« 『城南信用金庫の「脱原発」宣言』 城南信用金庫理事長 吉原 毅 | トップページ | 『ラーメン・ガール』ロバート・アラン・アッカーマン (監督) »

2012年11月 5日 (月)

『愛を読むひと』 監督:スティーヴン・ダルドリー

原作が評判になっていた時に読んだ作品が映画化されたとき、少し見てみようかという気にもなったのだが、西欧社会がナチの残党に対して戦後何十年もの間執拗に追いつめてきた歴史にはどこかしら嫌なものがあり、原作の『朗読者』が、まさにそのいやな部分に焦点を当てた作品だっただけに気乗りしなかったのも事実で、今回が初見となった。 そのいやな部分が何かなのだけど、それはアメリカのギャグマンガのつまらなさなんかとも似ていて、要するにどこかに圧倒的優位にたつものの解放する暴力のにおいのようなものだと言ったらいいだろうか。それが悪であれ正義であれ。ハリウッド製の戦争映画や犯罪映画の大半に顕著なのは、正義の暴力である。ダーティー・ハリーは言わずもがな。スターウォーズだってディズニー映画だって例外じゃない。しかも、それらは、それほど根拠のある正しさじゃない。というよりも、正義なんだからという理由で暴力が肯定されていることが問題であるということに一瞥すらされていないのがそうした作品なのだ。 原作の『朗読者』は、そうした暴力的な正義に対する告発というほどではないとしても、強い違和感を静かに主張した作品だったと思うのだが(しかも、そういう異議申し立ては巧妙に隠されてナチの犯罪が生んだ悲劇であるかのように偽装されている)、映画ではその偽装された悲劇の方に比重がおかれてしまっている。文盲であることによる悲劇がナチの犯罪と二重写しにされ、救いようのない主人公の人生を中心にドラマは進行する。見るものは、自然とケイト・ウィンスレットの悲劇にひきつけられるし、自然とそれがナチの生んだ悲劇の典型であるかのように思わされてしまう。 しかし、本当にそうなのだろうか。戦争犯罪の追求は結構だ。しかし、僕自身は、日本の戦犯が死によってその罪をつぐない多くの名もなき民衆と同じ戦争犠牲者の記念碑に名前を刻まれることをそれほど気にしない人間だ。死によって罪をつぐなったのだから、それ以降はただの名もなき人として戦犯といえども弔われてもよいのではないかいう気が強くするようなタイプの人間なのだ。本作に描かれているような事情なら、本当にこの元看守の女性は生涯の大半を刑務所で過ごさなければならなかったのだろうか?人は、生きていく上で好むと好まざるとに関わらず、ある立場に立たされることがある。立場は、選択の問題としてだけではなく、強制的にもふりかかってくる。だが、逃げようもないのだとしたら、それは犯罪なのか?原作から僕が読み取ったのは、そのことに関する静かな問題提起である。文字が読めない女性を通じて、著者は、事情もわからずに事態に加担したことの是非について問うていたのではなかったか。 時代に翻弄されてといえばまとまりはよいが、実際のところ戦争犯罪を個人に問うことの限界というものは自ずから存在するのだ。映画は、この点については少し曖昧にしているというのが僕の感想だ。この少しの違和感が本作を傑作と呼ぶのを躊躇させる。たいへん惜しいといわざるをえない。主演のケイト・ウィンスレットはその女性を好演していて(現に多くの賞をとっているようだ)、非常に印象に残る。その最後の決意のありようは、少しエレファント・マンの最後とも重なるところがある。いずれにせよ、それは西欧社会にとけ込むことの不可能性に対する諦めとそれを諦めたことからくる平静なのだ。 しかし、それよりも、女性の住む監房が、少しおしゃれなワンルーム・マンションのようなのには軽い衝撃がある。この暮らしなら、自分よりぜんぜんいいんじゃないかという人は相当いると思うぞ。今の日本には。 (11/6 少し追記)

|

« 『城南信用金庫の「脱原発」宣言』 城南信用金庫理事長 吉原 毅 | トップページ | 『ラーメン・ガール』ロバート・アラン・アッカーマン (監督) »

映画」カテゴリの記事

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『愛を読むひと』 監督:スティーヴン・ダルドリー:

« 『城南信用金庫の「脱原発」宣言』 城南信用金庫理事長 吉原 毅 | トップページ | 『ラーメン・ガール』ロバート・アラン・アッカーマン (監督) »