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2013年4月の記事

2013年4月28日 (日)

『吉本隆明が最後に遺した三十万字 下巻「吉本隆明、時代と向き合う」』

上巻は自著の解説だったが、下巻はその都度違うテーマについての渋谷さんとの四方山話と思えばいいと思う。内容については、特にとりあげたいこともないのだけれど、三点ほどメモとして。

(1) 『風姿花伝』に関連して、観阿弥、世阿弥、本阿弥光悦みたいに阿弥の号がつく人は定住していない階層を意味していて、そのなかの一部から芸事や河原乞食の系統の人々が出て来たという話しに、へーと。本阿弥光悦の茶碗が僕は大好きなのだけど、同様に『風姿花伝』も好きで、確か予備校にいってた頃に読んでずいぶん影響受けた。50過ぎたら、脇でしぶくしてればいいんだとか。最近でしゃばり気味な自分への自戒の言葉としてよく思い出す。

(2) 十七条の憲法が官僚に向けての訓話みたいな内容になっているのは、最近再認識してへーと思っていたばかりなのだけれど、その話題。つまり、日本の政治は結局、官僚がやっているので、政治がそのひとたちに対する決めごとになるのだということ。それが、この時代から変わらず今に至っている日本の特徴とその変わらなさ。その原点はここに明確に現れていると述べられている。なんか、そんな気はしていたよ。

(3) 内田樹さんがあとがきを書いていて、例の埴谷雄高さんとのコム・デ・ギャルソン論争を思い出しながら、吉本さんの徹底した庶民信仰みたいのに対する違和感を述べているのだが、先日読んだ辺見庸さんもまったく同じような意見を述べていた。たとえばだけど、政治のことなど関心もなく、中韓ともめたら戦争やれやれと簡単に言ってしまいそうなひとたちとか、それこそバブルにうかれてよろしくやってた人たちとかをなぜ全面肯定するのか分からんと。そう書くと変なバイアスかけて単純化するなと言われそうだけど、結局そういうことへの違和感なんだろうと思う。あとがきにコメントしてもしかたないとおもうのだが、内田さんはたとえば次のように書いている。

 大衆は無言であることを通じて、何を言おうとしているのか。その「無言の翻訳者」の任に誰が就くべきなのか。権力者か庶民派の詩人か、いずれがこの「非政治的大衆の無言」の代弁者の資格を占有できるのか。そのしのぎを削るような戦いこそが戦後政治思想の最前線なのだと見通した点に吉本隆明の天才性は存する。

こういう意見を読むたびに、大衆という概念をインテリが理解するのはほんとに難しいんだなと思う。その代弁者として吉本さんがきつい立場を選択したというような記述がその後に続くのだが、そんな立場、どうやったら選択できるのか?と聞きたくなる。その「立場」とやらが選択すれば身を置けるなにかだと思っている限り、永遠に大衆の原像なんかわからない。内田さんも辺見さんも、どこかに大衆というひとたちが存在していて自分はそうでないかもしれないというくだらない思い込みから自由になってないだけだ。年とって養老院にでも入るようになれば分かるんじゃないか。人は、みんな根底ではおんなじだし、だれもが大衆の一要素だということが。無言な大衆は自分自身の中にこそいる。そのことに気づかなけりゃ話にならない。自分が執筆者だから無言でないと思っている時点で何もわかっちゃいないのだ。僕が読み間違ってたらむしろ幸い。 今回は、以上。 (表現をおだやかに修正。)

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2013年4月21日 (日)

『生物と無生物のあいだ』 福岡伸一



ベストセラーは売れている時に読まないで、少しして古本があふれる頃に読むことが多い。別に値段が下がるのをまっているわけではなくて、読みたい本のリストは大量にあって、その下の方の順番に入るから自然とそうなるだけなのだけど、これもそういう風にして読んだ。結論としては、専門のごく狭い分野を背景としながらも、生物学の根底にある疑問から説き起こして自らの研究の意義を解説して、あわせて現代生物学の見通しもおぼろに読者に看取させるだけの材料を提示してみせる筆致は見事だということになろうかと思う。やや芝居がかったレトリックが入っているのはご愛嬌。

生物と無生物を見分ける境界は比較的はっきりしていて、高校の生物学でも習うように細胞でできているかどうかだと思う。では、細胞とは何かということになるととたんにややこしくなる。つまり、分類する際の基準として細胞からできているかどうかは強い判定基準になっても、細胞の本質だとか、なぜそれが生物の特徴なのかを明確に言えるかというと実は心もとない。DNAの発見によって二十世紀の生物学のコンセンサスは、生命は自己複製を行うシステムであるというところに一応おちついているようだが、著者は、生命は動的平衡にある何かであるというシェーンハイマーが提示した考え方に着目し、この概念にそって生命とは何かというテーマにひとつの解を提示してみせている。

僕自身は、生物学は高校時代の生物Ⅰからあまり進歩していないので、いくつも初めて知ったことがあった。冒頭ででてくる野口英世の評価が国内のそれと異なることは、比較的最近まで知らなかったけど既知ではあったので驚かないが、野口の業績がほとんど否定されてしまった根本的な理由がどこにあるかは本書で知った。それは、つまるところ分解能の問題だったのだ。ウイルスの存在を知る前にウィルスが原因の病原を探すことの不可能性。その分解能の制約を理解しながら研究を進めるにあたっての基本的な研究手順の問題は、医学分野にとどまらず、未知のものを分析するときの基本的な態度を示唆していて興味深い。この研究手順の問題は、ワトソンとクリックのDNAの発見に先立って遺伝を司る物質がDNAであることを実験的に見いだしたオズワルド・エイブリーの研究過程におけるコンタミネーションとの格闘にも見る事ができる。

本筋からはそれるが、エイブリーの実験に関連して、著者は、セレンディピティなどの直感やひらめきに基づく発見の過程を支持せず、研究の質感からくる確信のようなものが重要だとしているところがある。セレンディピティとは何かという議論にはあまり意味はないが、著者のセレンディピティの理解には思い違いがあるように思う。セレンディピティは、この研究の質感というものと実は密接に関係している。ひらめきや直感が発見に結びつくことが重要なのではなく、ひらめきや直感が発見に結びつく背景には著者のいう研究の質感としかいいようのないもの、長く果てしない直接的な経験の蓄積と無意識の開拓があって、そうした背景がある閾値をこえて拡大することで認識が突如言語化されたり設計や研究上の課題が解決策として形をとるに至る。それは、つまるところ言語が分節される前の直接的かつ包括的な認識をいかに育てるかというところにかかっていて、手を動かし、見て聞き、匂いをかぎ、何度も考えては試して、体験したものが潜在的な認識を再構成し、もう一息でまとまりのある言葉として分節されるところまで煮詰められているからこそ、その時突然出て来るものが真実をとらえていることが多いというのがセレンディピティの本質だと僕は考えている。第7章のタイトルになっている、パスツールの言葉「チャンスは、準備された心に降り立つ」そのとおりだ。もちろん、表面的な思いつきにすぎないひらめきや直感にはたいして意味がないという著者の意見はまったくそのとおり。

話しをもとに戻してと。

DNAの発見にまつわる物語やDNAとは何かについての解説はとても分かりやすくまとめられている。この叙述だけで本書は買う価値があると思う。物理的な現象や制約と生物との関わりについて、たとえば、拡散の重要性、シュレディンガーが『生命とは何か』で述べている生命現象の大きさの必然性の問題、食べる事によってエントロピーに抗う生命の本質など、科学啓蒙書に不可欠な素人が科学的な考察をするためのてがかりやポイントがたくさん提供されている。そうした生命科学の基本的な整理の後、本書の主たるテーマが提出される。

生命は孤立した現象ではなくて、物質が流れ、集まる中で「要素が集合」したのではなく、「要素の流れ」がもたらす効果なのであるというコンセプトの解説とそのことにまつわるダイナミズムの解説が本書の後半部の主題である。著者の研究もこのテーマと関連して解説されている。おそらく、自然科学に関心の薄い読者にはかなりインパクトのある説なのではないだろうか。シェーンハイマーがみつけたのは、タンパク質を構成する原子が長くとどまっているのではなく、外から取り込まれては再構成されて排出されていることだ。つまり、タンバク質は常に作られては壊され、壊されては作られるという活動を通して自らを維持していることが分かったわけだ。

秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。[原文は、傍点 -- 注]」 (p.166)

 つまり、エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体を流れの中に置くことなのである。つまり流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになるのだ。

 私はここで、シェーンハイマーの発見した生命の動的な状態(dynamic state)という概念をさらに拡張して、動的平衡という言葉を導入したい。この日本語に対応する英語は、dynamic equilibrium (ダイナミック・イクイリブリウム) である。海辺に立つ砂の城は実体としてそこに存在するのではなく、流れが作り出す効果としてそこにある動的な何か[原文は、傍点 -- 注]である。私は先にこう書いた。その何か[原文は、傍点 -- 注]        とはすなわち平衡ということである。

 自己複製するものとして定義された生命は、シェーンハイマーの発見に再び光を当てることによって次のように再定義されることになる。

 生命とは動的平衡(ダイナミック・イクイリブリウム)にある流れである (p.167)

なぜ、ものはあろうとするのか、それはあろうとしているとしか思えない流れのなかにいるのに、なぜあろうとするのか分からない。それこそ、エントロピーが拡大し物質は拡散して熱的死に至る運命にある一方で生命が典型的にそうであるように、なぜものはあろうとするのか。本書は、これに部分的に解を与えてくれる。生命に限って言えば、確かにそれは強烈にあろうとする場であり、地球上の物質の流れが強く複雑にからみあった構造であり、拡散の流れがあればこそ、ものがみな滅びてばらばらに拡散していく一方で偶然できる吹きだまりのようにして成立する潮流の結節点なのだ。この生命観は、「もの」がひろまりうすまってエネルギーが均質化する過程で生ずる「むら」が地球やその上で活動する生命であるという考え方を示唆する。つまり、元々、生命は期間限定の存在で川の中の澱みや、それが濃くなってできる州のようなものと考えればよいのではないか。地球の生物は地球に強く結びついているし、地球に与えられるトータルの場のエネルギーが衰えれば衰退し消滅に向かうことはもともと運命づけられている。端的に言えば、太陽が老いて消滅すれば人類も消滅せざるをえない。どれだけ先のことであるにせよ、それは元々永遠性を約束された存在ではない。

ついで、この結節点を維持し更新していくために生物が備えている仕組みのひとつとして、タンバク質の相補的結合性の議論が展開される。タンバク質は相互に結びついたり離れたりする要素のペアをつくり、ついたり離れたりしながら内部に蓄積するエントロピーを排出している。また、そのくみ上げと解体のプロセスは振動子(オシレーター -- 振り子時計のような性質をもつもの 注)を構成し、生物がタイミングをはかる手段となり(つまり体内的な時間を与える)外界の変化に対応する可塑性を実現する基盤となる。しかし、その生命の営みには、システムとしての見事な整合性と反対に、強い一回性、固有性が存在している。著者は、生命は、テレビのような機械ではないとして次のように述べる。

 生物には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度、折りたたんだら二度と解くことのできないものとして生物はある。生命とはどのようなものかと問われれば、そう答えることができる。(p.271)

現に生きている僕たちの実感にこの認識は近い。

 私たちは遺伝子をひとつ失ったマウスに何事も起こらなかったことに落胆するのではなく、何事も起こらなかったことに驚愕すべきなのである。動的な平衡がもつ、やわらかな適応力となめらかな復元力の大きさにこそ感嘆すべきなのだ。

 結局、私たちが明らかにできたことは、生命を機械的に扱うことの不可能性だったのである。(p.271)

さらにエピローグで、アオスジアゲハととかげの卵にまつわる少年期の苦い思い出から著者は、次のように述べて本書を締めくくる。

 生命という名の動的な平衡は、それ自体、いずれの瞬間でも危ういまでのバランスをとりつつ、同時に時間軸の上を一方向にたどりながら折りたたまれている。それが動的な平衡の謂いである。それは決して逆もどりのできない営みであり、同時に、どの瞬間でもすでに完成された仕組みなのである。
 これを乱すような操作的な介入を行えば、動的平衡は取り返しのつかないダメージを受ける。もし平衡状態が表向き、大きく変化しないように見えても、それはこの動的な仕組みが滑らかで、やわらかいがゆえに、操作を一時的に吸収したからにすぎない。そこでは何かが変形され、何かが損なわれている。生命と環境との相互作用が一回限りの折り紙であるという意味からは、介入が、この一回性の運動を異なる岐路へ導いたことに変わりはない。

 私たちは、自然の流れの前に跪く以外に、そして生命のありようをただ記述すること以外に、なすすべはないのである。それは実のところ、あの少年の日々からすでにずっと自明のことだったのだ。(p.284)

なんらか取り返しのつかないものであること、生命が一度限りで二度と現れない存在であり、それがある継続性をもって存在しているように見えても、そもそも危ういバランスの上に成り立っているはかないシステムであって、あたかもちょっとした流れの変化が流域の風景を一変させるように、決して安定した永遠のものではないことが理解される。あえて引用しなかったのだけれど、このエピローグのアオスジアゲハととかげの卵のエピソードはその意味でとても印象的である。損なわれたものは、永遠に取り戻すことができない。この認識は、実は、村上春樹の長編小説の主題と見事に呼応している。本書がベストセラーになったのも分かる気がする。

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2013年4月 6日 (土)

『死と滅亡のパンセ』 辺見庸


辺見さんの詩集が何かの賞を取ったというニュースを見て、ああ、この人は詩も書くのかと思ったのは、震災からしばらくたってからだった。本書を読んで、辺見さんの故郷がまさにあの東北のいちばん津波の被害が大きかったところであり、多くの知人や親類、それから故郷そのものを失ったことを知った。震災後に閉じこもって詩を書くことの他は何も手につかないような時期につくられたその詩集『眼の海』について、本書所収の『週刊金曜日』誌上のインタビューで辺見さんは次のように語る。

『眼の海』は今まで書いたどの本とも、脱稿した感じがまったく違っていました。一篇一篇の執筆が、水中での肉体的経験に似たもので、とても疲れました。あまりに私的に暗い孔を穿ち進んだため、語弊はありますが、執筆というよりこれはなにか「犯罪」に近いのかもしれません。刑事犯罪という意味ではなく、表現や思想上の純粋度の高い犯行ということです。(p.88)

辺見さんは、本書を通じてずっと苛立っている。震災後に猛烈な速度で震災を忘れようとしている人々の姿をみて呪詛するかのようなその姿は、一時的な感情ではなく、前から薄々感じていた違和感が決定的になって最早人々を呪うほか何もすることがなくなっているかのようだ。本書の辺見さんの言葉は、善意からのものではない。比喩でもなんでもなく、辺見さんは戦争協力者の末裔がわれわれなのだという少々荒っぽい見方から、震災に対する日本人の変わらぬ姿に対して罵りの言葉を投げつけているのだ。その言葉に対して賞を与える日本をさらに辺見さんは呪わねばならない。辺見さんは自分で、それを犯意と呼んでいる(ように感じられる)。この気持ちをよく分かると言ってしまうことは僕にはできない。しかし、どこか高校生の時の自分を見るようでもあり懐かしい感じがしてしまうのも事実なのだ。そんなことは百も承知でこれまで生きて来たし、この地点から先を考えなきゃ仕方ないじゃないかという感想をどうしてもおさえることができなかった。たとえば、大阪府の「君が代」斉唱条例の問題にふれて、著者は、このように書く。

 かつて君が代をうたわなかった先生たち、起立しなかった人びとが、いまはすっくと立ち、明らかな声にしてうたうのだそうだ。そのような人びとの内面はあまりにもつらく、たわんではいないか。そうさせているものはなにか。あの歌をうたわないですむ会社や組織に同質の異様はないのか。うたいたくない者に直立不動でうたわせる社会はまっとうだろうか。(p.161)

僕は、式典の時に君が代を歌うのは小学校まででやめた。中学以降歌ってない。一応理由はあるのだが、歌を歌わない理由を他人に説明する必要はないし歌いたくないときは歌わない。歌を歌うか歌わないかなどということは、すべて個人の内部の問題であって、起立と歌唱を強制することは、その個人の内面に手を入れることだからこそ不当なのだ。国家や自治体のような集団の力でそれをやるなら尚更である(『長距離走者の孤独』くらい思い出そう)。たとえ国歌だからといって、人が歌う事は強制の結果であるべきではない。どうしても嫌なら、それは仕方の無い事だ。

ただ、学校の式典でみんなが起立する場面で教師が起立せず、国歌斉唱の場面で歌わないのは子供に対してどうなのかという意見は分からないでもない。特に、日の丸と君が代については、政治的立場の表現として使われがちだし、この問題は、結局は政治的な立場の表明が教師や公務員にどこまで許されるのかという問題にしかならない。保護者から見たら、いずれかの政治的立場にも偏らずに、それぞれの立場に理解を示してもらわないと困るという見方があるだろうし、公務員が議会の決定を遵守することは法律に定められているのだから、条例化された時点で遵守義務が出て来るのは当然だという考え方も当然あるだろう。

しかし、そうしたことと、個人の内面を蹂躙するような法律ができて自治体から押し付けられた時に教師個人としてはどのような抵抗がありうるのかということとは全く別の問題である。だいたい、普段、教師はどの政治的立場も支持していないような顔をして生きなければならないわけでもあるのだろうか。憲法第15条をよく読もう。全体の奉仕者とされているのは、政治家も同じだ。彼らには法律を遵守する義務がある。でも、政治的立場は表明している。公務員だからそれをしてはいけないというなら、全体の奉仕者たるべき政治家も、それをしてはいけないことになる。行政の長である、政府の大臣ならなおさらだ。彼らは、そんなに従順だろうか。もちろん、そんなことはない。法律は、だめな部分があるなら変更するように考えられている。公務員が意見をもち表明することを制限できると考える方がどうかしている。それを生徒におしつけられないというだけのことだ。

こうした問題への現場での対応こそが、戦後日本を覆い尽くして来た日本人の政治的姿勢を象徴する。こうした問題に対して、左でも右でも中道でもない、政治的にゼロのところまで萎縮することで、社会的な軋轢を最小化して深刻な対立を回避し、お互いにうまくやってきたのが高度成長期以降の日本だと考えればだいたい合っているはずだ。だって、給料は毎年上がってるし、生活もだんだんよくなってるし、いろいろ問題もあるけれど、とりあえず経済的なレベルアップに集中していれば争いも起きない。そういう問題があることは知っているけど、この場で持ち出すなよ、空気読めよ。というわけだ。そして、その傾向は年々加速しているように僕には思える。

日の丸も君が代もそういう無言の処理のされ方をしてきたし、国歌が法律で制定されて以降も本質的には多くの学校でそのように対処されているのではないかと想像する。式典の壇上に掲げられた日の丸に登壇者が恭しく礼をするなどというばかばかしい習慣が生き残っているのは、意味よりも形によりその場を乗り切ることを優先してきた無思想性の非常に端的な現れだ。本音で言えば、多くの人は、日の丸、君が代などとっくに気にしていないし、どうでもいいと思っている。儀式の時にちょっと大切にしているふりをするくらいいいじゃないか、腹が痛む訳でもないし。国旗に頭下げる意味なんかしらねえよ、だって、みんなやってるじゃねえか、俺だけしないのもおかしいだろ。そう、これは、教科書問題とまったく同じ構図で、ことさらに問題にする人々は、むしろそうと気づかず、問題の核心を捉え損ねる。日の丸や君が代に賛成か反対かというところに本当は問題はない。そうしたものが、葬式仏教とさしてかわらない習慣以上のものでない点にこそ日本の問題があって(そうやってこの種の問題をやりすごせる日本人のしたたかさはまた別の問題として論じる必要があるけれど)、それを今後われわれはどうしたいのかが問われない限り、国旗も国歌も日本の人々にとって永遠にどうでもいい問題でしかないのだ。本質的には、「日本人社会」と「日本国」がなんとなく同一視されているようなところから、西欧的な国家の問題などでてきようもない。現代の日本において、国家は、あたかも、宗教が葬式のために存在しているように、対外的なつきあいとして存在しているのに過ぎないという面が確かにあるのだ。

以前も書いた記憶があるが、オウム真理教は、そうした日本人の無宗教性、無原理性、無理念性にまつわる空虚を実に巧みについたと思う。辺見さんは、麻原の裁判は結局麻原の勝ちと言っているが、これは逃げ切っただけで、逃げるが勝ちなら確かに勝ちなのかもしれないが、勝ちも負けもないぐだぐだしかないじゃないかと僕なら考える。オウム真理教の教祖自身が、語るべき内部など何ももたなかった巨大な「顔なし」だったんじゃないか。実際、麻原裁判も麻原自身も、日本人からは急速に忘れ去られている。これは、麻原にとってほんとうに勝ちなのか。辺見さんは、しかし、そのようにこの事件を忘れはじめている日本人社会の姿を的確に捉えられていると思う。オウム真理教事件とこのたびの大震災とそれにまつわる放射能事故は、日本が自らの進む方向を誰からも与えられなかったことによって国のかたちを見失ってきた始まりと終わりに対応している。これから先、これからどちらの方向に進むのかという考え方自体が許容されない時代に入って行くはずだ。選択肢はほとんどない。流されるままに、日本は流動化し始めるだろうと僕は考えている。それは、グローバリスムなどというものではないことは確かだ。

辺見さんは、国歌斉唱問題を今風のファシズムの問題かもしれないと問題提起されているのだが、ファシズムの本質は金融や巨大産業の企業の複合体が国家に取り憑くことによって国民を強制的に企業体の奉仕者に変えながら、無限に膨張していく自動運動の中にあり、国家の力がどんどん増して行く傾向と密接不可分だ。第二次大戦中の農業国家日本の天皇に対する信仰に基づく全体主義とは本質的になじまないし、現在蔓延している全体主義的なムードとも異なるものだ。何より、現在のそのムードには国家が資本の力で制御され暴走させられる契機が存在していないし、個人に対する強権的な力すら存在しないのだ。全体主義という言葉すらなじまない気がする。人々は好き勝手な方向を向いて好き勝手な事をする自由があるし、実際そうしている。2chをみよ。問題は、しかし、それが匿名性の中に閉じこもらねばならないこと、そうした自制を個人に強制する無言の圧力が強力にこの国を支配している点に現れている。企業や組織の一員として振る舞わねばならない場合には、「意見を表明する」という民主主義の前提が、滅多に行使されない。彼らは、企業や組織の一員であって、個人に戻るのは帰宅後、PCの前に向かう時だけだ。まるで、言いたい事を言っていいのは、金と力のある議員だけだとあきらめているかのように、報道機関ですらより本質的な問題は避けて通りがちだ。これは一体なんなのだろう。これに、どういう名前をつけたらよいのだろうか。組織への忠誠心と、誰かが決めてくれたことに基づいて自分の行動を律する機械のような倫理。その割に、所属する組織のあるべき姿や将来の姿などにはおそろしく無関心なのだ。もしかすると、そうしたお互いに無関心な組織の極致みたいなこの国家は、むしろ国民から無視されているのではないか。無責任の構造というより、まったく無関係だと誰からも思われていることが問題の本質なのではないか。国家は事実上、少数の関係者で運営されている独立行政法人のようなものになっている。それは、遠いところにあって、どこかでうまいことやられているんだろうけど、当座あまり関係ないやと思われる何ものかである。

本書のどちらかというと著者の震災後の空白期に脳裏に渦巻いていたものをすこしずつ言語化しているような作品、たとえば、巻頭にある詩やいくつかのエッセイ、それからなまこをめぐる酒飲み話のような対談にもほとんど興味はひかれなかった。これが辺見さんの本当にやりたかったことなら、この本は読む価値がない。しかし、これらはくぐり抜けるべき過程として必然であるという匂いを漂わせている。そして、辺見さんの攻撃は、まさに僕が上に述べた無関心の問題にまっすぐに向かい、そして絶望し失速している。いや、絶望という言葉は正しくないかもしれない。希望など何もないことを覚悟していると言えばよいか。震災の直前に辺見さんはこのようなことを書かれている。週刊誌に発表された記事だ。

 世界はもっともっと暴力的にむきだされていくだろう。中国共産党はいずれ姿を消すであろう。中国のバブルはちかい将来かならずはじけ、騒乱がおきるだろう。中国は大きくゆらぎ、世界的動乱の主要な原因のひとつになるだろう。北朝鮮の現政権は倒されるだろう。イスラエルは生きのこるだろう。モサド(Mossad) が活躍するだろう。日本は軍備を増強し、原子力潜水艦をもつかもしれない。海兵隊またはそれと同質の機動部隊をつくるだろう。戦術核を保有するかもしれない。天皇制はだいじょうぶ、まったく安泰だろう。憲法九条は改定されるだろう。キミガヨはいつまでもうたわれるだろう。貧しい者はよりひどく貧しく、富める者はよりいっそうゆたかになるだろう。すさまじい大地震がくるだろう。それをビジネスチャンスとねらっている者らはすでにいる。富める者はたくさん生きのこり、貧しい者たちはたくさん死ぬであろう。階級矛盾はどんどん拡大するのに、階級闘争は爆発的力をもたないだろう。性愛はますます衰頽するだろう。テクノロジーはまだまだ発展し、言語と思想はどんどん幼稚になっていくであろう。ひじょうに大きな原発事故があるだろう。労働組合はけんめいに労働者をうらぎりつづけるだろう。おおくの新聞社、テレビ局が倒産するだろう。(p.126)

予言があたったとかそういうことを問題にしたいわけではない。このぐらいの未来像は、誰にでも描ける。大事なのは、別に、震災で眼を覚まされて絶望したわけではなく、元から希望なんか何もないと著者が考えていたことだ。そして、その予想が多くの日本に住む人々とおそらくは共通のものであることも。

 こうなったら、荒れすたれた外部にたいし、新しい内部の可能性をあなぐるいがいに生きのびるすべはあるまい。影絵のひとのようにさまよい、廃墟の瓦礫のなかから、たわみ、壊れ、焼けただれたことばの残骸をひとつひとつひろいあつめて、ていねいに洗いなおす。そうする徒労の長い道のりから新たな内面をひらくほかにもう立つ瀬はないのだ。新たなる内部では、二○一一年三月十一日のまえよりも、もっともっとひととことばの深みに関心をむけようとわたしはおもう。しおさいと讖(しん --未来の吉凶禍福を推測して説くこと。予言。また、その記録。--注 MacOS 添付辞書の説明 )と兆しにもっと謙虚に耳をかたむけよう。いまはバラスト(底荷)もジャイロコンパスもうしなったわたしは、すてばちにもなれないほどに空洞な舟である。それでもわたしは記憶の街の駅伝競走で遠いしおさいをききながらはしっている。歓声が聞こえる。(p.142)

この空洞の舟に、新しい内部が生まれた後を見てみたいと思う。希望などはないと決めつけたところから、そんなことはないとむしろ希望は生まれてくる。そのようにしてしか、将来などどうせ生まれてきたためしはないのだ。そこまで書いて、ふと『俺俺』の最後の部分を思い出す。そう、本書は、震災後に震災後について書かれた中で、始めて出あった本物の言葉を獲得しようと悪戦苦闘している人の言葉だ。借り物の概念や言葉をすてて、自らの内部をもういちど作り上げるほか無いと観念した「俺」の姿だ。読んで楽しい本ではない。しかし、震災の後、ほとんどの知識人が見せた体たらくに落胆し、本物の言葉を求めているのなら、本書を読むのはよいことだと思う。それを探そうとしている、数少ない例外であると、僕は思う。

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