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2011年10月 5日 (水)

『死の灰』 武谷三男編

とうとう、震災から7ヶ月が経過した事になる。年内に冷温停止の見込みという理解し難い報道がつい先日あった。冷温停止というのは、放射能の閉じ込めができていればこそ意味のある言葉だ。関係者は、どういう思いでこの発表を聞いたのだろうか。緊急時避難準備区域が解除されるというニュースもあった。除染の方針も8月に一応はできている。学校もいくつか再開されるようだ。場所によっては2μSv/時を越える場所もある土地だ。除染が帰郷の前提と言われているし、学校、幼稚園などをはじめとして地道な除染作業が進められているようだが、子供達を戻すのは少し早いのではないかと感じる人も多いだろう。これについては以前からくり返し書いているように政府ではなく住民が判断すべきことであり、そのための枠組み、手順を作る必要があると思うのだがあまりうまくいっているようには思えない。

今度は、ビキニ水爆実験の灰をあびて多くの乗組員が被曝した第5福竜丸の事故に関わった科学者に武谷さんと編集者がインタビューした記録である。目次は、次のとおり。

  • はじめに -原子物理学者のメモ- (武谷三男)
  • 水爆の灰はどのように飛ぶか (和達淸夫)
  • マグロはどうなる -日本の漁業と関連して- (中村廣司)
  • ビキニ患者主治医の一人として(三好和夫)
  • 放射線病とはどんな病気か(中泉正德)
  • 放射線はどのように危険か-放射線生物物理学的立場から- (西脇 安)
  • 船やマグロの放射能をいかに測定したか(山崎文男)
  • ビキニの灰はどのように分析されたか(木村健二郎)
  • (氏名以外は、原書の旧漢字を適宜修正している :注)

    この本に一番印象づけられたのは、広島・長崎よりも福島で起った事に近いという事実である。山崎博士は、次のように言っている。

    「広島、長崎は爆発の瞬間に出た放射線にやられている。レントゲン単位にすればたいへんな量です。今度のは爆発したあとからの核分裂生成物による放射能の害です。その点広島の場合と違う。広島の場合は核分裂生成物はほとんどなかった。しいて求めれば、長崎のときに西山地区---爆心の少し東の方ですが、その辺に降ってきた雨にある。確かにかすかな影響を見せたと考えることができますが、それでも、今度のようなものじゃないのです。」

    また、放射線医学が専門の中泉医師は次のように語る。

    「もちろん時間的配分が問題で、八〇〇レントゲンが一年間にかかったのでは死なないでしょう。しかし、一度に連鎖的に、八〇〇から六〇〇全身にかかってしまうと死ぬ。広島、長崎が大体その通りです。今度のは二〇〇以上、だから外からだけでも相当です。その上、灰が身体の中から放射線を出している。しかもその灰が、一番放射線に対して弱い骨髄のところに大部分沈着しているのだからなお悪い。この点が広島や長崎の原爆患者と違う点ですね。広島、長崎は外からだけやられて、灰は身体には影響がなかった。放射能の灰が降ったということは見出されているが、医学的な影響はまずなかった。今度はそうはいかない。尿を分析してみると放射能がある、それで身体の中に灰が沈着していることがわかったし、また甲状腺にヨードが沈着し、それからガンマ線が出ているということを患者について説明しましたから、体内への沈着は確認できた。福竜丸の放射能を測って見ると放射能が相当はやく減衰しています。それにやはり生物ですから排泄が行われる。ですから三月十四日までに、身体に入った灰の放射能が物理学的に減衰している以上に、生物学的に排泄ということで減っているわけです。・・」

    それから、この本は面白い。それぞれの科学者が、みんな見識が高く、分りやすく説明してくれる。また、さすがに時代を感じさせる雰囲気がよい。どことなく、初代ゴジラ映画の頃の科学者の姿が浮かんでくる。そういえば、ゴジラはこの事件に触発されたところがあったはずである。僕は、原発の事故を暴れ出したゴジラに例えたが、そういえば、ゴジラは原子力によって開かれた時代の正負両方の側面に対応するかのように、時には人間の味方をするが、時には暴れる。というか、だいたい暴れているが、時々偶然人間のためになることをする。怪獣を退治するとか。まさに、原子力の扱いにくさを表わしているかのようではないか。

    この本は、1976年の『原子力発電』よりさらに20年以上前の書物なのに、理論的なところはそれほど古くなったという感じがない。むしろ、この時の経過とそっくり同じに今回も事件が推移しているかのようだ。(ただ、線量計はなかったようで、ガイガー・カウンターを使って放射能の強さを見ている。それもまったく数が足りていない事が嘆かれている。原理的に、ガイガー・カウンターでは、放射能があるかないか、あるとすれば強いか弱いかを知るという以上に精密な測定をするのは難しい。放射能の強さを表わすのに、カウントという単位が出てきて少しめんくらうのだが、そういう背景のようだ。すっかり一般化してしまったシーベルトが使われるようになったのは最近だから、単位もレントゲンだ。)たとえば、今度の放射能騒ぎで雨が降ると大気中の自然放射能が落ちてきて、放射能レベルがあがることを初めて知ったが、本書にはこのことがきちんと書かれている。どれだけ放射能にあたってもいいか、体に入った放射能はどうやって排出されるか、外部被曝と内部被曝、海の放射能汚染による食物連鎖による濃縮の問題、放射能雨(水爆由来の)と降雨後に野菜から検出される放射能など、すでにおなじみの題材ばかりである。

    ビキニは水爆なので、原発事故とは放射性物質の飛んだ高さが違うかもしれないが、気象学者が大気圏の風の流れについて説明してくれている。風の向きというのは、高さによって変わるのだそうだ。考えてみれば当たり前の話だ。対流の仕組みを考えてみれば自明のことだ。しかし、図で表わしてしまうと、その地点の風向きはひとつしか与えられないし、コンピューター・グラフィクスで描いた風の動きも層構造までは表現されていない。つまり、天気予報の風向きだけでどちらに放射能が飛ぶかは一概に言えないということだ。原水爆の大気中の実験は、事前に退避命令を出すにしても相当広い範囲を考慮しなければならないことが想像できる。また、「死の灰」の飛散の仕方については火山灰の研究が応用できるようだ。ビキニでは、珊瑚礁を破壊した粉塵が放射性物質を付着させてまき散らされたようだから、まさに似た状況だったかもしれない。

    また、全体に学者の動きが早いように思うのだが、これは場合が場合だからなのだろうか。専門家が翌日には、現地の港に行っているのだ。現地入りをなかなかしなかったどこかの委員とはあまりにも緊急時に対する誠実さが違う。大学に対する期待値も今とは違っていたのかもしれないが。役所との連携も早いし、ともかくすぐ話をしているような印象がある。役所も、住民の気持ちを素直にくんでアメリカと交渉するようなこともしている。何か、お互いの距離が今ほど遠くないのだ。主治医の三好和夫医師の次のような言葉なども、今回の福島の事故ではとんと聞けなかった部類に入ると言ったら言い過ぎだろうか。

    「その点に関してお断りしておきたいのは、医者は人の命を非常に重く見ています。今度の災害でも二十三人が全部死ぬなどということは論外で、中には軽い人があることは当然です。例え二十二人が助かっても一人が死亡するということは、これだけでも十分過ぎる大問題です。個人についても死亡率一〇%はおろか、一%であっても大変なことです。退院することが全快だと考えると間違ってしまうのです。」

    当然、ここを読んで思い出したのは、がんの発生率が少しあがるだけだとのたまった医師達のことである。

    放射線生物物理が専門の西脇博士は、次のように語る。

    「しかし、放射線傷害の少なくとも一部分は現在のところ偶発現象と考えられている。従って許容限界以内ならば安全で、これを超えれば急に危険になるといった性質のものではなく、放射線を受ける機会が増せば傷害の起る可能性もそれにともなって増すのである。

     従って、傷害の起る確率をどの程度にとるかによって許容線量も変ってくるのであって、この点多少の犠牲が出ても止むを得ないとする軍事的立場にたてばいくらでも上げられるのである。しかしながら、一個の生命を対象とし一日一分一秒の命を延ばすためにリンゲルをうち、カンフルを注射して、必死の努力を払う良心的医学の立場に立つ人ならば、出来るだけ注意して少しでも多く不必要に放射性物質が体内に入らないようにしてもらいたい、としかいえないであろう。

     このように傷害の起る確率が完全に零とは考えられないような放射性物質に対しては、最悪の事態を予想して必ず安全係数をより安全な側へととるべきであって、より危険な側へとってはならないのである。」

    万が一、放射性物質を体内に取り込んでしてしまったら、必ずしも皆が放射線傷害にかかるということもないので余り神経を使わないでもらいたいが、だからといって不必要に放射性物質を飲んだり食べたりしてもいいという理屈にはならないとしている。ああ、なんて気持ちよく当たり前のことが述べられているのだろう、と思わざるを得ない。災害が継続中で除染も完全には不可能、といって土地を棄てる訳にもいかない、このような条件の中で、今、ICRPの勧告にある20mSvまでの被曝を許容する方向で検討が進んでいるらしい。東京でも地域によっては1mSv/年を超える所があるかもしれない。つまり、法律を守るのが困難になってしまったので法律を変えておこうということだと思う。これは、間違っていると僕は思う。なぜ法律にしてしまうのだろうか。1mSvの基準に近づけるべきことをICRPですら勧告している。これを守れない事態を招いた東電は、自らの責任で除染をすべきなのだ。本来は。自分で出したゴミは自分で拾うのは当然だ。背負いきれない責任については国が援助をするということまでは仕方ないと思う。いくら大企業だとはいえ、汚染の範囲が広過ぎる。しかし、予算にも限りがあるし、そもそも援助するのは、1mSvの基準に戻すためであり、現今の状況を合法にするためではない。必要なのは、実現不可能な日程表の代わりに、国と東電と自治体、住民の役割分担表とスケジュールを明確にする事なのだ。法律を変える必要はまったくない。除染がどこまでできるかを決めるのは住民である。何度も言うが、これはそういう国家だけでは解決できず住民の力を借りなければ解決できない広がりをもった事態なのだ。いつでも、国家が全てを掌握していると思ったら間違う。誤解してほしくないが、ある意味やるべきことは、雪かきと同じなのだ。国が自らの政策のつじつま合わせをすることなど、はっきり言えばどうでもいい。今個々にある放射能をいつどこへ誰が移すのかだけが重要な全てだ。実現可能なプランを提示すること、それが、住民の生活者としてのレベルで可視化されていること(たとえば、放射能が高い花壇をいつやるのか、とか)、それ以上に重要なことは少なくとも「帰郷の前提として」今なすべき事の中にはないのではないか。法律を作るなら、もっと他に作るべき法律があるはずだ。

    ところで、水爆とは何の関係もないが、マグロの体温が26、7度という説明が出てくる。あ、体温あるんだと今更のように自分のうかつさに気づいた。魚が冷たいのは腐らないように冷やしているからで、釣ったばかりの魚は生きているから当然体温もある。氷も溶けるらしい。こんなこと初めて知った。ね、おもしろいでしょ?このような有益な本が、またしても絶版である。岩波新書も膨大な冊数があるので、いちいち在庫はしておけないだろうが、それならば、電子書籍化くらいしてもらえないものだろうか。出版能力もなく、ビジネスとして成立もしないからとお蔵入りにしたままの本が多過ぎるのに、Googleの図書館には著作権をたてに反対するし。いったい、われわれはどこでこうした本を読めばいいのか。図書館で今回も借りたわけなんですがね。

    (10/11 8:30 誤字修正)

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