなく、科学的な手法に裏付けられた知的生産技術みたいなものの適用や方法論を意識した仕事はどんな分野でも今後ますます重視されるだろうけど、それは試行錯誤をできるかぎり最小化して余暇を増やすためでもある。それぞれ、このスペースでは食い足りない所もあるだろうけど、必要なら探せば文献はいろいろとある。若手もベテランも、仕事の計画をする際に使えるツールボックスだと僕は思いました。眺めているだけで楽しい。ちょっと高いけど。

なお、『Mac Life』を出していたBNNが倒産してずいぶんたつが、この本は、BNN新社から出ている。復活してたんですね。なんとなく本のつくりがかつての『Mac Life』を思い起こさせる。まずはよかった。

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『眼の海』辺見庸



その辺見さんの震災後に出た詩集である。作品の執筆時期も震災以降、2011年の5月から10月に限られている。

この作品をどのように言えばよいのか、この間感想を書いた『死と滅亡のパンセ』と対でどうしても考えてしまうのだが、全体を通じて感じたのはたとえばこんなことだ。

  1. 東北の海で多くの死者というよりも死体が顧みられることもなく朽ちていくことについての強い絶望的なイメージがある。著者は、何度も海に帰って行き骨やら内蔵やらと対話して納得いく答えを探そうとあがくのだが、見つからない。
  2. 失われてしまったものがきれいに消えたのではなく、汚辱にまみれてそこに存在し、自分はそれを黙って見ているという強いイメージがある。抜け出したいのだが、眼をそらすことができない。言語化したいのだが、与えることのできる言葉はない。しかし、沈黙することも許可されていない。
  3. 墓が根こそぎ海に持ち去られ、根拠としてきた過去も同時に海に持ち去られた。海に浮遊する骨が恨み言を言っているような観念が絶えず去来し、なんとかしてやらなければならないのに、手をこまねいている。詩人の過去に対するイメージをひとつずつ点検して現在からみたそれらの変質してしまった未来をせめて詩の中で開拓しようともがいている。

これは、挽歌であり、後悔であり、抗議であり、絶望であり、諦めであり、出口なしであり、原民喜の『夏の花』のようなドキュメンタリーでもある。実際に死体と瓦礫で混濁した海辺に筆者が出かけたのかどうかは分からない。しかし、詩人としての辺見さんは、そのことについての強烈な当事者意識に苛まれているのだ。

すでにゲル状になった数枚の影。
どうにもならないのだ。
ああ、月の薄片。
わたしはすべてを置いて逃げたのだ。
わたしはすべてを残して逃げたのだ。
(「満月」)

逃げ出してここにいる詩人は、失われたものを探さずにはいられない。それは、たとえば、一本の小指だ。

わたしはあなたの左の小指を
さがしている
陶製のように白く細く
気どって反った小指を
さがしている
一本の鉄のトングをたずさえて
瓦礫の原をわたしはすすんでいる
しずしずとすすんでいる
つまみ めくり しげしげとながめる
あふれかえる物体=モノと部位たちは
他のモノと部位たちから ばらけ
なにひとつ整合しないのに
虚勢された貧民らで超満員の大集会場のように
いやに整然とし
焼けた土倉のにおいをはなち
ひとつひとつ 蕭条とたたずんでいる
もう反乱のおそれはない

(「わたしはあなたの左の小指をさがしている」)

さがすのをやめたら
わたしもモノとなって
荒れ野によこたわるほかない
愛などないあなたの左の小指を
愛があると信じこませて
あなたの欠けた左の小指を
ついにかきいだくために
トングたずさえ這いまわる

(「わたしはあなたの左の小指をさがしている」)

詩人は、何度も海辺に引き戻され、骨や骨壺や死体と対面している。おそらくは、現地にも出向かれたのではないだろうか。いや、出向いていなくてもたいした問題ではない。起こった事態がどういうことかは手に取るように分かる。そのイメージは、強烈な終末感とともに黙ってすべてを見ることを詩人に強制する。それを続けるうちに、むしろ見ている自分の眼が、海を生み出す転倒に至りつくほどに。

しずまりかえる 眼のおくの化野
が予言した
まだ見たこともない
地割れがきて
かつてなく聳然たる大波が
またも化野を洗うであろうことを
徹して洗いつくすだろうことを
それでもなお ノアザミが咲くだろうことを
それでもなお 死者たちの肺に
求める ことばは あてがわれないだろうことを
この眼から ふたたび 海がふきでるだろうことを
化野は割られ ただ洗われるだけの 化野であろうことを

(「眼の化野」)

本書は、全体が「眼の海」と題された前半と、「フィズィマリウラ」と題された後半に分かれている。どちらかというと発生した事態に対処することに追われている切迫感に満ちた前半にくらべ、後半はすこし緊張が緩む。弛緩しているわけではなく、緊張の連続から疲労して直接的な感情を抑制した表現から広がりをえていっている感じを受ける。しかし、それは、当初覚えたどうしようもなさに対して何かができる余地をどんどんそぎとられ無力化され怒りに対して立ち上がるすべも忘れさせられた私たちの姿と微妙にかぶる無力感のなかで描かれるより深い絶望とともにあるようだ。

「その中の人、現し心あらむや」 
わたしは裸でかがみ
シャギシャギ シャギシャギ
しきりに爪を噛み爪をそいで
そうやって
とっつきの部屋にかくれ
シャギシャギ シャギシャギ
すべてへの無害をよそおい
すべてへの無抵抗をよそおい
そして
シャギシャギ シャギシャギ
すべてに無害となり
すべてに無抵抗となった

(「とっつきの空き部屋で爪を噛み爪をそいだ」)

その朝、気がついたらば、
ぼくもあなたも、渚の近くのヒトヨタケ。
傘たれて、うつむいた、
しおれて冴えないヒトヨタケ。
恨まない、恨まれないヒトヨタケ。
次から次へとわいてくる、
顔をかくしたヒトヨタケ。
そこいらじゅう、
かれもかのじょもヒトヨタケ。

(「ヒトヨタケ Coprinopsis atramentarius の歌」)

これは、鎮魂ではない。反対だ。死者が、あるいは過去の死者までもが大量にあまりに多くの死者が海にあふれ、死者の魂を鎮めることがないように絶えずわめいてでもいるかのように、著者を脅迫しているのだ。鎮魂?冗談ではないと。

あるのは、死体ですらない。もう、それらはただの骨だ。眺める以外、何ができよう。詩人は、ただ、眼となって己の眼から海がふきでるまで、そこに止まることしか許されない。一個の記録者として徹しようとした『夏の花』の原民喜のように、自らが見るものをただ書き留めることしか、生き延びたものが抱えるどうしようもない虚無をやりすごすすべがなかっただけなのだ。そう、ここにあるのは夥しい虚無だ。死後の世界だし、新約聖書の前、旧約聖書のカオスだし、まだ物事が始まる前へとリセットされていない混沌だし、イザナギとイザナミが日本列島を生み出す前でもある。秩序立てて物事を遂行することはまだ許されていない。ただやってくるものを受け止めるのでもなくやり過ごす以外に方法がない。

この詩集が中原中也賞を受賞した理由は僕にはよく分からない。テクニカルな意味で、詩の善し悪しを論ずる力は僕にはあまりないし、読んでものすごく感銘を受けて確かに後世に残るいい作品だと思ったなんてこともないからだ。ただただ、ここに書かれていることのどうしようもなさの切迫感に黙り込むだけなのだ。他に、何も書けないのでこれを書いているのだという切迫感。しかし、詩にとって、それが詩人にとって避けられないものであるということが、直ちに、それが本物であることを証明するわけではない。小手先で生み出されるもの、「書き方」を試されるようにして書かれるもの、そうした作品が優れた詩たりえることはあるし、たとえば、谷川俊太郎さんの多くの詩は必然性がないところから組み立てられている優れた作品の代表例だ。必然性が終わった所からどうするかは、プロの詩人にとってはむしろ本質であったりもする。その意味では、辺見さんのこの詩集には素人臭さがあるのも事実だと思う。詩法として緩いところがあって退屈したりするところがあるという意味で。でも、前作となる『生首』よりも圧倒的にこちらが優れていると僕は思う。前作は、正直つまらなくて読むのを放棄してしまったがこちらは最後まで読めた。『死と滅亡のパンセ』でも書いたことだが、この後の辺見さんの作品にむしろ注目したいと思う。何となくだが、作品を生み出すのが不可能な場所に自ら赴いているように思えなくもないからだ。作品を生み出すというより、作品を殺すために詩を書いているとしか思えない部分がどうしても残るからだ。なぜ、そのようなテロまがいの感情に辺見さんはつきうごかされているのか。

この詩集は、まだ僕にとっては遠い所にある。遠い所の出来事として眺めざるを得ない地域性というか、空間的な断絶をどうしても感じてしまうのだ。僕たちが詩人のいる場所に入って行くのは容易ではない。むしろ、簡単に理解されたくもないと強く思われているはずだ。孤独とか孤立とかとは違う。孤絶といったほうがいいかもしれない。この詩集は、僕たちが生活している空間とは切り離された場所で編まれている。それは、詩人にとっては根拠であった土地がひっくりかえされた後にあるカオスそのものであって、それを抱え込んだまま震災以降の死を生きている。それがこの詩集だと思う。

大波がその後にきて
おとこもおんなも他の者たちも
みな沖につれさり
解体し
おびただしい
他の屍とともに
ふたたび
盲者と唖者の部位を
陸に戻した
黒い雪がななめにふっていた
盲者と唖者は かつて
あり をり 侍り
他の死とともに 死んだのだが
他の死と かならずしも
おなじではない
なにもかも
美しく統べてはならない
骨から花へ
骨より花に

(「それらの骨のなかにある骨」)

なにもかも美しく統べてはならない。そういう場所に詩人はいた。それから二年、辺見さんはどのような場所にいるだろう。とうとう日本は原発再稼働が当然であるかのように語られ、震災も津波もなかったかのようにそれらについて語ることがうっとうしがられる状況にまで至り始めている。本当は、まだ怒り足りないはずなのに、誰もが怒るのに疲れ始めている。こんな状況がやってくることは重々承知だったはずの辺見さんは、この状況をどう感じているだろうか。

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