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2011年10月 9日 (日)

『原子力発電』 武谷三男編

本書の主張は、原子力発電は未熟な技術である、というところに集約される。どうしてもそれを使わなければならない科学的根拠の希薄さと、技術的な完成度を考えた場合、研究対象ではあっても、実運用に投入すべきものにはまだなっていないという主張である。その上で、対応方針として、新規開発の中止と既存の施設は出力を低く抑制し万が一事故が起っても放射能の大量放出に至らないようにする事が提案されている。30年以上前の本だが、今問題になっている原子炉はその頃建設されたものも多くあり、ほとんど時代差を考慮する必要はない。本書だけでも原子力発電の問題点は十分に理解できると思う。もちろん、使われている単位系や資料類、データ・統計の類は古くなっているわけだが、本質においては何も古くなっていない。この本は、まだ現役で販売されているようなので原発の問題に関心があるなら是非読まれることを勧める。

本書の成り立ちだが、原子力安全問題研究会(小野周、武谷三男、中島篤之助、藤本陽一)で、岩波の『科学』に1972-1974にわたって連載された内容にいくつかの論文を加えて出版された『原子力発電の安全性』を踏まえて、一般向けに読みやすいものとして書かれたものだそうだ。研究会のメンバーに河合武が加わって分担執筆したものを主として武谷の意見に基づいて藤本陽一がまとめ書き直したものとのこと。武谷三男編というのはそのようにとらえる必要がある。

目次は次のようになっている。

序にかえて  武谷三男
Ⅰ つきまとう死の灰
Ⅱ 原子力発電のしくみ
Ⅲ ますます厳しくなる許容量
Ⅳ 原子力発電の事故
Ⅴ 巨大化の問題点
Ⅵ 日本の原子力発電は
Ⅶ クローズド・システムは可能か
Ⅷ どうしても原子力か
編者あとがき

本書で主張されていることには反論も多かったのではないかと思うが、現実がその正しさを裏書きしてしまっている。気のついた順にまとめてこう。

(1)ECCS(緊急炉心冷却装置)
アメリカ物理学会は、その効果に疑問を投げかける報告書を1975年に公表しているのだそうだ。実験的に確認することが困難な装置だけに、当時の段階でもその有効性は机上の計算で示されているだけだったという。

「原子炉やECCSの動作をモデル化し、そのモデルについて大型電子計算機で計算して、その結果にもっぱら基礎をおいているにすぎない。このような計算は「シミュレーション(模擬計算)と呼ばれ、巨大技術を展開する場合にあちらこちらでよく使われている方法である。計算機が出した答えというと、実際のテスト以上に信頼できるという錯覚に陥りがちであるが、実はモデルや条件の取り方によって答えは大きく変わることが多く、その結果が全く実物に合わないという場合もまれではないのである。」

これは、『思想としての3.11』についての書評で、「想定外」についての誤解について触れたおりに僕が書いたことそのままである。合わせて読んでいただけたらと思う。もちろん、こんなことは巨大技術に携わる技術者なら常識に属することだと思う。それはともかく、ECCSについてのシミュレーションがなぜだめかについては、PWR型の原発に関する訴訟で明らかにされた計算結果を踏まえて、丁寧に説明されている。

「しかし、現在の大型計算機(IBMや富士通のいわゆるメインフレームですね: 注)では、それほど複雑でなくても、三次元の流体の運動の問題を解くことは相当に困難である。したがって、複雑な冷却水回路のようなものをまともに扱うことは不可能である。実際には、冷却水回路全体をわずか六三の代表点で表わし、それぞれの代表点の温度と圧力のつり合いを求めてゆくという方法をとっている。そのうえ、炉心にはたくさんの燃料棒があって、流体が非常に複雑な運動をするはずであるが、その肝心な炉心がたった二つの代表点で表わされているだけである。・・」

結論として、実験結果とつきあわせしながら実験式を洗練させていく過程を辛抱強くたどらない限り、信頼できるシミュレーションなどできようもないのだと言い切っている。しかし、そのフルスケールのモデルで実際に事故を起こしながらデータ取りをするのは実質的に不可能である。また、1976年当時といえば、今のパソコンのCPUと比較しても処理能力はおそらく500-1000分の一くらいである。流体というとナビエ-ストークス方程式を解く事になると思うが、これはまさに現在のスーパーコンピュータのメイン・アプリケーションである。70年代のコンピュータでは、いかんせん無理がある。

また、ECCSは、幅広い研究からの成果として成熟した技術としてではなく、原子炉のスケールアップや都市の近傍での運転の必要性というニーズから、まずは形を作って後から実証するという形で開発順序の逆転が起っているという指摘は重要である。ビジネスの目標にひきずられてシステムがいびつな形をとることは、一般的にもよくあることだ。思い当たる経験をもつ技術者は沢山居ると思う。つまり、そのような普通の開発が原発でも行われていたということだ。こういう場合にありがちなのは、詳細な議論をつぶし安全性に関する説明をECCSというマジック・ワードに集中させ人々に思考させないようにする説明アプローチである。そんなものに大した実態はない、というのが通り相場である。

(2)低線量被曝
この問題も既に扱われている。というより、当時の議論を現在でもまったくなぞっていると言っていいのではないか。

「自然放射線の存在は私達のコントロールできぬものであるが、それと比較して人口放射線の許容レベルを論じようという話が横行している。
 よくいわれるのは、人間は自然放射線と長い歴史を共にしてきたのだから、自然放射線のレベルまでの被曝であれば有為な障害はひきおこすはずがないという主張である。原水爆実験の時にもアメリカ側の主張は、自然放射線をひきあいに出して、原水爆実験の死の灰の影響はそれに比べて小さいから騒ぐ方がおかしいというのであった。」

しかし、問題は人間にとって有害なものとの間でバランスしているということが重要であり、これを無視して有害な物質を追加すればバランスが崩れて取り返しのつかないことになることは多くの公害の例から経験的に知っていると本書は述べる。いわゆる晩発性障害についても議論されていて、微量・長期のもたらす問題の予測が困難であること、実際にがんになっても他の原因との区別が困難であることが述べられている。

(3)ラスムッセン報告と確率論批判
ラスムッセン報告とは、1974年(リンク先の文書は1975年となっている)に公表された軽水炉についての事故の発生確率を検討した報告書である。これは、ECCSの信頼性が分らない中で新規の原子炉開発を行っても良いかを判断するために作られたもののようだ。使われている手法は、「イベント・ツリー(以下、ETと略す)」と「フォールト・ツリー(以下、FTと略す)」である。言葉では説明しにくいので、原書から図をはりつけてみる。

Rasm

これは、パイプ破断から始まるイベント・ツリーである。パイプが壊れた、電源は?電源もだめだ。ではECCSは?これもだめ。では、核分裂生成物質を取りのぞけるか?だめに決まってる。核燃料の閉じ込めは?もれちゃった。じゃ、だめじゃん。というのが、福島第一で起ったことな訳だが、これは一番下のPE8の確率というわけだ。その確率を求めるために、フォールト・ツリーという考え方を使う。システムを構成要素、部品にまでばらばらにして、それぞれの故障率の統計を元に全体の確率を出そうとするものだ。イベント・ツリーは企業戦略の検討などでもよく使う「決定の樹」と本質的には同じ、フォールト・ツリーはアポロ計画や軍事ロケットの故障解析で編み出されたものと書かれているが、前者はディシジョン・ツリー、後者はFTA(Fault Tree Analysis)として今でもよく使われるものだ。これに対する批判は、次の通り。

  1. この分析の前提は、設計と構築過程自体には欠陥がないことである。
  2. 要素分解には限界があるとともに、要素間の関係性の見落としにより共倒れ現象の可能性がもれてしまう。
  3. 部品の故障率が正しいかどうかわからない。これを支える品質管理の問題は取り込めない。
  4. 実際には多くの事故要因となりえるヒューマン・エラーについては取り込む事は不可能。
  5. アポロ計画でFTAを経験したエンジニアの証言では、全体の成功率を決めて個々の部品に品質要求を割り当てるようなやり方ではうまくいかず(それは結局机上の議論)、アポロ計画はテストを重ねて起った問題の原因を徹底調査してひとつずつ弱点を克服する事によってしか故障を減らせなかった。

この批判は、この種の分析が結論があって作られるものである事をよく示していると思う。シミュレーションが無力なのと一緒で、この種の分析もある技術上の課題点に着目して構成要素やサブシステムの安定性について評価する時に意味をなすのであって、系全体への適用は元々無理があるのだ。つまり、前提が明確における場合にだけこうしたシミュレーションだとか分析には意味があるということだ。決して万能の道具ではない。実際に、福島第一の事故に当てはめてみても、1)についてはGEの技術者の証言などがある、2)は自然災害時に起った事が「想定外」とされたまさにそのことに相当する、3)は関連することとして、予期していない金属の腐食の発生による障害の例が本書にも説明されている、また直接表面化していないが保守や点検における問題、装備不足等の問題が事故後指摘されているのはある面でプロジェクト品質の問題ととらえることもできる、4)についても災害の初期時点で操作員が緊急冷却装置を止めたという情報が伝わっている、また本書で例示されている構築時に巻き尺を炉内に忘れた事故や燃料棒にまつわる多くの事故など作業品質や製造品質にまつわる問題点は様々な形で報告がある。ラスムッセン報告は、別に福島を対象にしたわけではないが、この批判については十分に普遍性があると思う。

(4)原子力発電所の立地条件
アメリカで、TID14844という立地基準がまとめられているのは1962年である。考え方は、次の通り。

事故後二時間の間に全身に25レム以上の照射、あるいは甲状腺に300レム以上の照射をうける可能性のある場所は排除地域として、居住が認められず、ずっと住んでいて上記の線量をうける可能性のある場所は「低人口地帯」でなければならない。さらに、低人口地帯の境界までの距離の1.3倍以内に人口密集地帯があってはならない。

「基準の意味は明瞭であって、事故のときに逃げるのが間に合わない地域が排除地域とされてあって、その外側の低人口地域は、二時間以内の退避を可能とするということだ。」

25レムは、0.25SV=250mSv である。原発密集地帯の若狭湾に当てはめた図がのっているが、この基準にはまったく合格していないとのこと。では、他に適当な場所はあるのだろうか。ない、というのが本書の結論である(TID14844の考え方もその後変更されてきていることと思われるが、これについてはここでは追求しない)。人口密度が低く、大都市が近くになく、海岸の近くで、漁業との共存ができて、住民があまり文句を言わない土地柄。そのようにして選ばれているのが、福島、福井なのだという。また、一度建設されると二度目以降は比較的建設がやりやすいために密集化する傾向があるが、住民からしたらこんなひどいことはないと言われている。この立地の仕方を考えると、本当に日本の縮図を見る思いがする。つまり、事故がひとたび起きた場合には地方に犠牲者が出る事はいわば折り込み済みということだ。政府は、そんなことは決して言わないが、今回の事故の規模はそれこそ「想定外」だったに違いない。でなければ、金で解決することとされていたに違いないのだ。福島第一の事故は、そうした不謹慎な考え方に対して、根底から考え方を変更するように迫っていると僕は思う。

(5)原子炉燃料供給の問題
本書では、1960年代後半に突然のように巨大化し建設が加速した「軽水炉の大売り出し」は、濃縮ウランの供給を一手に握るアメリカ政府のエネルギー戦略の上にあると考えることもできると明快に説明されている。石油メジャーに代わってOPECが主導権を握り始めた石油市場にかわり、その運転のためには燃料となるウランの濃縮が不可避な原発を売り込み、主要なエネルギー源のひとつとして確立することでエネルギー分野での主導権を確保しようとしたものと見る訳だ。それまで、東西冷戦の構図の中で機密に類する扱いがなされていた原子力を俄に日本にまで売り込みにかかったのも多分、その流れからだろう。核エネルギーの導入にあたっては、首相レベルでの動きや民間での関わりなどいろいろの証言があるが、これは基地問題と同じで、結論が決まっていた案件と見た方が早いだろう。

「原水爆製造の巨大な設備をフルに和戦両用に活かして、世界のエネルギー支配を狙おうというのが、一九五三年のアイゼンハウアー大統領の「アトム・フォア・ピース」の世界戦略であった。この線が戦後三〇年を経た現在、ますます強化され拡大されているのであり、こうしてアメリカは、今後二一世紀までの四半世紀にわたって、この世界体制を続けようとしている。自主開発への努力を怠り、輸入の軽水型発電炉のマスプロ路線を続ける限り、日本はアメリカの濃縮ウラン世界戦略の中に組み込まれて抜け出せない。」

ウラン濃縮については、今はアメリカ独占ということでもなく、たとえばBWRの技術を改良して継続して維持しているのは日本だけだと言われているように、独自性も少しずつ育ってきていたところではあるのだが。

(6)核燃料の再処理施設の問題
日本では、東海村に再処理工場があるが、実験的な設備の規模しかなく、大半をフランスとイギリスに委託しているところなのは良く知られているところだと思う。核エネルギーの利用を環境の点から考えるならむしろ再処理工場における閉じ込めの問題の方が大きい。例の、非常に長期にわたる保管の問題である。これは、問題を先送りにするという解き方しか今の所解決方法がない類の問題である。つまり、本書の出版から30年以上立つのに、いまだに解決できていない問題なのだ。六ヶ所村については、言うまでもなく。

最後に、日本の原子力開発や原子力行政では、武谷さんなどが中心になって確立した基本三原則、「民主、自主、公開」の原則が守られず、極端な秘密主義がまかりとおっていると批判されている。「民主」についても同じだ。

「政府や業界に都合のよい科学者、技術者だけが委員会などに採用され、かれらの見通しは常に間違ってきた。正しい見通しをもってこれまでのやり方を批判してきた人々は外されたままである。」

「地元住民がその生活圏に原子力発電所をうけ入れるかどうか、一人一人の判断に必要な材料は、当然、提供されなければならない。抽象的に絶対安全・完全無害の宣伝をくり返し、具体的には商業秘密の名のもとに事実をひたかくしにする態度では話にもならない。また「民主」の原則がふみにじられ、原子力政策の間違いを指摘してきた科学者、技術者が外されたままでは、住民の信用をうることができないことは、原子力船「むつ」の事件できわめてはっきりしたとおりである。
 もともと電力産業は、日本ではいつの政府からも手厚い保護をうけ、その関心は中央政府にのみ向けられていて、地元住民はもとより、地域社会の開発と結びついた経験が、今までにほとんどないのである。」

「原子力発電の当事者、とくに電力会社などからは、むりしてでも原子力発電をしなければ、カラー・テレビが見れなくなるとか、ロウソクの生活にもどらなければならなくなるとかいう宣伝が流されているが、これは電力消費の実績からみて、全く事実を歪めた脅迫というほかない。日本の電力消費の内訳をみると、先進諸外国と比較して、一般家庭の消費が占める割合が著しく低いのが目につくのである。つまり、電力をうんと喰う、鉄・アルミなどの素材の製造に、大量の電力が安価に提供されていて、その生産は国内消費をはるか上まわり、大量に輸出されている。エネルギーの余っている資源国であればそれも一つの選択であるが、私達の日本は、とてもそのような条件にない。
 このような、これまでの産業・経済の政策から生じている社会のひずみ、エネルギー消費の不健全さ、電力会社の親方日の丸的な体質が改められる方向に進まない限り、私達は求める解決からはどんどん遠ざかってゆくであろう。
 そして、日本の原子力の二〇年の歴史を徹底的に再検討して、過去の一つ一つの誤った選択の原因と責任とを明確にすることが将来への第一の前提である。こうしてはじめて、三重苦(需要の停滞・技術的困難・コスト増 のこと :注)からの脱出の糸口が見出されよう。
 基本的に、「公開」「民主」「自主」の三原則を忠実にまもる以外に、日本の原子力の将来はなく、住民に納得される道もありえないのである。」

現在でも一般家庭の消費電力は、せいぜい20%程度だろう(なので、例の輪番停電だとかは一種の社会的なテロだと思うし、この夏の節電キャンペーンについても一般家庭を巻き込むのはいかがなものかと思った)。依然大口顧客だとはいえ、時代を反映して、鉄・アルミが一番の電力消費者だということはもはや言えないようだが、この点を除けば現在でもほとんどそのまま通用する処方箋なのではないか。二〇を五十五に替えればいいだけだ。つまりは、この三十五年間、僕たちはこの問題について何もしてこなかったというわけだ。

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