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2011年11月13日 (日)

『科学技術と現代政治』佐々木力

 著者は、東大の科学史・科学哲学研究室の教授で、自らトロツキストだと述べている。ソ連の崩壊以降、左翼だとか共産主義だとかの言葉は死滅し、あたかも何もなかったかのように語り振舞う言論人が多く、あれはいったいどうなったんだと思っている人も多いのではないかと思うが、かつての社会主義的な思想がエコロジーへ流れ込んで装いも新たに生きながらえているのはよく見る。反原発運動も、元々は相当政治ががっていたものが一見政治色なく再登場したりしている状況もあり、非常にわかりにくいが、それは確かに亡霊のように生き残っているのだ。原発、環境以外では、フェミニズム、少数民族問題、差別、地域格差、農業問題、沖縄基地問題など、要するに現代の抱える様々な矛盾にあわせて分裂して個々の課題に即した表現の中に残渣を残しながら細々と生きながらえているというのが今の「左翼」というのが僕の観測である。本書は、まさにその生きた実例じゃないかと思う。最後はおあつらえむきに環境社会主義を提唱してくれているので、ちょっと吹き出しそうになるほどだ。

 ここまでの説明で、相当数の人がこの本を手に取ることなく通り過ぎることだろうと思う。書店でもどれだけの人が振り返るだろうか。実際、労働組合の人々への講演を収録した本書の後半、環境社会主義の提唱や労働者と資本という対立の構図をいまだに引きずっているかのような説明に出会うと、読み飛ばしたくもなる。しかし、核エネルギーに対する著者の意見はこれまで当ブログで考えてきたことに近く、反対するところはあまりない。あまり賛同できない環境社会主義の箇所は端折って少し紹介してみたい。

 なお、余計な断り書きかもしれないけど、僕は、レーニンのロシア革命を正当に受け継いでいたのはどちらかといえばトロツキーであり、スターリン以降のソ連の指導者ではないと普通に考えている。トロツキーを暗殺したソビエト連邦に象徴される東側の国々は、結局のところ民衆を解放しなかった。どんなごたくを並べたところで、その点においてだめなのは既に結果から明らかだ。しかし、トロツキーのビジョンには、ソビエト連邦のような共産党=国家管理の「社会主義」はなかったし、レーニンがリードした革命の動機にトロツキーは忠実だったと思う。『裏切られた革命』を読むと、そういうトロツキーの真面目さというのがよく分る。しかし、共産主義も社会主義も、トロツキーがまじめに考えたようには一度も実現されなかった。なぜそうしたまじめな革命の理念が裏切られるのかについては、よく考える必要があるし、それ以前にマルクスすら亡霊としてしか現れることができない状況の中で僕自身はとても恥ずかしくてこれからトロツキストになろうなどという気にはなれないのだが、トロツキストを名乗る著者の核エネルギーに関する主張については特に先入見も抱かずに読んだことを一応断っておきたい。こんなことを書くと、ここらで、またいくらかの人が立ち去りそうだが、まあいいや。

 本書は、いくつかの講演の記録である。まずは、帝国主義についての説明から入ろう。

「帝国主義」という言葉の意味について考察しておきましょう。「帝国主義」とは、一般に強力な中軸的政体が周辺部になんらかの意味で支配的影響を及ぼし、広域の影響が及ぶ地域を作ろうとする思想ないしその現実の動きのことを意味します。ポストコロニアリズムの今日では、「帝国主義」というと当初から悪い意味をもっていたものと思われがちですが、本来はそうではなく、「帝国主義者」自身が善かれと思っていたことにご注意ください。

よかれと思っていたというのはどうなんだろうかと思うのだが、このあとで、キリスト教という倫理的確信に基づく「倫理的帝国主義」という概念が出てくるので納得する。キリスト教的善意の押し売りを建前にした世界進出をそう呼んでいるのだ。それから、病原菌、植物、動物などの移植を背景にした「エコロジー帝国主義」、永続的技術革新に支えられた圧倒的優位の軍事力に基づく「技術帝国主義」、純粋科学ですら帝国主義的な機能をもつことを主張する「科学帝国主義」、ひいては高い文化をもつ共同体が相対的に低い文化をもつ地域を従属させてしまう「文化帝国主義」と帝国主義のオンパレードである。さすが、トロツキストである。いずれもなかば比喩として使われている言葉だと思っているのだが、比喩としてではなく、本気で定義を与えるのなら帝国主義の本質とは何かをもう少し精密に言ってくれないとという気がする。つまり、帝国とは何か、国家とは何かという点について不問にしたまま帝国主義を乱発されても比喩にしか聞こえないということだ(申し訳ないが、上に引用した定義では話にならない)。自分の勢力をともかく海外にむけて延ばそうとする強引さのある動きは全て帝国主義で片付けられる気がしてくるからだ。もちろん、昨今では、グローバリズムが帝国主義という言葉に入れ替わっているし、帝国主義という言葉もムードでしかなくなっているのだが。
 原子力技術は、このような技術や科学の帝国主義的な文脈で著者には捉えられている。帝国主義的な圧力の元で、高度な技術は、その社会を支えている社会思想や政治思想と密接に関係しながら制度化される。とくに、日本では、「プルトニウムを利用しての高速増殖炉路線までも貫徹しようとする意思において」原子力テクノロジーの制度化は国際的に見ても奇異だと著者は言う。元々、原子力は一民間企業が背負いきれる技術ではないから、何らかの形で国家が関与する。純粋に科学技術として行なわれている外で、国家により制度化されて社会に適用される。

アルヴィン・M・ワインバーグというすぐれた原子物理学者はかつて「社会制度と核エネルギー」(一九七二年)という論考の中で、「われわれ核に携わる人間は社会とファウスト的取引をしてきたのである」と書いています。すなわち、核技術は膨大なエネルギーを人間に提供するのと引き替えに、その技術を維持するための堅固な「社会制度」を必要とするのだ、というのです。そう、「ファウスト的英雄」と見なされている「核人間」も科学技術者としての十全な人間的責任を負いえてこそ、社会的地位を保証されている存在なのです。重大な事故を起こせば、それなりの責任をとらなければならないのが「ファウスト的取引」に従事している者が追うべき当然の責務なはずです。

ユンクは『千の太陽よりも明るく』(一九五六年)という原子爆弾の誕生にかかわった物理学者たちについての著書を世に問うたことで、もっと有名かもしれません。しかし、それよりも私にとっては彼の著書『原子力帝国』が大きな意味をもっているように思われました。チェルノブイリ以後においてさえ、わが国に厳然と実在している政体は、『原子力帝国』という書物が特徴づけている「原子力帝国(アトムシュタート 原書はルビ 注)」という反民主主義的な国家形態そのものではないかと考えたからにほかなりません。現実に精読してみて、大原発事故が起こる前の一九七七年に公刊されたこの書は、その後の原子力テクノロジーに関連して起こった事件のほとんどを予見しています。この書物は「硬直した道」というタイトルを伴った「序」から書き出され,「柔軟な道」という「展望」で締めくくられています。ユンクによれば、批判的市民が脱原子力のための民主主義的な方途を選択するのが「柔軟な道」なわけです。戦後日本は「硬直した道」をたどり続けたがゆえに、今日の「原子力帝国」の様相を呈するにいたっているわけです。

ここまでは、日本に特有な話しではない。「硬直した道」として批判される原子力を推進する「帝国」は、何も日本固有の現象ではないのだが、ここに日本の無責任体制の特色が加わるともう引き返すことも難しい特殊な状況が生まれる。著者は、その説明のために丸山真男を足がかりに、次のように書く。

日本型ファシズムにおいては、無謀なプランによる戦略が、責任の所在を曖昧にさせたまま、大胆な足取りで遂行されます。自らの言動のすべての根拠を天皇に帰す一方、その天皇も究極的に責任をとれる存在ではないというシステムになっているのです。丸山は東条らの政治思想を特徴づけて言います。「慎ましやかな内面性もなければ、むき出しの権力性もない。すべてが騒々しいが、同時にすべてが小心翼々としている」。さらに、丸山は指弾の手をゆるめません。「ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているにちがいない。然るに我が国の場合にはこれだけの大戦争を起こしながら、我こそ戦争を起こしたという意識がこれまでの所、どこにも見られないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。我が国の不幸は寡頭勢力によって国政が左右されていただけでなく、寡頭勢力がまさにその事の意識なり自覚なりを持たなかったということに倍加されるのである。」(太字は傍点 注)

 こうしてかつての「無責任」極まる戦争遂行政策が、資源エネルギーに関する「国策」をめぐって立てられたことが分かります。世界の「孤児」的存在になってのことです。

 そこで、現代日本の原子力政策に再度帰ることにいたしましょう。それは、無資源国であるがゆえに「国策」として構想され、世界の「孤児」的存在となっても維持されているのです。日本の兵士と軍事技術は例外的に優秀だという声も、戦前・戦中の日本で聞かれなかったでしょうか?構造的なアナロジーが成り立つ、と私は確信いたします。原爆を投下された日本は、いつのまにか「世界に冠たる原子力帝国(アトムシュタート 原文はルビ 注)」に変容を遂げてしまっているのです。東海村での臨界事故の直後、村役場の首脳は、国の無策・無責任ぶりを見て、こう吐露したと言います。「村は、これまで国を信頼し、四十年やってきた。これを無にするつもりだろうか。国に見捨てられたような状態としか言いようがない」。「原子力帝国」は、新たな「棄民」をも産み出しているようです。今回ばかりは単純な彌縫策では問題は解決しそうに思われません。

原子力政策が「国策」として維持される一方、具体的な運営は民間が担う「国策民営」体制(原子力委員会の藤家洋一委員長代理の言葉)が、わが国の基本的な原子力推進体制の枠組みであり、ここに「無責任さ」の根源があると説明されている。JCOの事故の時に行政から発せられた根拠のない「大丈夫」だという発言の例をひき、その言葉は、「大丈夫」、すなわち「問題ない」ではなく、実際には責任をとれる人が不在で、対処するすべがない場合の言葉であることを指摘している。おそらく、大丈夫と言っている当事者が、いったいこの事態の責任は誰がとれるのだと考えているに違いない。こういった点は福島もまるで同じだ。責任をとる体制が「存在していない」のだから。本書で描かれている原子力帝国は、日本にきて原子力村になったと見てほぼ構わないのではないかと思う。

 このような視点から、原子力技術は、利益だけでなく制度化後の「報復作用」までを考えた場合、社会から葬り去るか、根底から規制する他ない「フランケンシュタイン・テクノロジー」に過ぎないと佐々木さんは断言している。先端科学技術に伴う事故は、技術もそれを操作する人間も原理的に完全にはなりえないという理由から、いわば”構造的に”起こる。従って、先端テクノロジーには、その高度さに見合ったフェイルセイフ機構を幾重にも備えていなければならないが、一方でそうした機構の構築が極めて困難であるという矛盾を抱えている。僕の解釈を交えて敷衍すれば、原子力発電は、100%に近い安全性が求められる危険性の高い発電方式なのに、望まれる機能を提供するためには、100%の安全性についてはどこかで諦めない限り導入が困難になってしまうというジレンマがあるのだ。原子力技術者は、おそらくどこかでこの真実と外部に広報している説明との落差を飲み込んだ体験があるに違いない。それに自覚的か、そうでないかの違いはあるにせよ。事実として、どこかで、試行錯誤の要素を持たないプラントは過去存在していないのではないかと、様々な証言から僕は推測している。
 武谷三男さんが指摘していたように、原子力発電はそのような未成熟な技術なのだが、しかし、それを成熟させるためには多くの犠牲が必要になる。宇宙開発もその初期の有人飛行は危険性が高く主として軍人が搭乗したが、原発はそのような軍関係者の努力により何とか使い物になった状態ですぐに民生用に転用されてしまっており、潜在的に含まれる危険性については当事者はよく理解していながら、それをあれやこれやの方法で隠蔽しながら計画を進めてきたのが原子力発電に関するこれまでの歴史だといっていいと思う。そのような困難があることは、百も承知なのだ。結局のところ軍事技術の延長上にある技術は、関係者のリスクを前提としてしか成立しないし、その関係者に一般の住民が含まれる以上、このようなものを民生用として運営していくことは不可能だというのが、武谷三男さんの立場だったと思う。軍事技術出身だというなら、逆に、そうした管理方式の元で軍隊式の厳格な管理をやればまだ使うこともできるのかもしれないが、日本的な政治風土の中では、その軍事技術的・帝国主義的な制度すら煮え切らない。つまり、特に日本においては、現実の問題として、こんなテクノロジーは誰も担いきることができないのだ。

 佐々木さんは、このようなテクノロジーを捨てて向かう先として、環境社会主義という概念を提唱し、「私たちのライフスタイル、自然科学ないし技術の研究のめざす方向性、生産や消費や廃棄物のあり方など、さまざまなこと総体に関して環境やエネルギーを念頭に置いた思考法の転換」、すなわち、グローバルな思考の転換を含む「環境資源的転回」が必要で、そのためには、支配権力の政策に反対を唱えているだけでは不十分で、将来の政策として十分現実的な代替案を提示する必要があり、テクノロジー批判を前提とした「批判的テクノロジー」の建設的創造にまで進まなければならないと主張している。「批判的テクノロジー」は、個々に開発されるだけではなく、そうしたテクノロジーが明確な全地球的なビジョンとそれを支える社会システムによって裏打ちされていなければならないとしている。
 ウィリアム・モリスを先駆として説明されるこうした考え方が一面の真実を含みながらも、多分にご都合主義的な安易さを感じさせるものだということは「感想として」言っておきたい。結局のところ、帝国も国家もよく理解されていないことがこのような安易な概念を生んでいる原因ではないかと推測する。詳しく知りたい方は、この本を読まれたらよいと思う。結論は不満だが、問題の所在は指し示されていると僕は思う。また、今は、イデオロギーの中に踏み込んで、複数の領土を結びつけ、差異を無視し、いいところをとりあげ、どうしようもないところは切り捨てるということを数限りなくやらなければならない局面だ。自分の考えに近い著者の本ばかり読まないことは重要だと思うよ。

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