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2013年3月の記事

2013年3月26日 (火)

『忘れられた日本人』 宮本常一

長らく、「みやもとじょういち」と読んでいた。「つねいち」だそうで、たいへん恥ずかしい。それに加えて、この本をいまごろ読んでいることもちょっと恥ずかしい。宮本さんは、民俗学で有名な人なので名前くらいは知っていたけども、昔から民話、民芸品、民衆、民俗みたいな言葉が入るものは敬遠してきていて、なかでも苦手なのが民芸品の類い。ちょっと見直さなきゃと考え始めたのは、中沢新一さんの『野生の科学』を読んでからだから本当にここ最近のことだ。

この本は、宮本さんが、当時の年寄りの話しを聞き歩いて書き留めたものを集めた聞き書きである。これをフィールドワークと簡単に言わない方がいいということは感じた。そのような言葉から漂う第三者的な入り方を宮本さんはあまりしていないように思えるからだ。それをなんと言うのだろう。読み終えても、この点についてはしっくりこないままだ。

最初に対馬の話しがでてくる。ここで描かれる村の寄り合いの様子にまずとても興味をひかれる。寄り合いで大事なことが話される時に、議題をまず確認して、発言する人は挙手をして意見をのべてみたいな会議にはまったくならない。それどころか、議題とは無関係な話題もふくめて行きつ戻りつする。決をとるなんてこともない。結論を急がせる起案者もいない。ただ、寄り合いに集まる人々の間にそのテーマがしみわたり、誰ともなく許容の雰囲気がうまれてある意味その寄り合いの共有事項として当たり前のことになるまでゆっくりといろいろなことを話し合うのだ。日本の会議が学校の教科書に書いてあるような会議の形をとらず、不定形で際限もなく続くルーツを見る思いがする。その場には、西洋人の好むボード・メンバーみたいな権威ではなく、運命を共有するもの同志の強い連帯と思いやりがあるように思える。

かつて、ある古くからの顧客の会議に参加していて驚いたのは、ともかく関係者を全員集めた長時間の会議を頻繁に行うことだった。会議の規模は、すぐに20人、30人となる。組織が大きいこともあるのだが、ものごとを進めるのにいつでも大人数を集めるのは決して効率がよくない。このような会議が増えると、会議に忙殺されることは元より、会議に出ているだけの人がたくさん生まれる。発言しない人々は、無駄に時間を使うだけになることが多い。しかし、僕が経験したその会議は、無駄どころか集団の意思統一と推進力を生む強い根拠になっているように思われたのだ。これは、自分がそれまで経験してきた効率の追求とは逆の方向性なのだが、ともかくそれはうまくいっていた。その会議は、全員が目的を共有し、自分の役割を納得するまで続く。それをリーダーにあたる人物がひとりひとりに確認するまで続くのだ。スマートなグローバル人材には信じられない会議だろうと思う。先日書いたスティーブ・ジョブスさんにも理解できまい。スマートでグローバルな解決策には不向きかもしれないが、全員でことにあたり一致団結して物事を解決するときには、実はこのような徹底した意思統一は、全員の理解と仕事の品質を底上げし、非常に強い力を生む。会議効率は改善できる。しかし、肉声による相互の意思疎通により確立した人間の連繋は、何物にも代えがたいパワーをもつのだ。

この寄り合いについて書かれた文章を読んでいて思い出したのは、その会議のことだった。こうした寄り合いがかつての日本の古い時代にどこにでもあったかどうかはわからない。宮本さんもそう書いている。教科書で教わる西洋流の会議のやり方は、多分ヨーロッパの議会などの議事進行の仕方が源流じゃないかなどと推測するのだけど、最近つづけて取り上げている話題に関連させていえば、それは、「知」を強調する流儀であって、「情」により近い所にこうした寄り合いの姿があるのだと考えると、これはどちらが優れているという問題ではなく、人間のコミュニケーションが情の交換から知恵を形式化してルーチンにしていくまでの幅を示しているといえる。

宮本さんの祖父について書かれた章では、その動物たちとも人と同じように接する祖父のこのような言葉を書き留めている。

 小さい時何かの拍子にチンコのさきがはれることがあった。すると祖父は「みみずに小便をしたな」といって、畑からみみずをほり出して、それをていねいにあらって、また畑へかえしてやった。「野っ原で小便するときにはかならず「よってござれ」といってするものぞ」とおしえられた。小学校を出る頃までは立小便をするとき、ついこの言葉が口から出たものである。それも大てい溝のようなところへする習慣がついていた。

 「みみずというものは気の毒なもので眼が見えぬ。親に不幸をしたためにはだかで土の中へおいやられたがきれい好きなので小便をかけられるのが一ばんつらい。夜になってジーッとないているのは、ここにいるとしらせているのじゃ」とよくはなしてくれた。春から夏へかけて、どこともなくジーッという声が宵やみの中からきこえて来る。それがオケラの声だとはずっと後に知ったのだが、それまでは不幸なこの動物のために深い哀憐の情をおぼえたものである。(p.205)

みみずにおしっこをかけるとおちんちんがはれるという俗信は最早だれも信じないだろうけども、広く行き渡っている。その理由が説明されているのを初めて見た。もちろん、これが日本全国どこでも同じように語られていたかどうかはわからない。しかし、この地、この人はそのように話していたという記録は、実際にその俗信とともに生きてきた人々がいなくなった後の時代ではとても貴重だ。「よってござれ」のかけ声は、狼に対してもかけられる。

もとは狼が多かった。ウォーッウォーッと山の尾根のようなところでなく声はすごかった。それがまたきまったように夜ふけになると小屋のまわりへやって来る。狼は小便好きで、小便を飲みに来る。それで、小便をのまさないようにするために小便樽の底は大てい抜いておいた。それでも樽のふちについたのを舐めに来ることがあった。

 狼は千匹連れと言って必ず千匹が群れをなしていて、人が山でもこえるとついて来るものであった。そして石や木の根につまずいて倒れるようなことがあると、おそいかかって骨ものこさず食うてしもうたものである。また狼というものは悪口をいうと必ず祟るもので障子の桟にでも千匹がかくれる事があり、じっときき耳をたてているものであった。

 山道をあるいて戻って来た時には外の方を向いて「ごくろうでござった」と狼にお礼を言わねばならぬ。狼の悪口も言わず、狼の気にさからうような事をしなければ、狼は逆に人を守るものであった。

 夜行水などつかってすてるとき、必ず「寄ってござれ」と言わねばならぬとされた。狼にかかるといけないからである。(p.227)

当時の日本にはたくさんの狼がいたことはもとより、このふたつの「よってござれ」と小便の挿話だけからでも、様々なことが考えられる。生き物に対する気遣い、自然との協調、伝承が与える日常生活への規律、言葉のもつ呪文のような性格、人間を守りかつ脅かす自然、土との関係性、などなど。他の章では、かつての日本のおおらかな性があけすけに語られていて、母系性のなごり、歌垣のような風習、人妻との性交渉の自由さ、夜ばいや父なし児の出産と育児など、とても面白い。

宮本さんは、「世間師」の章の冒頭でこんなことを書いている。

村里生活者は個性的でなかったというけれども、今日のように口では論理的に自我を云々しつつ、私生活や私行の上ではむしろ類型的なものがつよく見られるのに比して、行動的にはむしろ強烈なものをもった人が年寄りたちの中に多い。これを今日の人々は頑固だと言って片付けている。(p.214)

読んでいくと、この宮本さんの主張はなるほどと思われるに違いない。学校が与えてくれる画一的な知識や、企業や官庁の規格化された仕事に埋没することは、人間を類型的な生活に落とし込む。この本全体が、一種の現代に対するアンチテーゼになっているようにも思えるのだ。

最後にひとつだけ、本書の最後の方に出て来る記述を抜いておく。戦後の農地解放は、戦中から準備されていたとするものだ。本当のところどうなのか僕はよく分からないけど、農地解放は米軍がきてやってくれたというイメージが強かったのでメモの意味で。

 戦時中から農地解放の計画が農林省の方で進んでおり、解放するとすればどのようにすべきかということで、地主経営などの実態調査も行われていて、私も昭和十九年頃から奈良県、大阪府などの地主の実態調査にしたがったことがあり、戦後もそういうことを一通り全国的に見ておきたいと思って、この旅に出たのである。占領軍の農地解放は農林省の中で戦時中に企画されていたものが引き継がれたようで、占領軍から発表されたものは、農林省のもとからの案と根本的にはたいしてかわっていないようであった。そして農地解放の遂行が確実になった現在でも、なおその経営の実態を見ておく必要はあると思った。

 高木さんはこの地方にはもう土地を解放するほどの地主はほとんど残っていないと話してくれた。もとは太鼓田をおこなった地主の家もあったがそういう家も多くは没落している。学者たちは階層分化をやかましくいう。それも事実であろう。しかし一方では平均運動もおこっている。全国をあるいてみての感想では地域的には階層分化と同じくらいの比重をしめていると思われるが、この方は問題にしようとする人がいない。実はこの事実の中にあたらしい芽があるのではないのだろうか。(p.298)

やっぱり、年寄りの話しというのは聞いとくもんだ、と、それがこの本の感想でははなはだ申し訳ないのだけど、結局のところ経験し、実地に見て、聞いて、感じた結果で理解されているものがもつ真実を軽視してはいけないということなんだろうと思う。知識は、規格化や平均化の罠のなかに常にある。分かった気になるという誤りから自由になるのも簡単ではない。宮本さんの仕事が、学として成り立つ理由は、つまるところそのあたりにあるのだろうというのが、宮本民俗学に入門しての最初の感想。

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2013年3月16日 (土)

『吉本隆明が最後に遺した三十万字 上巻「吉本隆明、自著を語る」』



吉本さんは、晩年、視力が衰えてから割合に長い期間、語ることでコンスタントに著書を出していた。さすがに密度が落ちるので、毎回買って読もうとは思わなかったけれど、様々な問題について吉本さんだったらどう言うだろうと思っていると、必ず発言してくれるので、その箇所だけを立ち読みしたりしていた。吉本さんは、戦争中、知識人が軒並み口を閉ざしてしまったのをみていて、自分は、言うべきときには、自分の考えをきちんと表明していくことにしていると言っていたはずだ。

正直にいうと、時には答え合わせをするように読む事もあった。自分が考えあぐねている問題について、吉本さんの意見を聞くと自分の考え方が(同じ意見の時も違う意見の時もあるわけだが)すっと定まるところがある。これは、吉本さんが自分の立場を明確に作り上げ、決して思いつきで発言してこなかったためだと思う。吉本さんは、自分がつくりあげた立場を意識して発言する時には、注意深く「わたしたち」という語を用いていた。吉本さんの意見が自分の意見を決めるときの基準になるのは、こちらの立場があやふやなのに引き換え、先方はしっかりした足場があるからだ。

吉本さんを批判する人も多いが、自分の仕事の道程で吉本さんのいずれかの考え方が対立するので批判するというのではなく、「吉本隆明」自体を否定したくて仕方ないという人もよく見かける。なぜそうした人々が、「吉本」を否定したいのか僕には謎だが(単に無知なので)、そうした仕事もまた、吉本隆明という場がなければ成り立たない商売ではあり、吉本さんの「立場」に依存するものでもあると僕は考えている。昔、村上龍さんだったか、何の商売をしているのか分らない知り合いを人に紹介する時には吉本隆明研究家ということにしておくとかなんとか書かれていたような気がするが、要するにそういうことだ。ボリス・ヴィアンの作品で、サルトルを戯画化したような人物が登場し、そのファンが彼のものは講演テープから何からすべてコレクションしているという話しが出てくるのだが、何も生み出さないままひとりの著述家に執着しているのはこれと同じでストーカーみたいなものだ。ストーカーが優れた作品を生まないということは言えないので、それはそれで結構なのだが、それらの「吉本隆明論」が吉本隆明という場を一歩出たとたんに紙くずになりかねないのは気の毒ではある。

反対に、吉本さんの書くものに共感すればするほど、吉本隆明という場のなかにからめとられるようなリスクがあるのも事実だ。吉本さんが築いた「立場」は、それほどに求心力が強く、人を敵と味方に分離する装置として機能してしまう面がある。思想とはそういうものだと吉本さんは考えていたかもしれないが、読者は必ずしもそうした「立場」と強く関係したいと思っているわけではない。書き手としてそこまで知った事ではないと吉本さんなら言いそうだけど、書いたものが作る場と読者との関係性についてはあまり丁寧に考えられていないのではないかと思うところがないわけではない。『試行』が吉本さんの個人編集となって、場としてはあまり展望が開けないまま吉本さんの衰えとともに終わったのは、吉本さんの作り上げた立場が一種の一代限りの職人技になっていて、誰も引き継げないことを象徴している気がする。一批評家としての立場の終え方としてならそれでいいのかもしれないが(吉本さんはそれでいいと考えていたと思う)、戦中派のやつらがみんなそんなだから、いっせいに彼らが引退したり死んじゃったりした後の日本はこのていたらくなんじゃねえかと思ってみたりもするのだ。

さて、本書は、ロッキンオンが出しているSightという雑誌に連載された渋谷陽一さんによるインタビューが元になっている。初出が1999年で、Sightは、季刊くらいの発行間隔だと思うので、下の目次17章分を掲載するには、足掛け5年くらいかかっているのだろうか。

第一章 『固有時との対話』『転位のための十篇』
第二章 『マチウ書試論』
第三章 『高村光太郎』
第四章 『芸術的抵抗と挫折』
第五章 『擬制の終焉』
第六章 『言語にとって美とは何か』
第七章 『共同幻想論』
第八章 『花田清輝との論争』
第九章 『心的現象論』
第十章 『最後の親鸞』
第十一章 『悲劇の解読』
第十二章 『「反核」異論』
第十三章 『マス・イメージ論』
第十四章 『源氏物語論』
第十五章 『死の位相学』
第十六章 『超西欧的まで』
第十七章 『ハイ・イメージ論』

Sight という雑誌があること自体、割合最近まで知らなかったので、連載中はほとんど読んでいないのだが、この頃から、年老いた吉本さんにできるかぎり話しを聞いておこうという人たちが結構でてきた記憶がある。渋谷さん以外でも、非常に目立った取り上げ方をしてきた糸井重里さんみたいな人もいれば、『よせやぃ。』のインタビューをしている人たち、中沢新一さんのように吉本さんの影響を公言するようになった人、本書の解説を書かれている高橋源一郎さんなど、僕よりもひとつふたつ上の全共闘経験者の世代にそうした動きが顕著だった。糸井重里さんと渋谷陽一さんのアプローチは、どちらも吉本さんの「立場」にこだわらない割合にノイズののりにくいやり方をとっていて好感がもてる。

本書の話題である著作については、数も多いので、チョイスとしてはやや物足りない感じはあるが(主要な著作に限定しても、『初期歌謡論』、『宮沢賢治論』、『書物の解体学』、『世界認識の方法』、『記号の森の伝説歌』、『漱石的主題』等々インタビューの題材としては落とすにおしい作品をあげたらきりがない)、渋谷さんは、自ら吉本さんの著作への深い理解を述べながら、それこそ次々と答え合わせをしている感じでインタビューを進めていて、吉本さん自身の説明より分かりやすいので、初めて何か吉本さんのものを読もうという人にはいいガイドになるのではないか。

反対に、長年読んできた人間には、かなり繰り返しになる要素も多いので、なかなか読んでみようという気にならないのは、ここ数年の著書の傾向と同じ。今回僕が読んでみようと思ったのは、吉本さんというより、渋谷陽一さんの言葉の方に興味があったからだ。結果としては、渋谷さんの理解は、だいたい自分ともあっていて結構なっとくするものだったのには驚いた。特に、『マス・イメージ論』や『ハイ・イメージ論』の意味がきちんととらえられているのはさすがで、ロック音楽のレビュー雑誌という場をひとりで作り上げて維持してきた人ならではという感じがする。専門分野をもたないことによって、むしろ渋谷さんの読み方はシャープで危なげない。ただ、少し持ち上げすぎなところも感じる。吉本さん自身、だいぶそれには参っている感じがあって面白い。

いかに繰り返しが多いといっても、どの本にもだいたい「おっ」と思うところがある。この本では、人間の精神活動の起源にある宗教性はどんなことをしても消せないのだという言葉がそれだった。ロシアのマルクス主義からはじまった観念論と唯物論を分離してしまう考え方に対する批判はもうずっと以前からなされているわけだけど、その文脈で宗教性という言葉を使っているのだ。

吉本 そうです。結局、僕らの現在風の言い方で言えば、精神活動の起源としての宗教性だけは、どう言い換えても絶対なくならないんですよ。つまり、人間の精神的起源としての宗教は、否定とか肯定とか、また、マルクス主義が言うように唯物論と観念論というもので片はつかないんだよ、っていうことで。どんな理念でも、起源まで遡ればそれなりに宗教性を抱えています。人類の起源的なものとしての宗教性はどんなことをしても、なくすことはできないんです。本来は、マルクス主義はマルクスが持っていた自然哲学と、理念的な、イデオロギー的な思想、そのふたつがないと、マルクス主義にはならないんですよ。だけど、レーニンはじめ、いわゆるロシアのマルクス主義から始まったものは、全部、観念論と唯物論で分けちゃいますね。その分け方は成り立たないということは、疑いないことですよ。宗教をどう規定しても、人類社会の、あるいは人類個人の起源としての宗教性は、なくなりもしなければ片もつかないよ、っていうことなんですね。それで、それ以上の思想のありさまは、少なくとも現在までのところは、あんまり、存在していないんです。だからマルクス主義も自然哲学がなかったら、ただの科学主義にしかならないですよ。

-----経済科学主義みたいな、いわゆる分析モノですよね。

吉本 そうですねえ。実際、レーニンは役立つことは役立つって言ってますけど。レーニンは自分なりの誇りがあって、「私はマルクス主義者だけど、マルクスは知識人だ。俺は革命家だ」という言い方をしていますが、それは違うんです。マルクスは、その思想に知識哲学と自然哲学の両方をちゃんとひっくるめてある。唯物論と観念論を分けるなんて、もってのほかですよ。それじゃ思想になってないよってくらいにあり得ないことです。

宗教性という言葉とマルクスの自然哲学が対応するような配置で使われているので分かりにくいかもしれないが、先日書いた岡潔の「情」の概念を思い出すといいかもしれない。唯物論のイデオロギーに代表される「知」の側面は、「情」の基盤があって初めて成立するのに、その認識を欠いた「知」の理論と実践なんぞ思想にはならん、というのが吉本さんが言っていることだ。これは、吉本さんが批評活動を始めた頃から一貫して変化していない考え方で何も新しいことが言われているわけではないのだが、その人間の観念の存在の原初的なありようを宗教性という言葉で示しているのはこれまであまり見なかった気がする。このあたり、中沢新一さんの考え方との交流などが少し感じられるところだ。中沢さんが対称性人類学などで対象としているのは、まさに、その人間の宗教性そのものだからだ。

では、その中沢さんの「野生の科学」、そろそろとりかかりますか。

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2013年3月15日 (金)

『Think SImple アップルを生みだす熱狂的哲学』 ケン・シーガル 林信行・監修 高橋則明・訳

著者は、AppleのThink Differentキャンペーンなどを手がけた広告業界の人だ。だから、広告についての仕事が中心にはなるのだが、スティーブ・ジョブスが仕事に取り組むスタイルを、物事をシンプルにするという極めて強い志向性から解き明かしつつ、それがいかに優れたものかを賛美するような内容になっているので、次のような読み方もできる。

(1)スティーブ・ジョブスの仕事の仕方を学ぶ
(2)Apple社の企業哲学を学ぶ
(3)顧客(主としてコンシューマ)との接し方についてのヒントを得るために読む
(4)いかに分かりやすく、顧客の経験を重視した商品提供を行うかの手引きとして読む

それ以外に、

(5)製品のコンセプトを確固としたものに仕上げるのに必要なリーダーシップを理解する
(6)変革を実現するのに必要なリーダーシップのひとつの例を確認する

などの読み方もあるんだろう。全体を通じて、Simpleにすることが繰り返し強調され、似たような事例が並ぶので、若干退屈な部分もあるのだが、マーケティングや商品企画だけでなく、ものづくりにたずさわる技術者やシステム構想を作成するアーキテクトやシステムズ・エンジニアにも参考になるところは幾分かはあるだろうと思う。ただ、著者のスティープ・ジョブスに対する心服度合いのせいか、少し大げさすぎる分、アップル信者の教典のように見えなくもない。また、シンプルにを強調するわりに、記述はそれほどシンプルでもなくて、いろいろなエピソードが含まれているので、Appleの製品開発の後、できあがった製品を世に出すプロセスの内幕話のようなところもある。そこがむしろ知りたいという人にもそこそこの情報量があると思う。

目次が、そのままシンプル教の指導原理なので、ひきうつしておこう。

        Introduction        シンプルの杖
        Think Brutal        第1章 容赦なく伝える
        Think Small        第2章 少人数で取り組む
        Think Minimal        第3章 ミニマルに徹する
        Think Motion        第4章 動かし続ける
        Think Iconic        第5章 イメージを利用する
        Think Phrasal        第6章 フレーズを決める
        Think Casual        第7章 カジュアルに話しあう
        Think Human        第8章 人間を中心にする
        Think Skeptic        第9章 不可能を疑う
        Think War        第10章 戦いを挑む
        Conclusion        Think Different

こうして眺めてみても、何の事は分からないので、若いアーキテクトやプランナー向けに僕が意訳してみる。

1.容赦なく伝える
  やりたい内容に照らしてだめなものは、だめと即座に判断して明確に伝えよ。

2.少人数で取り組む
  重要なコンセプト作りや決定は、大人数の会議で行うな。

3.ミニマルに徹する
  誰にも分かりやすく、マニュアルや解説のいらない明快さを目指せ。

4.動かし続ける
  余裕が少しないくらいの状況で走り続けて澱みを作るな

5.イメージを利用する
  象徴、ブランド、ロゴ、カリスマなどをうまく作り概念の確立に利用せよ。

6.フレーズを決める
  そのものを表す名前を一目で誰もがそれが何かがわかるようにつけよ。

7.カジュアルに話し合う
  権威主義的で発言を押さえつけ、非本質的な内容で時間を浪費する会議を開くな。

8.人間を中心にする
  システムや機械に人間を奉仕させないことを忘れるな。

9.不可能を疑う
  相手のNOをすぐに信じるな。

10.戦いを挑む
  ライバルを設定せよ。

で、概ね、そういったことが書いてあると考えてもらえばいいと思う。システム開発のプロジェクトを進める場合でも、1、2、4、5、6、7、9あたりは重要だったりする。優秀なメンバーを集めてコア・チームを作り、メンバーとはカジュアルにやりとりできるムードを作り、NOを言う前に徹底的にどうしたらできるかを考え、できあがりの全体像やコンセプトは分かりやすく適切なネーミングにより作成して開発チームの隅々まで浸透させる。スケジュールは、メンバーが遊ばないように工夫する。特に、コンセプトの確立と徹底は、アーキテクトの重要なミッションだ。

システムの開発をいかに人間を中心にしたものにするか、いかにマニュアルフリーなシステムを作るかも、昨今の開発では特に重要性が高まっている項目だと思う。Appleは、確かにそうした分野ではトップを走っている。僕が以前からAppleびいきなのは、8が理由だ。ユーザー・インタフェースの使いやすさということが、Macについては言われてきて、それはそうかもしれないけど、WindowsもLinuxも似たようなGUIを備えている現在、それでもMacがいいと思うのは、つまるところ、何を目指して何を契機にして設計された商品なのかという点が非常に大きいのだ。すでに、Macはプロ用かビジネス・ユーザ向けのマシンになり、コンシューマ向けはiPadがカバーするような棲み分けが進んでいる。これまで、パソコンは開発端末をそのままユーザ端末としていたようなものだった。これからは、開発端末とユーザ端末はこれまで以上に機能分化が進むだろう。そのように、これは何をするためのものなのかについて、Appleの製品は常に厳しい統制を行っているし、その結果、分かりやすいのだ。使いやすいのは、その結果であって、本当の価値は分かりやすさにこそある。

Windows8はその意味で、非常にどっちつかずの気持ち悪い製品になっている。これが気持ち悪いのは、膨大な既存PCに足をひっぱられた結果だ。マイクロソフトの収益源のほとんどは、WindowsとMS-Office製品だと思うが、それらのライセンスは常に買い直され、買い足される事でしか利益を生めない。ある程度飽和状態に達しているPC市場において、MS-WindowsやMS-Officeは、寡占状態にあるといってよいと思う。デスクトップPCの革命だからといって、導入済みの製品に対するアップデートの需要が見込める領域を切り捨てて変身したり、その市場を奪う製品を出したりする訳にはいかないのがマイクロソフトのつらいところだし、製品を複雑にする主要因になっているのだ。こんなことが起こるのは、マイクロソフトが収益源の維持のみを中心に製品企画する強いバイアスが働く会社であることの現れでもある。

Appleは、それに比べると失うものは少ない。iPod/iPhone/iPadとMacintoshのそれぞれの棲み分けは明確だし、テクノロジーがユーザをどこに連れて行くかも明確に概念が作られている。Apple社を信仰しているわけではないけれど、Apple社の製品コンセプトの明快さにはいつも安心して浸らせてもらっているし、十分満足してもいる。製品やシステム、サービスの企画や開発をしたことのあるひとなら共感できると思うが、単純な形に物事をおさめるのは実は本当に難しい。企業や組織の規模が大きくなるほど、口を出す人が増えるし、レビューして承認するだけの役割の人間も増えるからだ。それらの多くは、本当にいいものを生み出すことよりは、自分の立場を守ることを優先して動くものだ。スティーブ・ジョブスのApple製品には、そういうノイズをあまり感じないのだ。本書を読むと、Appleの対極にある企業としてDellやIntelがひきあいに出されているが、まさにそんな感じ。結局の所、物事を進めるためにテーブルについている人よりは、リスクをとらないために何か気に入らない事があれば指摘しようと待ち構えている人の方が大半だったりするわけだ。

日本の大企業は、ほとんど、Intel側だろう。しかし、元気があると思われている企業は、そうじゃないかもしれない。それが何か。Appleじゃなければ、何なのか。というより、スティーブ・ジョブスにして初めて可能であったことだとしたら、彼のような経営者がいない企業はどうしたらいいのか。実際のところ、じゃあどうしろというんだとこの本を読んで思う企業人も少なくないことと思う。そう思ってしまった時点で、この差は取り返す事が難しいわけでもあるけれど。

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2013年3月14日 (木)

『ハックフィンの大冒険』 スティーヴン・ソマーズ

最近、映画についててきとーなことを書いているのは、主にHuluで視聴したものなのだが、これもそう。『ハックルベリーフィンの冒険』は、世界文学史上にそびえたつ高峰、ドストエフスキーやトルストイにもならぶ作品と個人的には考えているし、このようなディズニー映画に仕立てられる事がいいことなのかどうかはよく分からないのだが、これもひとつの側面であるし、実際、トム・ソーヤーにしてもハック・フィンにしてもよくできた少年少女向けの文学であるのは間違いない。Wikipediaによれば、マサチューセッツ州コンコード図書館で、発行直後に禁書処分になり、ブルックリン公共図書館などで、少年向けのジャンルから取り除かれ、人種差別を理由に、各地の学校の推薦書籍のリストから取り除かれたりしているので、実はそう思わない人も多いことがわかる。しかし、少年少女向けの文学など糞食らえである。どうぞ、禁止したけりゃすればいい。そういう本こそ、文学として上等だったりするのは歴史が証明しているのだ。

この映画は、ディズニーである以上、自然と主張が穏やかにもなるし、描写もきれいに美しく予定調和的に描かれる。だいたい主人公のハックフィンは、『指輪』のイライジャ・ウッドなのだが、そのかわいらしく聡明なこと。これじゃトム・ソーヤーである。原作のハック・フィンは頭の回転は悪く、汚らしく、浮浪者然とした風貌で、どちらかといえば鼻つまみものである。そのような底辺を生きる子供が当時の大人のモラルであった奴隷制をひっくり返す冒険をするところがこの作品の肝なのだし、もっと言えば、道徳的な行いをすることが自分の友人であるジムを裏切ることであるのなら、自分は不道徳なことをして地獄に落ちようと考える所がこの作品の一番いいところなのだが、残念ながらそのいい場面の描写が心がこもっていない。ハックは、神よりも黒人奴隷ジムとの友情を選択するわけなのだが、その重さが全然描かれていないのだ。その手のことを指摘すれば山ほどある。ま、マーク・トウェインがこの映画をみたら、怒るんじゃないだろうか。

だから、申し訳ないが、ハック・フィンを知りたければ、原作を読め、これは全然ハック・フィンではないと言わざるを得ないと思う。

子供たちが夏休みに楽しむためのものという意義を別にすれば、この映画は、だから、少年時代のかわいらしいイライジャ・ウッドを楽しむ映画である。少なくとも、大人にとっては、そうした見方がメインになるのではないだろうか。原作を忘れれば楽しめない事はない。リアリティについてはうるさいことは言わない。ある程度の時代考証は、しっかりしていると思う。5点中3点くらい。

でも、未読の人は原作を読もう。繰り返すけれど、この作品は、ドストエフスキー、トルストイと並べても遜色のない数少ない古典のひとつなのだから。

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2013年3月11日 (月)

震災から2年

まだ2年なのかということにむしろ茫然としている。

この2年でこの国は「救国内閣」に政権交代し、ものすごい勢いで右傾化している。その「救国内閣」の幹事長は、昨日こんなお粗末なことを言い出している。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130310/k10013095331000.html

「国民の生命・財産が危機にさらされた時や国家が存亡の危機にさらされたときに、国民の生命・財産を守り、平穏に回復させるため、国民の権利を一時的に制限するのは、どの国でも当たり前のことだ」

この男は、権利の意味をまったく理解していないのだ。災害時、戦時に権利・財産を守るための義務が課されるというのならまだ分かる。賛成はしないまでも。どこの国に権利を制限する憲法があるのか示してもらいたいものだ。仮にあったとしても、だからどうだというのだ。我が国の憲法が邪魔で、国が好き勝手にできないから憲法に盛り込んでおきたい。国民が国に協力するのはあたりまえだといいたいだけじゃないか。自民党の最悪な憲法草案やそれを擁護する馬鹿な発言を繰り返していた片山さつきなどの議員連中と本質的には同じ穴のむじななのだ。

この2年のうちに、状況はここまで悪化してきている。右傾化がすべて悪とはいわない。左翼がいいとも限らない。だれであれ、イデオロギーやマニフェストだけでゆるされる政治なんてものはないからだ。だから、国民の判断が都度微妙にゆれながら進む事もいたしかたないことだ。しかし、この発言が公然となされていることに腹が立たなかったとしたら、むしろ保守政治家たちは失格なのではないか?しかも、これは大震災の場合の話しとして述べられているのだ。自民党がこの議員を放置するなら、そこまでだと思う(放置するだろうけど)。これが国家主義の内閣でなくて何なのだ。自由とも民主とも何も関係がない政党であることを、元々明らかだったけど、改めて自ら公言しているのと同じだからだ。原発廃止もTPP不参加も選挙用の宣伝文句として許容され、選挙後にあっさり否定され、それを掲げて当選した議員からも文句が出ているのはこの政党の現在の状態をよく表している。

一方、被災地はどうなのだろう。この二年で風景がどのように変化したか、いくつか写真をみた。被災地への支援も人・物・金のいずれも弱くなりつつある報道も目にする。関心もまた。

自分はといえば、出かけて行く事が不可能な中で何をしたらいいかを考えて個人的にやれることをやってきた。それはものすごくささやかな貢献しかしていないのだが、それでもだんだん熱心さが薄れてきていると感じている。それには、いくつか理由があると思う。

ひとつは、もはや緊急対処の時期を過ぎて、日常として事故を捉える必要が出てきていること。つまり、緊急に対処できるところは、妥当なものもそうでないものもあるにせよ、対処してきていると考えられること。意見はいろいろあるにせよ、それなりにそんなにひどくない水準で対応がとられている分野もすくなくないという印象はもっている。今残された問題は、もともと時間がかかる問題か、より根本にある問題の解決が必要な問題のどちらかだと思う。

ふたつめは、国のやり口がほぼ見えてきていて、個々の調整事項に類することはともかくとして、より深い問題の根については、当面解決の見込みも兆しも無く長期に追求するほかないことがはっきりしていること。いつものことだが、主要な争点については、国の立場で国の論理で概ね押し切られているのだ。この種の問題については、水俣病のように国家の隠蔽が関与しているものがある。緊急対処でそれなりにうまく行っているのと比べて、国の立場を打ち出して押さえ込みにかかっている問題ほどろくでもない結果になっている。

みっつめは、自分の仕事や生活の拠点である東京は大きな問題がないことから(東京の放射能汚染の問題は時々言われるほど深刻とは僕は思ってない[局所的には無論問題な箇所もあると思うが])、すでに人々の傷が癒え始めていることだ。オリンピックの招致活動を熱心に進めているのはその現れで、むしろお祭り騒ぎで沈鬱さや停滞感を吹き払いたいくらいな気分が生じ始めている。忘れようとしているわけではないにせよ、今、その話題を出すのか?というムードが蔓延するようになった。このムードと戦うためには、ふたつめで述べた長期の見通しが不可欠だ。個別の課題を消化しながら個別の課題を通して、根本から状況を変える努力を続ける以外に僕にはうまい方法がみつからない。

つまり、切実な問題としてとらえるには問題が拡散しすぎ、残された問題は国ごと変える覚悟で望まなきゃならない厚みで横たわっているということだ。僕は、名もなき一技術者でしかないし、それでたくさんだと思っているけれど、この問題と対処する実際の現場が、自分の職業の現場、自分のWebやSNSの現場であるのを割と真剣に信じている。要するに、自分が他者とかかわり、社会と関わるすべての場面が自分にとっての現場であって、そこでの貢献以外に自分に何かができるとはあまり思っていない。

そのようなわけで、ここからはフェーズ2だ。

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2013年3月 9日 (土)

『人間の建設』小林秀雄/岡潔

先日、本屋の文庫棚をながめていてみつけて読んだ。小林秀雄さんは、高校生の頃から何冊か文庫を買ってみたものの面白くなくて実はほとんど読んでいないような気がする。小林さんの方法は、小学校で書かされる読書感想文の超達人のようなところがあり、批評する対象として超一流のものを相手にして、自然と自分の中にわきあがってくることを見事な手さばきで一本の文章にまとめあげるというもので、立派といえば立派なのだが、その対象の選択、つまりは筆者の文学性に対するシンパシーがないと、対象によりけりでまったく興味がもてなくなってしまうころがある。と、学生の頃は思っていて、今から思うと、それこそは文学そのものであることの証拠であり、批評が文学たりうることを証明した最初の偉大な文学者であることにはやはり間違いないのだなあと思う。そういう読み方ができるということ自体。

余談だけど、最初に批評が文学たりうることを教えてもらったのは、しかし10代の終わり頃に読んだ山崎正和さんの『鴎外 戦う家長』だった。鴎外がのっぴきならない大問題を提起しながら自分は書斎の机でまんじゅうを食いながら茶を飲んでいるようなところがあるのがずっと気に入らなかった。初めて読んだのは、『山椒大夫』だったか『高瀬舟』だったか忘れたけど、それ以来どれを読んでも、自分では血を流さない鴎外に対して、自分も血を流しているとしか思えない漱石のほうがいつも自分にとっては偉い作家であって、鴎外がなぜ漱石と並び称される文豪なのか分からないままだった。山崎さんの本を読んで以降、鴎外はもっと身近になり、読んでみようと言う気にもさせられたもんである。もっとも、いまだに『伊沢蘭軒』も『渋江抽斎』も読んでいない。関心はあっても優先順位というものはある。

小林さんが感想文の達人であるという見方は、その頃から全く変わっていないが、それは単にそれ以降も大して読んでいないからで、実際、対談とは言え小林さんの本を買うのは相当久しぶり。しかし、読み終えて感ずるのはむしろ岡潔さんの強烈な個性だ。この本は、岡潔の「情」という概念を巡って行われている。小林さんは、どちらかというと岡さんの文脈にそって自分の考えを披瀝しているのだが、岡さんは相手のことよりもまずは自分の考えの上を突っ走る。その思考は、この「情」という概念を理解しないと突飛すぎて何の事か分からないという人も多いだろうと思う。さすがに、そこは小林秀雄で、相手のある意味無秩序で独特な言い回しを適切にとらえて分かりやすく交通整理してくれている。岡潔さんの「情」は、知よりも先にある何かであり、『野生の科学』で中沢さんが問題にしている対称性や、僕の表現の考え方ともとても関係が深い。そういえば、中沢さんもどこかで岡潔をとりあげていたと思う。この「情」の概念は、概念というよりも岡さんの思想といったほうがいいのかもしれないが、この思想が、すでに50年近く前に語られていて、それからあまり世の中変わっていないのが本当に残念だ。いま、日本のあらゆるところで行き詰まっている根底には、この「情」についての無理解が横たわっているとも言えるのではないかと思うほど。岡さんの発言も、徹底していて特攻隊の礼賛までいくので、無理解な層からはいらぬ反論も受けるだろうし、宗教学者としての中沢さん同様、危ない思想としてくくられてしまうようなラジカルさがあって、万人に受け入れられるものでもなかったということだろう。

文庫化されたのは比較的最近でも、初出は1965年、当然、小林さんの全集にも収録されているので読んでいる人も多いと思う。意外なことに、内容はほとんど古びていない。むしろ、先行きが見えないスーパーストリングや重力理論の理論家などの刺激になるのではないかと思ったりもする。たとえば。

 われわれの自然科学ですが、人は、素朴な心に自然はほんとうにあると思っていますが、ほんとうに自然があるかどうかはわからない。自然があるということを証明するのは、現在理性の世界といわれている範疇ではできないのです。自然があるということだけでなく、数というものがあるということを、知性の世界だけでは証明できないのです。数学は知性の世界だけに存在しうると考えてきたのですが、そうでないということが、ごく近ごろわかったのですけれども、そういう意味にみながとっているかどうか。(略)数学は知性の世界だけに存在しうるものではない、何を入れなければ成り立たぬかというと、感情を入れなければ成り立たぬ。ところが、感情を入れたら、学問の独立はありえませんから、少くとも数学だけは成立するといえたらと思いますが、それも言えないのです。(p.38)

 理性というのは、対立的、機械的に働かすことしかできませんし、知っているものから順々に知らぬものに及ぶという働き方しかできません。本当の心が理性を道具として使えば、正しい使い方だと思います。われわれの目で見ては、自他の対立が順々にしかわからない。ところが、知らないものを知るには、飛躍的にしかわからない。ですから知るためには捨てよというのはまことに正しい言い方です。理性は捨てることを肯じえない。理性はまったく純粋な意味で知らないものを知ることはできない。つまり理性のなかを泳いでいるということがわからない。(p.147)

1つ目の引用は、具体的に何の事を言っているのかは簡単に説明されているところもあるのだが、正直に言えば、どういった数学についての事実を言っているのかよく分からない。でも、言わんとすることはよくわかる。数学も言葉だとするなら、それには「自己表出」があるのかもしれないのだ。2つ目の引用は、最近、セレンディピティとして言及されることが多い発見に関する法則性だ。セレンディピティは、ホンダでの経験に基づいて執筆された久米 是志さんの、『「ひらめき」の設計図 』から教わった。





技術の現場でも、創造的な作業においては、発見や創出は無意識の領域からやってくることを説明されていて大変感銘を受けた(amazonでは品切れのようだが、名著だと思うので多くの技術者に読んでほしい)。岡さんが言っているのも同じことだ。理性でできることは、知っていることだけだ。この飛躍が芸術家や詩人だけの特権でないのはなぜか、それが人間の本質だからだ。岡さんは、それを明確に言い切っている。

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2013年3月 6日 (水)

『野生の科学』 中沢新一 (1)

この本について、何から書き始めたらいいだろうか。本書は、僕が学生時代から30年くらい考え続けてきたこととほとんど同じ問題について、僕がやろうとしていることとは少し違うことを実現しようとしている本だからだ。率直に言って、ある面では先をこされたという感じがある。しかし、一方で、初めて同じ問題を考えている先行者を見つけて舞い上がるような気持ちでいっぱいなのだ。なんでかって、こんなことを考えているのは世界でも自分くらいなんじゃないかというくらい、この30年間、このことについて書かれたものを見た事がなかったからだ(このサイトは、実はそのために開設したようなものだ)。中沢さんが対称性という言葉を使い、あたかも自発的対称性の破れのようにして人間の観念の世界が無意識と意識のふたつの世界に分離していく様を描き、その考え方を用いて様々な問題に取り組んでいるのはここ数年非常に注目して見てきた。そうした中沢さんの業績には、対称性人類学について書かれたカイエ・ソバージュのシリーズが何かの賞を取ったころに気づいたのではなかったっけ。初めて対称性人類学を読んだときの感激は、おそらく中沢さんは僕が吉本隆明さんから受け取った表現の概念をかなり正確につかんでいると推測させるものだった。

今、本書を読んで、最初の章と最後に付録としてつけられた自然史過程についての文章を読んで確信に至った。これは、僕がやろうとしていたことと80%くらい同じ考え方にたっている。残りの20%くらいは、おそらく違うところがある。だから、今更、僕が何を付け加えたらいいだろうとは思わない。しかし、中沢さんが既になしたことを明らかにして、同じことを繰り返さずにさらに先を目指すことは意味がある。しばらく、続けて、深くこの本に入って行くこととしたい。基本的な概念や方法は、いくつかのシンプルな道具立てに集約される。それらは、簡単といえば簡単な道具だけれども、とてもパワフルだ。僕が付け加えられるものが何かについて、終わりまでに明らかにできるとなおよいと思う。なお、前回、中澤佑二さんの本について書いた次に中沢新一さんなのはただの偶然。  (2013.03.10 修正)

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2013年3月 2日 (土)

『自分を動かす言葉』 中澤 佑二

あまりというかほとんどタレント本の類いは買わないし読まないのだが、時々スポーツ選手の書いたものを読むことがある。この本は、バスの待ち時間に書店につまれているものを手に取って眺めているうちにバスが出る時刻が近づき、なんとなくもう少し読んでみたい気持ちにかられて買ってきたものだ。僕は、長年のサッカーファンというわけでもなくて、子供の頃、つまり釜本選手やペレの時代、『赤き血のイレブン』が放映されていた時代に少し関心があった程度で、基本、野球少年だったので、ワールドカップの出場をあと一歩で逃したあのドバイの試合前後からのにわかファンに過ぎないのだが、それでも何度も試合を見ているうちにお気に入りの選手というのはできるもので、中澤選手はそのひとりだ。

僕個人としては、サッカーの選手の発言は、試合の前後のインタビューくらいしか接する機会はないわけだが、いつも感ずるのはある種の折り目正しさというか、優等生的な発言というか、妙な真面目さの裏にあるひ弱さだ。怒らないで読んでほしいのだが、正直、ちょっと精神的なひ弱さをいつも感じるのだ。 “キング・カズ” ですら。これは、別に、プロとしての自覚にかけるとか打たれ弱そうだとかいう意味ではなくて、むしろその反対なのだが、つまり、その職業にたずさわる人として当然求められることについては前面に出さないのが男らしさだと捉えている僕のような人間は、臆面もなくそうしたことを口に出す人々を見ると、かっこわるいやつらだと見えてしまうのだ。真面目が過ぎると嘘くさくなるということもあるし。かといって、試合後のインタビューで、そういう発言を残して、さっといなくなる選手をかっこいいじゃんと思わない訳でもないのが一応にわかファンの二律背反で、ただ、サッカー選手はちょっとくらいジョークとか言ってもいいじゃんかと思うくらいの事であって、悪気はないので、ほんとに悪く思うなよ。そういう意味では、野球なんかもっと馬鹿丸出しだから気にすんなよ、ほんと。

そんなわけで、中澤選手のこの本も、サッカー選手として自分はこうあるべきだという理想像を「言葉」の観点から定義し、より高いところへ行く意思を漫々とたたえつつ、後輩や他業種で働く人々にも参考になる一種のビジネス啓蒙書のような出来上がりになっている。せっかくだから、いくつか引用してみよう。

「お前には無理だよ」と言うひとのことを聞いてはならない。
もし、自分で何かを成し遂げたかったら、できなかったときに 他人のせいにしないで、自分のせいにしなさい。
多くの人が、僕にも「お前には無理だよ」と言った。
彼らは、君に成功してほしくないんだ。
なぜなら、彼らは成功できなかったから。
途中であきらめてしまったから。
だから、君にもその夢をあきらめてほしいんだよ。
決してあきらめては駄目だ。
自分のまわりをエネルギーであふれたしっかりした 考え方を持っている人で固めなさい。
自分のまわりをプラス思考の人で固めなさい。
近くに誰か憧れる人がいたら、その人のアドバイスを求めなさい。
君の人生を変えることができるのは君だけだ。
君の夢が何であれ、それにまっすぐ向かって行くんだ。
君は、幸せになるために生まれてきたんだから。
」(p.64)

 ブラスのエネルギーよりもマイナスのエネルギーの方が周りに伝播しやすいんだ。マイナスのエネルギーを発する人のそばに行かないだけじゃなく、自分自身がプラスのエネルギーを発することができる人間になろう。(p.68)

 「お前たちはバカだ」と言われた時にどうするか。  僕はそこでしっかりとファイティングポーズを取れる人間、自分だって本気でこの仕事をしているんだ、と誇れる人間でありたいと強く思う。 (p.90)

 不安をどうにかする、という発想ではなく、不安を持ったうえで、毎日をどう乗り切るか。(p.100)

最初の長い引用は、マジック・ジョンソンの言葉だそうだ。本書では、繰り返し、自分はサッカーがうまくないので、という言葉が出てくる。ナショナル・チームのキャブテンにまでなった選手も、もともとは、無名選手だったのだ。しかし、これも繰り返し出てくるのだが、彼は中澤選手はプロになってワールドカップに出場するという夢を一度も手放さなかったという。誰に何を言われようが自分を変えない人間が僕は大好きだ。

もうひとつ。僕は、サッカー選手では、三浦知良という選手に昔から感心することがひとつある。カズの発言を聞いていると、彼はいつも徹底して1人のプレイヤーであることにこだわりながら、常に、日本のサッカー全体のことを考えているのだ。三浦知良は、ただ単にサッカーのプレイヤーなのではなくて、日本のサッカー界を支える1人であることを強烈に意識し、実践しているのだ。三浦選手がキングとよばれるのは僕のような人間にも少しは分かる。彼は、まぎれも無くパイオニアであり、第一人者なのだ。中澤選手も、この点では、三浦選手とまったく同じだ。自分のことだけでなく、日本のサッカー界のためをつねに考えている。僕のようなIT業界の人間も、実は、そういうことを考えないでもないのだが、何しろ、背負っている重みが違い過ぎる。発言が、上述のようにどこかで優等生的になるのも仕方ないことなのかもしれない。

それにしても、一流選手が、どれだけ節制し、訓練し、考えていることか。中澤選手は、引退するまで酒を飲まないことにしているのだという。元々あまり飲めない質らしいのだが、それにしても僕にはとてもまねできない。早寝早起き。飲み会も断り、打ち上げでもウーロン茶を飲むのだと言う。場がしらけようが、貫き通すことで、次第にまわりの理解を獲得していく。それが、自分の目的に照らして必要なら、絶対に自分をまげないのだ。一流選手なら当たり前なのかもしれないが、それでも、繰り返して言うが、周りがなんと言おうが自分を変えない人間が僕は大好きだ。

中澤選手があげる「言葉」は、マジック・ジョンソンのようにまとまった意味のある言葉ばかりではない。名波選手がかけてくれる、「ナイス・シュート」とか。何気ない言葉でも、そのタイミングや、背景にある哲学が作る重みなどをきちんと聞き分けて受け止めているのだ。なんて感性の優れた選手なんだろうと思う。本書は、特に若いビジネス・パースンにすすめる。もちろん、アスリートにも。いろいろ迷っている人は、きっと参考になるだろう。本書に書かれているくらいのことは、経験もし、考えもし、いろいろひねくれてここに至っているという大人も多いだろうけど、このひたむきさに接すると、忘れているものを思い出す事もあるかもしれない。読んでいて悪い感じはしなかった。この調子なら日本のサッカーは、まだまだ進化するだろうと思う。ただ、もうちょっと、メディア相手に冗談かます余裕は身につけような。

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